戦争と稲生地区の戦死者

 地区の没の一画に同じ形の墓石が並んでいる所があり、前にそれが戦死者の墓だということを聞いたことがあった。墓石には、名前・年齢・戦死した日と場所が書かれていることを知っていたので、これを手がかりに戦争について調べてみることにした。

 

<戦死者を調べるもととしたもの>

1 地区の墓地に行き、戦争でなくなった人の墓石を調べた・・・・・・・・・・合計110名

 

・ 稲生墓地・・・・・・・・・・56名  

・ 塩屋墓地・・・・・・・・・・32名

 ・ 野町墓地・・・・・・・・・・21名 

・ 神社の墓地・・・・・・・・ 1名

    

2 伊奈冨神社の山にある「招魂碑」を調べた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・合計144名 

・ 西南・日清・日露戦没者・・・・・・12名

・ 大東亜戦没者・・・・・・・・132人

3「稲生郷土誌」で調べた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・合計145名

4 地区の寺にある戦没者名簿で調べた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・合計148名

 1〜4によって人数や名前がちがったが、全てを合わせると、153名になった。

 

<戦死者が死んだ年・死んだ場所・死んだ年齢を調べる>

 死んだ年・死んだ場所・死んだ年齢の3つのことをグラフや地図にまとめてみた。

 

<調べたことからわかること>

人数 

  戦  争
明治10年(1877年)   1  西南戦争
明治28年(1895年) 日清戦争
明治37〜38年(1904〜1905年)  日露戦争
昭和12〜23年(1937〜1948年)  141  第二次世界大戦(日中戦争・太平洋戦争)

・ 戦死した年から、第二次世界大戦でたくさんの人が死んでいることがわかる。

  特に、昭和19年(1944年)と20年(1945年)を合わせると、107人死んでおり、全体の約70%にあたる。

・ 場所は中国が一番多いが、国土が広いので分散しているが、ビルマ(ミャンマー)・フィリピンと ニュージーランド周辺は、戦死者が集中していることがわかる。

・ 年齢は22才が19人で一番多く、22〜25才を合わせると64人で、全体の約42%になる。

<地区でどのくらいの人が死んでいるかを調べる>

 稲生小学校の「百年のあゆみ」で調べると、そのころの子どもの人数がわかるので、そのうちどのくらいの人が死んでいるのかを調べてみた。

小学校卒業年(年)  卒業生(男子) (人)   死んだ年齢(才 )  死んだ割合
19  20  21  22  23  24 25  合計
昭和 8(1933) 26           7 8 15  58%
昭和 9(1934)  33       1 9 2   12  36%
昭和10(1935)  37 1   1 11 4     17  46%

 特に戦死者が多かった昭和19年(1944年)と20年(1945年)の人たちの場合だけを調べてみた。この調べ方から、昭和19年と20年に死んだ人は22才から25才が多く、同級生の約35%から60%の人たちが死んでいるということになる。この数の多さにはびっくりした。

<祖母の話から当時の様子を調べる>

@ 戦争中の生活の様子について

・ 弁当は1週間に2回で、イモとイナゴのだしのみそ汁を食べた。

・ 鉛筆は芯を削らず、木だけナイフで削った。

・ おやつは、キュウリやナスを食べた。

・ いつも、もんぺをはいていた。

・ 運動場で、カボチャやサツマイモを作って食べていた。

・ 農家の手伝いをしながら、イナゴをとって、みそ汁のだしにして食べた。

・ 学校にいる時、「警戒警報」が出ると、集団下校になって、草の多い農道や麦や野菜の間を隠れながら帰った。

・ 「空襲警報」が出ると、鉄棒の辺りにあった防空壕の中へ逃げ込んだ。

・ 6年生には、「竹やり班」というのがあった。

・ もっと大きい子は、軍需工場へ働きに行かされた。

A 終戦の時の様子について

・ 天皇が8月15日に戦争で負けたことをラジオで放送したが、その時は「ちわら」を借りに行っていたので、聞くことができなかった。

・  家の裏に「かまぼこ兵舎」があって、そこに兵隊が住んでいたが、その人たちが怒って、手当たり次第に近くの木を日本刀で切り倒していたのを覚えている。

・ そのうち、みんな殺されるといううわさが流れた。