伊奈冨神社で見られる碑

 伊奈冨神社は、境内が広く保存されており、しかも神徒の人々の奉仕や文人の参詣者が多かったことから、文学碑・記念碑・案内碑等が他社と比べても多く残されている。

 1 伊奈冨神社庭園

  昭和五七年四月二七日 指定

    伊奈冨神社

 この庭は自然湧水で、池の中には島が七つあるので「七島の池」とも言われ、東西七○m・南北一五m・水深三○〜七○pに及んでいる。島は西から二番目が最も大きく、橋が架けられ、小さな祠跡がある。室町時代の作と言われる「勢州稲生村三社絵図」にも描かれている。日本最古の「七島式庭園」として保存状態も良く、価値も高い。

  平成九年二月    鈴鹿市教育委員会

2 七島池の碑

 表  七島池 日本最古の庭園

 裏  坂 ^一

3 鈴木庄九郎歌碑

 場所 伊奈冨神社参道北側で本堂の近く

 表  七島の 御池のほとりに 鎮座ます 五穀の神を   祀る村人

 鈴木庄九郎は、元稲生村長である。鈴木治徳の父にあたる。

4 佐野昌邦歌碑

 場所 伊奈冨神社拝殿の西参道にある。

 表  さと人の ゆきかふかほも てるばかり 伊奈冨のやしろつつじ咲きけり (「咲きたり」の誤記)

 昌邦は、算所の神主である。算所の墓碑はあるが、後代は近くに住んでいないという。明治二九年刊行の「伊勢名所和歌集」に出ている。昭和六三年四月に建碑される。

({稲生郷土誌} 二九八ページ 参照)

5 吉崎金弥歌碑(錦谷が雅号)

 場所 社殿の裏

 表  紫のかさね羽衣 かけしごと みやまおほいて つつ   じ群れ咲く

 先祖は一色で、父は野村に住み、村長をしていた鈴木八弥と母とが兄弟だったので、稲生へはよく来ていた。それで、稲生を詠んだ歌も多い。稲生小学校の教頭としても活躍し奉仕した。

6 獅子祭りの碑

 場所 大宮の北西で、招魂碑の南約一○○mのところで通路の西側

 表

  邦俗木を彫り 桟猊の面に擬し 舞を捧げ以て神を祀る民の為に邦を攘(はら)ひ福を祷(いの)る称して獅子頭といふ謹んで旧記を按ずるに 伊奈冨神社伝ふる所の獅子舞は 僧空海の作る所なりと其の後 高倉帝亦四頭勅納したまふ 皆稀世の珍なり凡そ勢国の神社は概ね此の物を蔵す 而して本社蔵する所は 殊に霊物と為す式年大祭には 山本・中戸・箕田等 三獅子頭皆焉(ここ)に臻(いた)り倶に舞曲を本社社殿に奏し 著(あきらか)に恒例を為せるは蓋(けだ)し以(ゆえ)有るなり明治維新百度咸(みな)変り この礼も亦行はれざる有り邑人磯部久二郎深く之を慨(なげ)き 京浜の間に奔走し 大谷氏等に就き金を募り 以て之に充て此の礼に資す乃ち永く廃絶の患莫(うれいな)きを得たり磯部君の此の挙は 廃を興し 民を福する者と謂ふべき なり頃(このごろ)里民相謀(はか)り 石を建て 功を永 遠に記す予 前に乏しきを社司に承(う)く 乃ち敢(あえ)て其の顛末(てんまつ)を記すると爾(しか)云う
    白山此盗_社宮司従七位稲生一忠撰文
    洞津 市川進書并篆額

 裏  明治三十六年十二月 有志者建之

桟猊・・・・さんげい。獅子頭。
磯部久二郎・・・・稲生町西瀬古の出身。
稲生一忠・・・・伊奈冨神社の神主として明治末期から勤めた。石川県鶴来の白山此盗_社に勤めていた。

 やや古い姿の碑で、明治三六年一二月に建てられた。獅子祭りのいわれが書かれている。有名な津の書家の市川塔南の書で、碑文は有名な神主、稲生一忠の作ですばらしい。原文は漢文である。

({稲生郷土誌} 二八四〜二八六ページ 参照)

