無と空の境地に遊ぶ悟りの世界

 みなさんは、「禅」と聞いて、どういうイメージをお持ちですか?
 宗教の一つだから何だか胡散臭いとか、古くさいとか、そういうイメージを持たれる方もみえるかと思います。
 実際のところ、禅の何たるかの中には、歴史的、また宗教的教えも含まれているのは確かですが、僕にとっての「禅」は、決して宗教ではなく、人間としての自分を見つめる一つの手法だと思っています。例えば、本来の自分を知るいうこと。それは実にあたりまえのことにすぎないのですが、あたりまえにはできません。そのあたりまえのことが、非常に難しく、かつ限りなくありがたいことなのだと思います。禅は、死んだら地獄とか極楽とかそういう世界ではなく、この「今」を一生懸命に生きるという事が中心にあると思います。それは、毎日、ひとつひとつの事に一生懸命取り組み、常に自分と対峙して、自分の生を精一杯生ききるということ・・・・(間違った解釈かもしれませんが)。
 偉そうな事を言っているこの僕も、毎日いろんな事を怠けて、時間と多くのものを無駄に生きていますが、気持的には、かくありたい、かく1日1日を生きていきたいと思っています。
 
(悟りを得ずして、禅を唱う僕のような人間を世間では「野弧禅(やこぜん)」と呼ぶようです^^;)。

以下は、学研「禅の本」、PHP研究所「図解 禅のすべて」から、参照・引用させていただきました。
禅 の 心

あるがままに生き、あるがままに存在する。

いったい、何のために生きているのか、ふと、感じる瞬間がある。
本物の自分とは何者なのだろう。
禅は、言葉でそれに答えることはない。
しかし、内なる「知恵」を導き出してくれる。

三 昧(ざんまい)

あれやこれや為そうとせず考えず、仏の姿のままに、ただひたすらに坐る。
ふと、がらんどうになってしまった心に、ありのままの「自然」が飛びこんでくる。
「ただ、ひたすらに」が重要なのだという。

無 一 物

これまで身にまとってきたものすべてを捨ててしまえ、という。
何ものにもとらわれず、縛られず、執着せず、
たった今、ここにいる自分こそが、真実。

生 死

しかし、景色には同一のものはなく、人間はさまざまな思いに振り回されている。
「驚くことはない。素直にいただけばいいのだ。
生きるときは精一杯に生き、死ぬときは死ねばよい」
あるがままに・・・・禅はそう教える。

 「はじめに」
 言葉にはならない境地、言葉で説明できない意味、これらをいかにして体得し、自らのものにするか・・・。禅は、この根元的ともいえる問いから出発した。
 宗教という枠組みを越え、本質を追求したそのあり方を、まずは認識しなければならない。

 「禅の発想」
 禅は、ひたすら坐って、何かひとつ、己の内に真理を見いだすのが目的なのであって、体を痛めつけたり、理屈を覚えるのが目的ではない。だから、それをつかむ方法は挫禅に限らない。労働を通じてでも、武道、芸道を通じてでもいい。それによって、かけねなし、ぎりぎりのところの真実をつかむために、正念工夫をすることが大切なのだ。

 「無」
 無になるというのは、単にそうなったと思いこむのではないということ、無になり、実際に無に帰せられるのであって、単に自分を無意識な有と感じるのではないということである。禅における真の沈思においては、単にあらゆる思考と意欲だけではなく、感情もすべて無くなってしまうからである。それをみずから経験したことのない者には、言葉ではそれが言いかえられるだけで、とうてい言い表すことはできないという事実を、知ることもできない。われわれは、まず、自分が不自由だということに気づかなければならない。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)」
 不立文字とは、「文字を立てず」と読むが、「文字を用いない」のではなく、「文字にしても伝えることができない」ということである。
 悟りの境地は文字で表しえない純粋経験である。従って、文字に書かれたもの、教典や祖師の残した書物や語録にも、一切とらわれてはならないのである。文字でとらえることできないとなれば、非論理的だと思われる人がいるかもしれない。だが、論理的だということは、文字による概念や知識にとらわれるということでもある。
 言葉にして伝えようにも、伝えられないものがある。無理に言葉にすれば、厳密な意味において嘘となってしまう。それは教典においても例外ではない。そこで禅では、一切の文字や言葉による伝達を避けて、釈迦と同じ体験、すなわち座禅にひたすら励むのである。だから、禅では、坐禅の修行が根底であり、その体験を重要不可欠とするのだ。
 不立文字の例としては、掛け軸などに描かれている「○(円相図)」などがある。

 「教外別伝(きょうげべつでん)」
 禅宗では、釈迦の教えを教内(きょうない)の法といい、以心伝心の教えを教外別伝という。他の仏教の宗派はすべて教典を中心とした教学をもっているが、禅の場合は、拠って立つべき教典がない。
 教典や教学以外に別に伝えられるもの、つまり教外別伝のほうが大切で、絶対に不可欠なのである。悟りを得るために、いくら教典や先師の著作やその語録などを読んで勉強しても肝心のところでは、役に立たない。だからといって、それらをすべて否定していいというものでは決してない。要するに、どんな教典にも束縛されない、ありのままの自分の眼をもつことが大切なのである。

 「直指人心(じきしにんしん)」
 これは、「人(自分)の心をただちに指し示す」という意味である。いたずらに、眼を外に向けても時間のムダで埒があかない。あれこれ考えずに、じかに自分の心を見つめよ、ということである。
 では、じかに自分の心を見つめよ、といったところで、心とはどういうものなのであろうか。
 人間の心とは、本来、鏡のようなものである。人間の心は、きれいなものを映すと、それが映される。汚いものを映すと、そのまま汚いものが映る。そのような鏡が人間の心の正体であるという。鏡であればこそ、きれいなものであれ、汚いものであれ、当然、何でも映しだすが、鏡の価値自体には、全く何の変化もない。「般若心経」では、それを不増不減(ふぞうふげん)という言葉で表しているが、その不増不減を忘れて、執着するから、心の鏡が曇ってしまうのだ。その曇りから迷いが生じて、いろいろと悩むことになるわけである。まずは、自分の心を見つめ直す必要があるのだ。

 
「坐禅のやり方」
 足の組み方は、(1)足の裏を天に向けて両足を組んで坐る「結跏趺坐」、(2)左足のみをももの上にのせる「半跏趺坐」がある。結跏趺坐ができないひとは、半跏趺坐でもよいし、普通の正坐で行ってもよい。
1 まず、座蒲(なければ座蒲団の上にさらに二つ折りにした座蒲団)をおき、その上に浅く腰を下ろす。
2 次に右足を左のももの上にのせ、かかとが下腹につくくらいまで、なるべくつけ根のほうまで引き寄せる。
3 そうしたら、左足も同じように右のももの上にのせる。
 両膝と尾てい骨で、床の上に三角形ができる。このとき膝が床から離れてはいけない。体の位置は真中心におく。頭は、あごをひき、左右に傾かないようにする。視線は1m先くらいに自然におとす。口は、軽くむすび、肩は力を抜き、水平にする。背中はまっすぐに伸ばす。腰は、後ろにグッと引く。腹は、少し前につきだし、鼻と一直線になるようにする。呼吸は自然と鼻からの呼吸にまかせ、息は長すぎも短すぎもしないようにする。
 毎日10分でも、20分でも時間を見出し、坐ってみるとよい。