ナイジェリアの中部高原地帯ジョスの街から外れたところで取った伝統的な、アフリカ人住居。アフリカ人の全てがこのような原始的な家に住んでいるわけではない。都会に出れば近代的な住宅は幾らでもある。マンハッタンにある高層ビルデングすらある。
私はラゴスの雑踏と悪臭から抜け出して、このジョス高原に来るのが好きだった。花は咲き乱れ、奇怪な形をして岩山が沢山あり、それに住んでいる人々も穏やかで、人懐こかった。
これの写真はナイジェリア北部の大都会カノーの街角で撮った肉屋の写真。回教徒である彼らは豚肉は絶対に食べない。これは羊の肉である。角切りにした羊の肉を串に刺し、「スイーヤ」と呼ぶ、一種のシシカバブにする。道路わきの直径2メートルぐらいの土盛りの上で炭焼きする。それに唐辛子をまぶして食べる。一串し、原地価で1ナイラ (350円)くらい。仕事が終わって、私もよく買って食べたものだ。私が外国人であるために、恐らく現地のナイジェリア人が買う5倍ぐらい吹っかけていたに違いない。
これはナイジェリアでのオートバイの新機種の技術講習会を開いた時の情景である。ナイジェリアではオートバイの修理は街の木下で、道具箱一つで修理するメカニックの仕事だった。6,7歳から、完ぺきな徒弟制度で無給で親方から修理を習う。10に近い地方語で私を含め講師が英語で話し、それを通訳が次から次へと翻訳する。後ろにスズキのポスターあり。赤い服を着ているのは我々の助手アキントラ。いい奴だった。ナイジェリア人では無く、シラレオネ人だった。私はこの仕事が実に好きだった。彼らもよく勉強したし、頭も良かった。
これもナイジェリアの中央高原ジョス周辺の部落で撮った写真。私は約6年間にわたり、ナイジェリアの奥地、マドグリ、カッシナ、ソコトをフォルクスワーゲンのトラックに乗り廻って歩いた。今でも信じている。あれだけアフリカを深く廻って歩いた数少ない日本人の一人だと。そこで見たり、知り合ったりした人々がその後の私の人間形成にかかわったと思うと、皆大切な人だったわけだ。
ナイジェリアの何処かで。写真を撮るから一緒に入れと言うと、皆喜んで入ってくれた。場所によっては、特にジャングルの奥深い村落では、子供達と一緒に写真をとっているとおばあちゃんが飛んできて、止めろと言う。写真を撮ると魂を吸い取られると言う迷信は何処にでもあった。アイボリーコーストでも同じだった。
これ何処の国か判りますが?そうです。リビヤです。リビヤのレプタスマグナにある古代ローマ時代の植民地にあった劇場。後ろはアフリカから見た地中海。中央で名優の振っているのは私。リビアにはサプラタ、レプタスマグナとローマにある古代ローマの遺跡以上によく保存されたローマの遺跡がある。
Nostalgic Africa

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私は1979年から1985年前の6年間、ホンダからア
フリカ駐在員事務所長としてアフリカ各地を訪問す
る機会を得た。この巨大大陸には50数カ国あると
言われているが、40ヶ国以上を訪問することが出来
た。当時実に辛い海外勤務であったが、今考えてみ
ると、私のその後を大きく変える貴重な経験を与え
てくれた。このギャラリーには、リビアでの古代遺跡
での一枚の写真を除き、全てナイジェリアで撮影し
たものである。
既に20年近い年月が経過しているがこの、写真に
出てくる人々は、今でも鮮明に記憶しているし、彼ら
も私を覚えてているのではないだろうか。皆、恐らく
二度と会うことの無いアフリカ人である。然し、私の
人生にかかわった人々である。