7 真宮禾堂句碑

 場所 もと山の神の焚き火専用の所にある。

 表  神の秘むる いろ紫に つつじ山

 真宮泰竜の号が「禾堂」である。明治一一年(一八七八)、間宮如実の長男として神宮寺に生まれる。高野山大学を卒業し、明治三七年神宮寺住職を継ぎ、高野山金剛峰寺の霊宝館長、東寺の宝物館長を歴任。若くして佐々木広綱(信綱の父)に師事して和歌を修め、後「みどり短歌会」を創立して主宰した。明治三八年一○月、歌集「霊火(くしび)」を出版した。県下最初の歌集で、斬新な装丁で当時の人々に驚嘆された。書・漢詩・南画・仏画を学び、起雲または三峰学人と号した。歴史・考古学・神代文学にも造詣が深かった。短歌一○万首、俳句も革新的で五万句を作った。短歌は三重歌欄の選者をし、東京女高師フレーベル会の選者ともなって指導した。当時としては珍しい吟行を実践した。明治三七〜三八年頃、村の青年を集めて俳句指導をしたこともあった。昭和一六年秋、八束穂句会を創立して主宰した。会員は多く盛会であって、今に続き五百回近い。昭和三一年四月、裏山へ筆塚を、伊奈冨神社へ句碑「神の秘むるいろ紫つつじ山」を建てた。大正一一年に稿を起こして編した稲生郷土史は貴重な作で、今も重要なものである。

 ({稲生郷土誌} 四九二ページ 参照)

8 水谷碧山居句碑

 場所 菩薩堂のすぐ西

 表  禁礼を 見し時すでに つつじ手に

         碧 印 (印は碧山居とある)

 碧山居は、神宮寺、真宮禾堂師の甥で、戦争中、四日市から稲生へ一家で疎開した。陶芸も有名な人であり、稲生公民館では、謡曲・俳句の指導を奉仕していた。この句は昭和二五年の作である。

({稲生郷土誌} 二九四〜二九五ページ 参照)

9 大井好定句碑

 場所 菩薩堂の東

 表  つつじ山 みおやのめぐみ しのび歩す

 真宮禾堂・水谷碧山居両師に俳句の指導を受け、渡辺林南・草野慎軒両師から書道を導される。

10 鈴木信重翁の漢詩

 場所 参道北側、門の近くに、読みやすく解読して書いてある

 表  七島池を拝す   鈴木信重

七島は神聖にして緑樹幽なり  秘境の池水霊験優なり最古の神苑にして玄妙の景 絶勝の林泉宛も仙境

 信重師は、公民館長として長く奉仕し、漢詩作りの講師として活躍し、傑作も多い。

11 鈴鹿市政五十周年記念

 場所 郷土資料館のに南西近く

 裏   つつじと文化財のさと稲生

  われらのさと稲生には旧石器時代から先祖が住み、数   々の遺跡が発見されている。すばらしい文化が栄え、あまたの文化財が残っていて、現在、国指定の重要文化財が五点、県指定の文化財が八点、更に市指定の文化財が一点ある。この栄えたさとを育てた先祖の地をわれわれが守り、更にたくましく生き、花と緑を育て、未来に向かっていよいよ活躍発展していくことを祈念して、この碑を建てる。

   平成四年四月吉日

   わが町魅力再発見稲生地区委員長 樋口 登
                  顧問  平田 雄之助
                       樋口 幸一       
                児島 芳光
                       白木 博幸
                  委員  二十七名                

 

12 菩薩堂前の献額

 場所 菩薩堂の前

 昭和五二年八月、八束穂句会四百会記念・豊御崎短歌会五十回記念として、献句・献詠をして、菩薩堂正面に献額をした。献詠句十六句、献詠歌十四首の額が掲げてある。年を経て、読みづらくなってきている。

 

13 豊御崎神社の碑

 場所 大宮のすぐ東

 表  豊御崎神社御造営記念 六百年 建之

 右側 神殿玉垣拝所 寄附者 大阪市 大井富蔵

 左側 皇紀二千六百年建之

 裏  氏子総代 磯部文助 生川仙蔵 鈴木長蔵
           鈴木八弥 
渥美権右衛門 中川多蔵

    大工棟梁 小野儀蔵 鈴木倉橋

当時神職 赤塚秀三郎

工事担当 渥美権右衛門

 豊御崎神社は、もとは今の稲生公民館にあって、稲生小学校の校舎を初めて建てる時、伊奈冨神社へ移されたという。

 

