「羊をめぐる冒険」


 「俺は俺の弱さがすきなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや・・・・・・」鼠はそこで言葉を呑みこんだ。「わからないよ」
 僕は言葉を探した。しかし言葉はみつからなかった。僕は毛布にくるまったまま暗闇の奥をみつめた。
 「我々はどうやら同じ材料から全く別のものを作りあげてしまったようだね」と鼠は言った。
  
                                  〜「羊をめぐる冒険」より〜

 「羊をめぐる冒険」は1982年に出版された、村上春樹氏の3冊目の小説であり、デビュー作「風の歌を聴け」の続編で3部作目となる。

 「この『羊をめぐる冒険』で衝撃を受け、彼の作品を好きになった」という声をよく聴く。確かに、第1人称である『僕』の3部作目であるが、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」に比べると、従来の断片的な作品とは異なり、400ページを超えるこの長編小説は物語性にも富み、読み甲斐がある。僕は「ノルウェイの森」から彼の作品に惹かれていったが、この作品はノルウェイに比べてセックス描写が少なく、また『死』のイメージも『ノルウェイの森』ほど重く、また全体を通しては感じられないかもしれない。
 しかし、この「羊をめぐる冒険」も、冒頭で一人の女の子(誰とでも寝る女の子)の『死』から始まり、鼠の『死』で終わっている。「ノルウェイの森」でも、友人キズキの死ではじまり、直子の死で終わっていた。死と死の間に『僕』があり、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」(「ノルウェイの森」から)という点では、同じかもしれない。

 この小説を一言で言うなら・・・やはりやめよう。適当な言葉が見つからないし、見つかったとしてもその一言がどれだけ信憑性を持ち、我々に訴えかけるかと考えると、僕は自信がない。
 そこで、断片的ではあるが、僕なりの思い、そして非常に共感できて面白いと感じる説を紹介してみようと思う。最後に、新しい何かが見つかるかもしれない。

             @@@@ 羊をめぐる冒険 @@@@ 

 「羊をめぐる冒険」は、先ほど述べたように「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」の続編で、『僕』という第1人称を中心とした小説である。そして『鼠』、『ジェイ』、はもちろんのこと、新しく『星形の斑紋を背中に持つ1頭の羊』、『黒服の男』、『美しい耳の彼女』、『羊博士』、『羊男』、といった主要な人物が登場し、彼ら(彼女ら)がこの冒険の中でのキーワードとなっている。

 この作品で、僕にとっての一番の謎であり、キーワードは『僕』と『鼠』、そして『羊男』との関係である。
 『僕』と『鼠』とのつながりは、このHPの中の「風の歌の意味は・・・」でも書いたが、「風の歌を聴け」では、『僕』の無意識、いわば「古い僕」の役割を担っている考えられる。そしてジェイズバーの「ジェイ」はその両者を引き合わせる役割を与えられていた。

 では、この「羊をめぐる冒険」ではどうなんだろうか? 『羊男』は『僕』にとってどういうつながりがあるのだろうか。『僕』が鼠を探して、そして『星形の斑紋を背中に持つ1頭の羊』を探して初冬の北海道までやってきた。山荘での鼠との再会にたどり着けたのは、美しい耳の女の子の霊感、羊博士との出会い、そして『羊男』の導きがあったからだ。
 山荘で鼠に再会した時、『僕』は鼠にたずねている。
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 「まずひとつは羊男のことだ」
 「羊男はいい奴だよ」
 「ここに来た時の羊男は君だったんだろう?」
 鼠は首を回してぽきぽきという音を立てた。「そうだよ。彼の体を借りたんだ。君にはちゃんとわかっていたんだね?」
 「途中からさ」と僕は言った。「途中まではわからなかったよ」
 「正直言って君がギターを叩き割った時には驚いたよ。君があんなに腹を立てるのを見たのははじめてだったし、それにあれは俺が最初に買ったギターだったんだぜ。安物だけどさ」
 「悪かったよ」と僕は謝った。「君を驚かしてひっぱりだそうと思っただけなんだ」

