本照寺 五百有余年の歴史

    開基   明円

 明円は、室町時代の中頃、高田本山第十世真慧上人が関東より一身田の地に本山を移された時、いっしょに来られた弟子のひとりである。
 真慧上人は北勢の村々を歩かれ、お念仏の法座を広められたのであった。この地においても同様に、人々の強い願いによって、塩屋村63人の檀那が連判して明円に頼み、塩屋の古里に来てもらうことになった。そして、粗末な道場を初めて開くこととなる。本照寺は、ここにその基をたどることができる。
 しかし、しだいに世は乱れ、戦国の世へと移り変わっていく。寛正年間(1460〜1466)の頃には、稲生三郷(西村・成光・塩屋)にも、弓矢を持ったもの、麦藁を甲冑としているものなど、人々は薄氷を踏む思いの毎日であった。塩屋は、古里の四方に要害の土手をを築き、池塘を構え、民家は一処に集まって身を寄せあっており、明円も草庵に移り住むこととなる。朝、共にお念仏を唱えた同朋であっても、夕べにはその命さえわからぬという無情の世であった。
 明円という名は、文亀3年(1503)真慧上人よりいただいており、その時の野袈裟(葬儀の棺をおおう法衣)には、「文亀3年3月16日 塩屋道場直参衆 釈真慧法印書之」とある。
 寛正6年(1465)入寺してより40年間住寺し、永正2年(1505)3月8日に帰寂している。



真慧上人



真慧上人直筆名号



開基 明円

第2世  光円

 この頃になると、各所に檀家制度ができてくるようになった。この地においても、本照寺末寺として3つの道場が記されている。
 その一つは、稲生中村道場である。永正12年(1515)の野袈裟・御名号が残っており、宗家は30〜40戸あったらしい。中村とは、現在のこがね園南の住宅地である。ここにはその昔、倉田殿という武勇の達士がおられたという屋敷があり、正徳の頃(1715)中村の西にあたる成光村に出屋敷したとある。西にあたる成光とは、釈迦堂にあたり、現在の南陽寺裏に中村道場跡がある。
 また、塩屋村冨山(山之瀬古)には、禅教道場があった。本山大帳に、塩屋本照寺下と記されており、永正18年(1521)の野袈裟も残されている。
 もう一カ所、稲生西村鍛冶屋垣内道場も、本照寺末寺とある。野袈裟は、天文16年(1547)正月28日のものがある。
 光円は、弘治元年(1555)まで51年間住寺した。

    第3世  円定

 室町時代末期より、安土桃山時代の慶長7年(1602)まで、39年間住寺した。

第4世  専悦尼

 慶長15年(1610)まで、9年間住寺した。

第5世  光雲

 元和元年(1615)まで、6年間住寺した。

第6世  浄円

 この頃まで、寺は古里の清兵衛屋敷(現在の土宜秀雄氏宅附近)の小さな草庵が住家であったが、この時代に福楽寺の西隣に屋敷替えして、5間(約10m)4面の本堂が建てられ、ここで春秋を送ったとある。
 また、それまで民家は「古里堂脇に土まんじゅうのように(塩屋縁起翁草より)」集落をなしていたのであったが、しだいに山之瀬古・河原・大山へと出屋敷が始まり、古里より東方南北へと広がっていった。
 浄円は、元和9年(1623)まで、9年間住寺した。

第7世  意信

 寛永8年(1631)まで、9年間住寺した。

第8世  栄伝

 寛永14年(1637)まで、7年間住寺した。

第9世  伝察
    (定信)