14 坂^一歌碑

 場所 招魂碑のすぐ前左

表  亡き戦友に 一目見せたや 稲生山の 桜とつつじと 藤の花

裏  平成十年四月 寄進 戦友に捧ぐ 八十八歳 坂^一

15 招魂碑の案内碑

場所 大宮第二の表門の東二○mくらいの所

表  招魂碑 従是二丁

裏  明治三十二年八月建之 寄附者 ○○○ 小西鶴吉

 

16 山の神の碑

 場所 資料館の北

 山の神の碑が四体あり、楷行草と三体とも違っている。もとはこの神社にあった各地区の山の神の碑を集めたようである。

17 招魂碑

 場所 この碑は、神社の北西の小高い所に建てられており、よい位置を選ばれている。

 表には大書で招魂碑と書いてあり、筆者は「陸軍大将勲一等功二級子爵・桂太郎」と書いてあり、すばらしい文字である。その下には、西南の役・日清日露戦没者・大東亜戦戦没者一三二名とある。東側には、正面に護国英霊、その横には昭和四年二月十日吉祥日、東光山主成道敬書とある。裏には、明治三二年三月建之とあり、西側にも戦没者名が書いてある。早くから建てられており、すばらしい筆者でよい碑である。
 毎年、春祭りには慰霊祭が盛大に行われている。後ほど建てられた碑は、おおかた「忠魂碑」と書かれている。

18 三大神への案内碑

 場所 郷土資料館の裏道

 表  三大神旧蹟 木製で是より約百米登る

 よい位置であったためか、古くは戦国の頃、滝川一益の軍に焼かれたり、台風を真正面に受けて社殿が吹き飛ばされてなくなったままである。 

 

19 大井富蔵翁頌徳碑

場所 神社本殿の裏、招魂碑への道の右側

表  大井富蔵翁頌徳碑

     陸軍大将 菱刈隆 書

裏  大井富蔵翁明治元年(一八六八)五月十日本村大字稲生大井與三末氏ノ長男トシテ生ル天資頴敏ニシテ氣概ヲ尚ブ明治三十年(一八九七)大志ヲ抱キ東都ニ上リ岩谷松平氏ニ依リ煙草製造販賣ニ従事ス然ルニ明治三十七年(一九○四)事業ノ官營トナルヤ意ヲ決シテ妻子ヲ桑梓ニ托シ大阪ニ到リ神戸ニ轉ジ苦闘十數年遂ニアスベスト事業ニ着手シ營々辛苦業績碑ニ擧リヨク今日ノ大ヲ成ス翁又敬神崇祖ノ念厚ク大正六年(一九一七)本村伊奈冨神社ニ御神燈二基ヲ献納シ昭和十五年(一九四○)神社別宮豊御崎神社社殿ノ腐朽セルニ際シ數千金ヲ以テ獨力之ガ御造營ニ當リ更ニ菩提所成泉寺整備ノタメ巨額ノ寄附ヲナシ洵ニ報本反始ノ範ヲ垂ル其ノ他教育軍人援護等ノ事業ニ盡力シ其ノ徳行枚擧ニ遑ナシ昭和十六年(一九四一)三月十六日歿ス嗣子文雄君翁ノ遺志ニヨリ本村教育費トシテ金壹千五百圓ヲ寄附セラル信ニ翁如キハ立徳ノ士ト謂フベシ是ニ於テ村民一同翁ノ徳行ヲ感謝シ曩ニ彰徳碑ノ建設ニツキ村議一決スルヤ翁ガ生前其ノ薫陶ヲ受ケシ諸氏欣然費ヲ醵セラル工竣ル茲ニ以テ翁ガ景行ヲ延ブト云フ

神宮皇學館大學豫科教授

正六位勲六等植村芳男撰

昭和十七年一月 八十七翁市川進書

石工  古市市蔵

註 桑梓・・・・・・・・郷里。

報本友始・・・・祖先の恩に報いること。

枚挙に遑なし・・・・非情にたくさんありすぎて数え切れない。

植村芳男・・・・国分町出身。二見に住み、松坂短大の教授。昭和六十三年没。

アスベスト・・アスベスト(石綿)を用いてパッキング(兵器用)を造って      いた。

市川進・・・・・・字は徳夫、塔南と号し、安政三年(一八五六)十二月、津市万町に生まれた。漢詩をよくし、南画・篆画にすぐれにすぐれ書もまた優秀で、五体いずれも妙域に達した。隷書は天下第一の評があり、近郷とて市内にも塔南翁の筆跡を多く見ることができる。九十有余の天寿を全うした。

({稲生郷土誌} 二七三〜二七四ページ 参照)

20 稲生山の長歌(間宮泰竜(禾堂))

