鎮守の森復活ネットワーク参加社寺

加佐登神社 主祭神
日本武尊の像
祭神 日本武尊,天照大御神
由緒 本殿北の白鳥塚は,三重県下最大の円墳で,古くから日本武尊の御陵とされ,本居宣長・平田篤胤らによって,延喜の諸陵式の能褒野墓と考えられていた。この白鳥塚の近くに,尊が死の間際まで持っておられた笠と杖を御神体としてお祀りしたのが,加佐登神社の始まりと伝える。
明治以前は,日本武尊一柱を祭神として奉齋し,御笠殿社と称され,諸病平癒の霊験あらたかであると人々の篤い信仰を受けてきた。しかし,明治六年に現社名「加佐登神社」と改め,同四十一年村内神社を合祀し,村社に列した。
古代この地は景行天皇が,行在所を置かれたという伝承から,高宮の里とも呼ばれ,附近には綺宮(かんはたのみや)塚・宝冠塚・宝装塚など多くの古い塚が残っており,神苑は県下有数のつつじの名所として知られている。
社殿 本殿 神明造  十五坪
社宝 御笠殿社由来記 平田篤胤作・版木
歌軸 香川景樹作
白鳥塚 加佐登神社の北200m,標高75.5mの地点にある円墳で,神社境内にかけて七基ある白鳥塚古墳群中の第一号墳である。
古来ヒヨドリ塚・茶臼山・丸山などと呼ばれてきた。墳丘は,東西780m,南北60m,高さ13.3mあり,円墳としては,三重県下最大である。
古墳は,二段築造とみられ,墳丘全面に葺石が残り,埴輪片も出土している。明治末年には,中央より南西部にかけて横穴式石室らしいものがみられたという。しかし,主体部は中央部にあると思われる。
神事 日時と意味
ヤマトタケル
古事記では「倭建命」,日本書紀では「日本武尊」と表記。訓では,古くは「ヤマトタケ」であるが近年はいずれも「ヤマトタケル(ノミコト)」としている。
ヤマトタケルの最後 東征の帰路,尾張のミヤスヒメと契りを結んだヤマトタケルは,草薙剣をヒメの許に置き去りにして,「荒ぶる神」を討つため伊吹山に向かった。
しかし,剣を手放したことによって枯れの神性は失われ,伊吹の山の神に惨敗を喫してしまう。それのみならず戦傷と疲労のため,ヤマトタケルは伊吹山で昏睡状態に陥ってしまった。
大和への帰郷を目前として,伊吹山で仆れたヤマトタケルだが,どうにか最後の力をふりしぼり,伊吹山をやっとの思いで下る。
ヤマトタケルを撃退した伊吹の山神は,「古事記」では大きな白い猪,「日本書紀」では大蛇となっているが,いずれにしろ彼の敗退は,自らの力の過信にあった。叔母ヤマトヒメとの誓いを尾張の地で破り,彼は霊力をすでに無くしていたのだった。
下山したヤマトタケルは麓に湧く泉の水を口にして,また水に浸して生気をとりもどし大和へ向かうべく道を急いだ。しかしその先はといえば,鈴鹿の厳しい山々だった。
北部鈴鹿の山々を越えたものの勇武の力衰え,杖を頼りに歩を進めるヤマトタケル。「わが足,三重のまがりなす」というほどの,それは苦難の道だった。
東征から遥かに帰路をとって,大和へはもう一歩。しかし能褒(煩)野の地に至ってついに英雄も床に臥す。
   倭は国のまほろぼ
   たたなづく  青垣
   山こもれる 倭しうるわし
ヤマトタケルは望郷の念からそう詠んだが,病は日々に重くなり,やがて能褒(煩)野に没した。その地に葬られたとき,ヤマトタケルの魂は天翔ける白鳥となって大和へ向かい飛び立ったという。
加佐登 昭和17年の鈴鹿市制実施以降の名前で,それ以前は高津瀬村高宮と呼ばれていた。加佐登は,加佐登神社に因んで名づけられた。ヤマトタケルが所持していたという笠が納められていることから笠殿と呼ばれ,「かさどの」の「の」が略されて「かさど」になったと言われている。
伊奈富神社 風景
見取り図
御祭神