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 『鼠』が『僕』のもう一人の僕(無意識の僕)だとして、そしてこの会話のように、『羊男』が『鼠』であったとすると、『羊男』も『僕』の一部であり、『僕』の中にふくまれていると考えることができる。
 つまり、『僕』が『僕(羊男)』に導かれて、もう一人の『僕(鼠)』を探すという構図を描くことができるのである。
 ただ、上記の会話の中で、「ここに来た時の羊男は君だったんだろう?」と問いかけているのが気になる。もちろん最後に出逢った『羊男』は『鼠』でもあり、それ故、『鼠』は『僕』が叩き割ったギターの話を知っているわけであるが、『僕』の分身である『鼠』は『羊男』の体を借りて、『僕』を何処に導きたいと思い、そして実際、導いたのだろうか。
 一見して、『羊男』が『僕』を『鼠(無意識の古い僕)』に導いたようにも思えるが、本当はその逆かもしれない。なぜなら、『鼠』はこの「羊をめぐる冒険」で自分の中に1頭の羊を呑み込んだまま自殺する。つまり羊に支配される前に自らの死を選んだのである。北海道の山荘で『僕』が再会した『鼠』は、この世の存在ではなく、もう死の世界にいる『鼠』の聖霊なのだ。だから、『鼠』が『羊男』の体を借りて『僕』に逢いにきたとき、鏡に『羊男』は映らなかった。
 そして、この「羊をめぐる冒険」の更なる続編である「ダンス・ダンス・ダンス」には、もう『鼠』は登場してこないが、『羊男』は登場するのでる。
 つまり、『鼠』は『僕』をこの北の大地、北海道に導き、そして様々なヒントを出しながら、そして『羊男』の体を借りて、『僕』を山荘まで導いた。そこで『僕』を待っていたものは、『僕』の無意識の本当の芯(核)ではなかったのだろうか。
 『鼠』も『僕』の無意識世界の象徴ではあるが、それは『僕』の弱さや古さといった部分であり、無意識世界(集合的無意識)のほんの一部である。『僕』の無意識世界というのは、更に奥が深く、また、闇は漆黒で、限りなく死に近いものではないのだろうか。「ダンス・ダンス・ダンス」に登場してくる『羊男』こそ、本当の無意識の象徴であるもう一人の『僕』かもしれないし、また更に奥深い何処かへ『僕』を導く新たなるホストかもしれない。
 例えば、下の『僕』と『羊男』との会話(滝の近く、橋のわきでの会話)は、『鼠』が『羊男』の体を借りて話しているようにも思えるし、或いは『鼠』でもない本当の無意識世界の象徴であるもう一人の『僕』が顔を出し始めたといえる部分かもしれない。それは続編「ダンス・ダンス・ダンス」で探っててみたいと思う。
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 「君を探してたんだよ」と僕は息をついてから言った。
 「知ってるよ」と羊男は言った。「探してるところが見えたもの」
 「じゃあ、どうして声をかけてくれなかったんだ?」
 「あんたが自分でみつけだしたいのかと思ったんだよ。で、黙ってたんだ」
 羊男は腕のポケットから煙草を出して、美味そうに吸った。僕は羊男の隣りに腰を下ろした。

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 「村上春樹スタディーズ 01」(若草書房)の中で、柘植光彦氏はこう書いている。
 これ(山荘での鼠との会話の部分)は、『僕』が、自己愛のパーソナリティーの一部分をになう分身である『鼠』と完全に決別して、もっと原始的な自我の核であり、自己の存在を不安に陥れるような原初の無意識と出会い、それと対決しなければならない時期を迎えたということを、はっきりと自覚する場面である。(以下略)

 最後の山を下りる途中の場面で、『僕』は黒服の男との対面し、裏舞台(シナリオ)の一部を聞かされる。
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 「なぜ最初から場所をおしえてくれなかったんですか?」
 「君に自発的に自由意志でここに来てほしかったからさ。そして彼を穴蔵からひっぱりだしてほしかったんだ」
 「穴蔵?」
 「精神的な穴蔵だよ。・・・・・・」

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 柘植氏はこの「精神的な穴蔵」を「自分の無意識の底」であるとし、僕は自分の意志で自分の無意識の底に降りていくということを待たれていた、と語る。
 このことは、『風の歌を聴け』の題名の意味でもある、゛風の歌(本当の自分、意識の奥深くにある集合的無意識の声)に耳をかたむけなさい ゛と、かなり同義であることのように思われる。

 この作品には多くの登場人物がありながら、それぞれが『僕』にとって、非常に重要な精神的つながりがあり、その中のいくつかは僕も知らない僕自身であるという解釈は、非常に興味深いものに思えるし、そう考えると、この冒険小説が自分の内面的発見と喪失の物語であるとも思え、僕にとってはますます私的小説になるわけである。

 柘植氏は、村上春樹という作家についても、
 自分のなかに、自己と対話できる親しい分身を設定し、互いにもたれかかるようにして外部の世界とかかわりあっていく、という発想を捨てて、自己の無意識からの語りかけに真剣に耳をかたむけ、それと直面することで真の自分というものの意味を探る。そしてその行為を、世界の意味を探ることと同等であるとみなしていく。これがこの作品世界の発展であるわけだから、この作家村上春樹は、世界とはすべて自己の内部に還元されるものであるべきであり、しかもその世界は、自分の努力によって発展させることのできるものだと考え、そこに小説を書くことの意味を見いだしている
 といっている。
 こういう信念と自己を持ち、物事に対して意味を見いだすことに、僕は改めて強い共感を感じる。

 最後に・・・・
 冒頭で紹介した『鼠』の言葉、
 「我々はどうやら同じ材料から全く別のものを作りあげてしまったようだね」
 これは、「羊をめぐる冒険」から3年後の村上春樹氏の作品「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に大きなヒントを与えていると思う。