 伝察は、尾張長島城主の一子で、一向一揆の時に落城してのち、16才で入寺している。 俗姓は藤原氏にして、二つ引きの紋である。現在の姓と寺紋は、ここに由来している。
 また、現在の御本尊、阿弥陀如来は、寛永19年(1642)に、疋田源惣右衛門の父7回忌の報謝のために寄進されたものである。3尺の下品上生の立像にて、運慶の弟子安阿弥の作といわれている。
 寺号本照寺は、本山第16世尭円御代の慶安4年(1651)8月27日に頂いた。
 寛文8年(1668)には、古里より大山へ屋敷が移され、東西に長く60間(約110m)、南北揚々として110間(約200m)におよぶ今の寺院境内ができあがった。
 またこの時代、古里より大山に出屋敷してより30年後の正保元年(1644)正月22日、古里より野村へ出屋敷している。野村は、大山の北1qの所に広がる集落である。昔は、鴻鵝野(こうがの)といって、白子注連懸(しでかけ)より神戸安塚までの野原であった。新しい村は、東西へ1町(約110m)余り、南北へ2町(約220m)ほどであった。民家の15戸は本照寺同行であり、他に稲生より出屋敷した3,4戸は、成泉寺と真言の同行である。
 正保4年(1647)正月11日、白子新田野村へ紀州藩白子代官所より、新田ゆえ年貢の取り立てはしないということ、ただし、祓川池の堤を守ること、道橋の繕いをすること、村から村への人足を出すこと、紀州藩主は鷹狩りが好きで鳥の見張り役を置いているが、餌は本郷(白子)より届けるので管理をすることという証文がだされている。
 伝察は、延宝2年(1674)まで、43年間住寺した。

第10世 霊察

 霊察は、東京の増上寺において10余年勉学のあと、入寺した。
 この時、今の東之山の境内地に、6間半(約12m)に4間半(約8m)の庫裡を建てている。
 また、稲生西村鍛冶屋垣内道場には、古い野袈裟とともに、本山第16世尭円上人の御真筆にて、天和2年(1682)5月28日本照寺下と書かれたものがある。
 貞享4年(1687)、37才の若さで寂し、9年間の住寺であった。

 



本尊 阿弥陀如来像



元鍛冶屋垣内道場の
阿弥陀如来像

    第11世 円融

 大山へ屋敷を移して30余年後の元禄15年(1702)、本堂の柱立が始まった。
 当寺開基明円の御影一幅が、稲生成光村、渥美瀬兵衛両親の報謝のために、正徳4年(1714)7月15日に寄進された。この一幅は昭和57年に表具し直して現存する。
 この時代より、200年余り前に開かれた禅教道場と本照寺との間に、本末の争いが3回にわたってあったが、ともに本山対面所において和解し、本照寺直檀那となっている。そして、この道場の本尊阿弥陀如来座像と聖徳太子像(一つの御逗子に二体収まっている)は、本照寺本堂に安置されている。毎年12月19日には、禅教同行の7戸が当番順にお供えをして、報謝のお念仏の法座が今日も続けられている。同行7戸とは、河原の樋口徳夫・樋口満・樋口国雄・樋口充典・樋口種美宅と、古里の中野義明・中野一郎宅である。
 円融は、正徳5年(1715)まで、28年間住寺した。



元禅教道場の
聖徳太子像と阿弥陀如来像

第12世 融弁

 融弁は文学に通じ、史跡を記録した「塩屋縁起翁草」を箸した。この翁草は、本照寺歴代500年の前半を綴るにあたっての唯一の史料である。
この中に「塩屋八景」と題したものがある。
  
   古里夕照
  咲(えみ)含む花よりゆり粉団子哉
   堂脇晩鐘
  鐘の声松に染めけり一時雨
   高浦帰帆
  帆柱に蝉の抱きつく日和山
   南山晴嵐
  わらよわらよ時雨縫込木葉哉
   東山秋月
  是や此月に御意得る東山
   太山落雁
  雁がねの壱歩がすだく太山浦
   北山夜雨
  百性や葉花を相手に稗団子
   塩屋暮雪
  口惜や貧家の雪は酒にもれ

これは、近江八景をもとに塩屋の風景を詠んだものであり、平成8年(1996)の女人講90周年記念碑として山門横に建てられている。
 また、この時には、境内に4間半(約8m)と2間(約3.5m)の瓦葺き隠居が建てられた。明和5年(1768)、83才で寂した。

 

第13世 大忍
    <音響院>

 境内山門前の石橋は、宝暦8年(1758)7月、中組・樋口善七氏が寄進された。善七氏は、当時このあたりの地主のひとりである。参詣者善男善女のお念仏の音声がしみこんでいるようである。
 また、庫裡の前に角形に剪定されているサザンカの木も、いつの昔から古木となっているかは計り知れないが、おそらくこの地大山へ出屋敷した頃から育ったものであろうと思われる。緑に包まれた境内の一木にすぎず、他の木々と共に自然と育った歴史が感じられる。
 安永5年(1776)4月8日、45才で寂した。