主祭神(しゅさいじん) 
保食神大国道命
(うけもちのかみおおくにのみちみこと)

相 殿

豊宇賀能賣命(とようかのうめのみこと)

稚産霊神(わかむすびのかみ)

鳴雷光神(なるいかづちひかりのかみ)

大山祗命(おおやまつみのみこと)

御神徳

保食大神は一切の食物をつかさどられ,ことに私たちの命の根元たる稲の生産豊穣を守護される神様であります。また,大神様は豊受大神(外宮),稲荷大神と同神で,その護神徳の及ぶところ広大無辺にして五穀豊穣,諸業繁栄(商売繁盛),家内安全,交通安全,厄除開運,良縁成就,学業成就,病気平癒等の御霊験あらたかな大神様であります。

御由緒


社伝によれば,神代,東ケ岡(鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現せられ,霊夢の神告により崇神天皇五年勅使参向のもと,「占木」の地にて社殿造営の地を占われ,神路ヶ岡に大宮・西宮・三大神を鎮祭されました。その後仲哀天皇の御子品屋別名の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕え,雄略天皇五年には数種の幣物が奉納され,主祭神保食大神に食大神には「那江大国道命」の御神号を賜りました。降って奈良時代天平年間,行基上人が別当寺の神宮寺を建立され,更に平安時代天長年間には弘法大師が参籠の折,菩薩堂を建立して三社の本地仏を祀り,七島池を一夜にして造られたと伝えられております。貞観七(八六五)年年四月,正五位上より従四位下に進階し(三代実録),延喜式内社に列しております。当時の神領は東は白子,西は国府,南は秋永,北は野町に及ぶ広大な面積でありました。鎌倉時代中頃には正一位に進階し,文永十一(一二七四)年三社に勅額を賜りました。以後「正一位稲生大明神」として武門武将の尊信厚く,ことに鎌倉将軍推康親王は神田田二百二十町歩,北畠国司は社領千石御供田十二段を寄進せられ,また江戸時代元文年間には,紀伊徳川家より造営料銀二十二貫を賜り,三社の大造営をなしております。明治六年郷社,同三十七年県社に列せられ,戦後この制度は廃止され現在に至っております。

獅子舞

当社の獅子舞の歴史は,およそ千三百年前,壬申の乱後天武天皇が戦勝報賽に獣神を埋納されたのに始まり,平安時代天長年間に弘法大師が参籠の折獅子頭を泰製,また承安四年には四頭が奉納されています。現在県下最古の獅子頭(弘安三年銘)も保存されて,その伝統の古さを物語っています。

  獅子舞は三年に一度,即ち丑辰未戌の年の二月七日より四月一六日まで稲生町内閣地区を歴舞し,或いは各家庭の厄除,家内安全の御祈祷(門舞)をして回ります。獅子は四頭(大宮・西宮・三大神・菩薩堂)で,舞には濫觴の舞(ダンチョ)・中お越しの舞・扇の舞・紙扇・鳥とび・花の・紙扇・鳥とび・花の舞・起し舞と口取による湯立・田遊があります。その神役には神主・御先・御頭・後舞・口取・笛・太鼓等総勢二十名がこれにあたり,勇壮な舞が披露されます。昭和三十七年八月,県の無形文化財に指定されました。なお,毎年一月一五日の御鍬祭(舞年は二月十五日)には一頭で舞う。

三宅神社 国常立之命外23神の神々を祀る。

本州の国司宮所在の地にて屯倉をおかる困て三宅の号あり,官幣を当社に納め給ひし故総社と通称す。

桃林寺

本尊は釈迦坐像

平重森次男資盛の道場として創建された京都東山の大本山東福寺の禅寺。創建は1181年

国分天神

菅原神社

主祭神
菅原道真公
社伝によると,この木造天神座像は菅原道真自身の像(自作)で道真の近臣だった三重郡釆女の豪族が賜り,久安三年(1174年)に社殿を建立,御神像になったといわれています。
木造神像は,高さ51.4cmで檜の一本造り。うねりの強い上下の瞼の刻線や,厚い上唇の表現に古様を留めますが,なで肩の体躯に衣文を刻まないなど,平安末期の神像に通じた表現が見られます。