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地図から見る稲生の移り変わり
<明治のころ>
このころは、稲生と野村新田と野町新田を合わせて、稲生村と呼ばれていた。
今とちがって、林や畑が多く、人が住んでいる所が少ない。明治2年(1869)には、約300軒約2000人が住んでいたようだ。道は少なく、細くて曲がっていたようだ。
小学校は、今の公民館のところにあったらしい。村役場は、市場の南陽寺にあった。
<大正のころ>
「稲生郷土誌」によると、明治10年(1877)ころ、初めて稲生で蚕が飼われるようになり、大正になって景気がよくなり、生糸がよく売れるようになったので、餌になる桑がたくさん作られるようになったらしい。
小学校は、明治25年(1892)今の場所に建てられた。このころは学校のまわりは、桑畑ばかりだった。
塩屋の北にあった神社がなくなった。これは伊達神社という名前で、大正5年(1916)に加和良に合祀(ごうし)された。合祀とは、それまであった小さな神社を大きな神社に統合することで、稲生では、38社が伊奈冨神社へ、6社が加和良神社へ合祀された。また、大正10年(1922)に、塩屋の加和良神社が今の場所に移されている。
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昭和20年ころまで>
今の稲生郵便局前の道や寺家から稲生へ通じる道も新しくできている。田んぼの耕地整理が進んでいる。
昭和8年(1933)の人口は、2516人なので、約70年で500人ほど増えたことになる。
当時の話を聞いてみると、戦争中は小学校高学年が運動場でカボチャを作って食べたり、イナゴを獲っていって学校のみそ汁のだしに入れたそうだ。桑の木の皮は、兵隊の服を作る材料に使われたので、子どもも皮をむいて学校へ持っていったということだ。
<昭和40年ころまで>
桑畑がすべてなくなっている。このころ畑で多く作られた作物は、タバコやダイコンだった。
小学校の運動場ではダイコン市が開かれて、運動場いっぱいにダイコンがならんだ時があったらしい。また、サツマイモもたくさん作られていた。
戦争中に、鈴鹿海軍航空隊が今の旭ヶ丘に作られたが、戦争が終わって、その跡に大東紡績工場や鈴鹿電気通信学園(今のNTT研修センター)が作られている。
白子中学校が、昭和22年(1947)にできているが、そのころはまわりに何もなかったようだ。
昭和35年(1960)に、小学校のプールができている。この時にできたプールは、今の体育館の北にあった。このプールは、地区の人たちが、ダイコンやサツマイモを売ったお金で作られたものた。
<昭和50年ころまで>
山が大きくけずられて、鈴鹿サーキットができた。しかし、まだ荒れ地のままになっているところも多かった。サーキット道路もこの時に作られている。青少年の森も整備されてきた。また、国鉄伊勢線(今の伊勢鉄道)が開通して、稲生駅ができた。
野町団地地区・鈴鹿ハイツ地区・希望ヶ丘地区・本田技研稲生寮ができた。新栄・池の下も家がたくさん増えている。また、塩屋の北や野町の西にも家が増えてきている。
昭和49年(1974)の人口は1127軒5346人である。急激に人口が増えてきたころだ。
<昭和60年ころまで>
新栄・こがね園・新町・池の下・西の宮地区ができた。鈴鹿ハイツと野町が大きくなっている。
昭和55年(1980)の人口は、1632軒7151人である。
昭和58年(1983)には、稲生山が削られて、稲生高校ができている。
稲生団地地区ができた。塩屋は北に広がっている。人口が増えたこともあって、住居表示が変わった。
国鉄伊勢線は、伊勢鉄道となり、駅名もサーキット稲生駅と変えられた。
小学校は、これまでの木造校舎から、今の鉄筋校舎に建て直された。
鈴鹿市クリーンセンターができたので、それまで使われていた御座池焼却場は使われなくなった。
石垣池公園も整備されている。
<平成になって>
中勢パイパスの一部・こがね園を通る道が新しくでき、稲生高校を通る道が広く整備された。御座池東に御座池公園が整備され、御座池焼却場跡には鈴鹿市水道局が建てられた。
昭和20年ころまでは、土地利用の比率は、田40%・山林30%・畑20%・人家10%程度であったが、現在では、田45%・山林5%・畑10%・人家20%・サーキット20%程度である。
山林のほとんどは、鈴鹿サーキットができてほとんどなくなった。畑は、戦前はほとんど桑畑でったが、戦争が終わると新しい住宅地ができて、畑は少なくなってきている。人口の急増で、もとは14地区であったが、今は25地区に増えている。
ため池は昔とあまり変わらずあり、広い水田での稲作は今もさかんである。
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