   八束穂の 稲生の山の昔より 音に聞えし岩つつじ

  花のさかりを待ちかねて  をちこち人の集いきて

   思ふ心のとりどりに    山ふみならし群つどひ

   花のみやまにたはむれて  帰るを知らず世のことも

   思ひわすらへけふのみに  あきたらめやもあすもまた

   きてはめでてん賤の身も  あたらつつじのまさかりに

   神を頼まん春雨の     あだなる風にあはしめず

   露の命も長かれと     御前にまゐりゐやまいて

   神路の岡をみわたせば   ひの夕ぐれにをしみつつ

   山をへだててまからんと  かへり見すればいその神

   古きみあらか宮柱     太しき立ちて千木高く

   従えましける大神の    くしきみたまぞ紫の花

   けふあすと きてはめでてん つつじ山 

   ふきなちらしそ 春の山風

   千早ぶる  いなふの山の  つつじ花

   神もめでてぞ  みそなはすらん

 

21 大井之丞碑

 場所 参道の入り口

 表 大井遷之丞碑 資源局長松井春生書

 裏

  翁姓ハ大井名ハ之丞大井仙吉ノ長男萬延元年(一八六○)二月八日亀山に生 ル幼ニシテ頴悟二十歳ニシテ既ニ職ヲ本村小學校ニ奉ズ明治二十四年(一八九一)衆望ニヨリ村長ニ擧ゲラレ爾来在職二十数年終始一貫村政ノ為ニ寝食ヲ忘ルコトコノ間同二十五年(一八九二)ニ小學校ヲ改築シ斯民會ヲ創設ス同四十年(一九○七)日露大戦の勲功ニヨリ勲七等ニ叙セラレ青色桐葉章ヲ賜ル同四十二年(一九○九)ニハ縣下ニ率先シテ耕地整理ニ着手シ難工事ヲ成就シテ農業ノ發展ヲ促ス其ノ他招魂ノ建設基本財産ノ蓄積罹災救助資金ノ造成共同浴場ノ設置奨励等其ノ事蹟枚擧ニ遑アラス 茲ニ於テカ村治大ニ革リ縣下ノ模範トシテ幾多ノ表彰ヲ受ク大正九年(一九二○)八月辞任後モ村會議員ニ擧ゲラレ其ノ圓熟達識ヲ以テ村政ヲ誘掖シ産業組合長トナリテハ内容ノ整備充實ヲ致ス又第二回第三回ノ耕地整理灌漑用池改修第二回小學校舎ノ新築運動場ノ擴張等一トシテ翁ノ参劃努力ニ俟タザルナシ殊ニ翁平素敬神崇祖ノ念篤ク縣社社務所ノ新築ニ盡力シ寺院ノ経営補佐ニ竭サル誠ニ村政ノ恩人村民敬慕ノ偉材タリ昭和十年(一九三五)十月十九日長逝セラル高齢七十八才茲ニ村議ハ彰功碑ヲ樹テ翁ノ偉績ヲ不朽ニ傳ヘントシテ予ニ嘱シテ文ヲ作ラシム予尤モ翁ヲ知ル不文ヲ顧ス以テ文ヲ撰ス

昭和十二年(一九三七)九月

 従七位勲六等鼎遒撰

 稲生村長 鈴木庄九郎書

稲生村斯民會

石工 古市市蔵 

註 頴悟・・・・さとく賢いこと。

  誘掖・・・・導き援けること。

  鼎遒(つよし)・・・・中町成泉寺(菩提寺)の先住で、在郷軍人分会長・高           田中学(今の高田高校)の教官をしていた。

  石工古市市蔵・・・・・・道伯町の人で、北町古市家の先祖である。

22 つつじ山の碑

 表  名勝 稲生山の躑躅(つつじ)

 裏  なし

23 縣社伊奈冨神社の碑

 場所 稲生公民館の東門の右

 表  縣社伊奈富神社

 裏  大正九年十月建之 寄贈者 長谷川義郎

   北側 津市 市川 進 書

24 伊奈冨神社遙拝所の碑

 場所 稲生公民館東門の右

 表  稲生大明神鳥居遙拝所

 裏  宝暦七丁丑正月 再建之

南側 従是本宮三丁 東ヶ丘十五丁

 野村から稲生の神社の案内碑かとの説があったが、文面からこの位置が正しいと思われる。筆者名はない。三折していたのを補強し、平成一五年に平田武司公民館長の奉仕により再建した。