バファローズ・プロ野球へ思い |
1979年以前 | ジャイアンツファンだった。母がそうだったし、テレビもジャイアンツ一色だった(今でもそうだが)。 小学校の3年生のとき(だと思ったが)、テレビで「巨人の星」が始まった。それまで、野球はほとんど見てなかったし、それほど興味はなかった。でも、これが興味をもつきっかけだったと思う。 小学校5年、6年と暇さえあれば、ソフトボールを空き地でしていた。大リーグボールは1,2号とも投げ方を真似していたが、当然無理だった。3号は、結構真似がうまくいった。でも、打たれた。 中3の時。1974年、ジャイアンツのV10をドラゴンズが阻止し、長嶋選手が引退した。その年のジャイアンツの最終戦は中日とのダブルヘッダー。優勝決定の明くる日(?だったと思う)ということで、中日は完全に控え中心のオーダーだった。レギュラークラスでは、若手の大島選手(前 日本ハム監督、現NHK解説者)しか出ていなかったような記憶がある。長嶋選手に失礼じゃないかと憤っていた。試合後のセレモニーでの「巨人軍は永遠に不滅です」というくだりでは、とても感動していた。 高校生になったが、やっぱりジャイアンツファンだった。 王選手が714号(ベーブ・ルースの記録を破ったホームラン)は、高2の秋の修学旅行のバスの中で友達のラジオで知った。756号(ハンク・アーロンの記録を破ったホームラン)を打つまでの試合も毎日見ていた。当時の大洋ホエールズのエース平松選手が王選手を迎えたとたん、肩か何かがおかしいと自ら言い出し、降板したのを覚えている。「逃げた」と思ったし、今でも思っている。結局ヤクルトスワローズの鈴木やすじろう選手(漢字が分からないごめんなさい)が後楽園で打たれたように記憶している。 パ・リーグについては、漫画「あぶさん」の影響が大きい。出てくるチーム・選手は、ほとんどがパ・リーグ。当然、南海ホークスが中心。徐々にパ・リーグに関心を持ち始めた。もしかしたら、それまで、「近鉄バファローズ」というチームがあることすら知らなかったのかもしれない。ただ、伯父が近鉄に勤めていたし、普段利用する鉄道は近鉄だったので、近鉄は身近な存在ではあった。(ちなみに伯父はホークスファンでした) 大学生になって、居住地が東京になった。 その年、ライオンズの所有権が西武に移り、ライオンズのフランチャイズが所沢になった。その前年、ライオンズに指名された法政大学の江川卓投手は、「九州は遠すぎる」と言って拒否し、野球浪人になった。当時の(今は知らない。すんません)ルールでは、ドラフトで指名権を得た球団は、次年度のドラフト会議の2日前まで交渉権を持ってたので、「所沢(埼玉県)は栃木県(作新学院所在地)に近いので入れや」と思っていたが、ジャイアンツ一筋の江川投手は拒否した。 そして起こったのが、江川選手とジャイアンツが契約をした「空白の1日」事件。江川選手は、高校生・大学生・社会人野球選手のどれにも当てはまらず、しかもライオンズのドラフトによる契約交渉権は消失している、江川選手はフリーな状態だから、契約は有効というジャイアンツ側の主張だったように思う。 結局、ジャイアンツはドラフトをボイコット。タイガースが江川を1位指名した。ところが最終的に、コミッショナー裁定で「江川選手はタイガースと契約。その後、ジャイアンツとタイガースで江川選手のトレードを行う」という「超法規措置」がなされ、江川選手と小林繁投手のトレードが成立した。 そんなもん許されへんと思った。ただ、ここまでやるのだから、江川選手獲得に必死なんやなと思った。ところが、過去にもドラフト破りの行動をジャイアンツが起こしていることを知った。高校生投手を中退させ、ドラフト外扱いで獲得していたという話だった。これで完璧にジャイアンツファンをやめました。 |
1979年 | 超法規的措置で、江川が讀賣に入団したその年は、悲願のV1を成し遂げた年だった。前年は、ヤクルトが広岡監督で日本一になっていた。(大杉のホームランをめぐって上田監督が長時間抗議を続けたので有名なシリーズ。わたしはその様子をテレビでじっと見ていました。暇だったんですね。) その広岡監督の方針で「守れない選手はいらない」ということでマニエルが近鉄にやってきた。アーノルドも来た。(いい選手でした。代理人としてローズを連れて行ってしまったけど) ガッツ平野選手、モーやん小川選手、和製ヘラクレス栗橋選手、羽田選手、こんにゃく打法梨田捕手、有田捕手、佐々木選手、石渡選手、ジャンボ仲根選手などなど個性派の打線。投手も、草魂鈴木投手、村田投手、井本投手、山口投手、香川投手、橘投手、プリンス太田投手などなど。 前期優勝を平野選手のバックホームで決め、後期優勝の阪急とプレーオフの結果、初優勝。前期優勝の決定試合はロッテ戦だったように思うのだが。そして、優勝監督インタビューでアナウンサーが「阪急の西本監督です」と言ったのに対し「近鉄や」とやりかえしていた。(もしかしたら、プレーオフの1戦目かもしれない。記憶があやふや) そして、ついにV1の決定。前年まではリーグ優勝していない仲間が1球団あった。日本一になっていない仲間が2球団あった。それが、前年のヤクルトの日本一で、リーグ優勝がない球団は、近鉄のみ。日本一も近鉄と阪神だけとなった。阪神に「お先に」と言えるんじゃないか。西本監督悲願の日本シリーズ初制覇となるんじゃないか。近鉄が西本監督にお礼の日本一をプレゼントできるんじゃないかと思った。 日本シリーズと言えば、有名な「江夏の21球」。伝説に残る試合になった。あの日、実家に帰っていた私は、テレビを注視していた。九回裏無死でランナーが出た時には、慌ててラジオの録音を始めた。(その頃はほとんどの家庭にビデオデッキなんてなかった。15〜6万したような気がする) 無死満塁になって打者佐々木(前監督)。何球目かは忘れたが、引っ張った当たりが三塁側を抜けたように見えた。やったサヨナラだ。と思った瞬間ファールのジャッジ。確かに明らかなファールだった。結局佐々木は凡退(三振?)。次打者石渡(現2軍監督)。サードランナー代走の藤瀬(現管理部長)。スクイズのサインにスタートを切った藤瀬を見て、江夏の投球はウエスト。スクイズ失敗で藤瀬はアウト。二死になり、結局石渡は三振で試合終了。藤瀬のスタートが速く江夏が気づいてしまったとか、西本監督がまたもスクイズで日本一を逃すとか、大いに話題になったシリーズだった。(西本監督は大毎監督時代やはりスクイズの失敗で日本一を逃している) ※西本監督は、大毎で1回、阪急で5回、近鉄で2回と計8回リーグ優勝しているが、 一度も日本一にはなっていない。(参考資料) |