 

第14世 忍海
     <柔順院>

 享和2年(1802)、本堂が再建された。旧堂には、この時の棟札があがっており、昭和60年(1985)に鉄筋コンクリートで新築されるまでの180年の間、風雪に耐えていたものである。境内の「清浄水」の石は、寛政10年(1798)につくられたものである。
 文政11年(1828)11月1日、63才で寂した。

第15世 忍城
     <恩恭院>

 忍城は弘教の念強く、宗学を修め、各地に布教に出た。本山には、1,6の日に必ずかごに乗って出講し、本山第20世尭煕上人の幼少の頃は、講義にあがっている。このかごは、現在、稲生郷土資料館に出展している。
 晩年は、教義上の論争の裁断に骨身をけずられた。
 慶応2年(1866)9月17日、69才で寂した。

第16世 輪静
     <転法院>

 本山の講師、学術舎の役職についている。
 明治37年(1904)8月2日、76才で寂した。

第17世 忍静
     <超勝院>

 明治18年(1885)9月より明治20年(1887)4月まで、稲生小学校に奉職し、その後村役場の書記を長らく努めた。また、同時に本山宗務院議員を務めた。
 大正初期、境内裏山のヒノキ材にて書院の新築をしている。
 大正9年(1920)12月16日、57才で寂した。

    第18世 光遠
         <無量院>

 光遠は、高田本山宗務院事務局員を務めた。
 昭和6年(1931)庫裡を改築する。
 昭和17年(1942)2月24日、45才で寂した。光遠没後は、坊守四女子が寺務を務める。
 第二次大戦中、金物供出にあって仏具や金火鉢ち共に梵鐘を供出したため、昭和26年(1951)、梵鐘を新しく鋳造した。

 



第17世 忍静



第18世 光遠

第19世 大延

 亀山市布気町清福寺より、昭和29年(1954)入寺した。
 昭和36年(1961)、本堂向背の縁を改修し、親鸞聖人700回遠忌大法要を厳修し、また、昭和48年(1973)には、本堂後門などの改修を済まし、聖人生誕800年大法要を厳修した。
 その後、本堂を鉄筋コンクリートで新築するとともに、山門・塀・園林館(集会所)を整備し、昭和60年(1985)3月31日、本堂新築落慶大法要を厳修した。
 庫裡は、昭和59年(1984)と平成3年(1991)に北に別棟を新築した。そして、平成12年(2000)に庫裡の台所を改修し、平成13年(2001)に小屋を住居として改築して棟続きの屋敷が完成した。
 また、子ども会活動にも力を入れ、昭和32
年(1957年)に本照寺子ども会を結成し、さらに北の林野をグランドとして整地し、ソフトボール活動や地域のスポーツ活動に開放した。
 平成16年(2004)、開基明円上人500回忌法要を営んだ。
 平成22年(2010)、鐘楼堂を新築し、4月4日親鸞聖人750回遠忌大法会並びに鐘楼堂落成慶讃法会を厳修した。平成27年3月27日、住職を辞した。平成30年(2018)2月8日、85才で寂した。

    第20世 忍英
         <現住職>

 昭和31年(1956)、前住職の長男として生まれた。昭和43年(1968)得度し、市内の小学校に勤務しながら寺務に携わった。平成26年(2014)4月に退職し、平成27年(2015)3月27日、住職を拝命する。忍英の長男・俊玄は平成11年(1999)、二男・顕誓、三男・剛圓は平成18年(2006)に得度した。


    第21世 俊玄
         <後住職>

 昭和61年(1986)、現住職の長男として生まれた。平成11年(1899)得度し、日本郵政職員として勤務しながら、寺務を手伝う。

 平成28年(2016)9月、離れを新築し、妻子とともに住まいしている。
 


鐘楼(大延 画)


旧鐘楼堂



第19世 大延
  

本堂

                新鐘楼堂


山門



園林館

 

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