塩屋縁起

翁草子 著

大山 本照寺 蔵

 

月や花や我が身ひとつは筆を点し、和光の天子(聖徳太子)は夢殿の御戸に閉じこもられた。ここに生死解脱の契機にと、五陰注1の塩屋の住まいを出て、宇都注2の山の近くの有様をみると、陰陽の測りしれない心境に至った。しばらく心の目を開くと、天の浮き橋の海面に大日本の文字を拝み、本乗一如のありがたいものであると喜んだ。そうであれば、伊勢津彦神のもとに来れば、阿古根が浦に老人の媛欲是道をさとり、もとの我が家へ帰った。

昨日はぶらぶらと暮らし、今日はのそのそと過ぎた。快楽丸独り遊ぶのは本心ではないと古くいらなくなった紙を取り出し、盲人が蛇に怖じ気づかないように、享保5年1720)の春、窓を開けて73才で「塩屋縁起翁草」を綴ることにした。実に本来人の笑いの種とはあいまいなものだ。

 

注1 五陰・・・・五蘊(ごうん)。諸存在を構成する物質的、精神的な5つの要素。色・受・想・行・識の総称。

色は物質的存在、受は物事を感受する心の働き、想は物事を思い描く心の働き、行は心の意志的働き、識は識別・判断する心の動き。

注1 宇都・・・・鬱(うつ)か?草木の茂っているさま。

 

塩屋縁起翁草 上

 

1 塩屋村出生のこと

 

葛公(かっこう)が仙郷に至るには、きこりの道にたより、桃源郷に至るには魚孫の船が知っている。さて、翁草も塩屋の我が家を出て、私の古里に向かうことにする。

ここに仰いで天神を察し、神は高天原に現れて、伏して地の神をご覧になった美しいお姿は日本にいらっしゃるほんとうのことである。心境は晴れやかで計り知れないものがある。「D嚢抄」注1に説かれているところでは、第九滅劫人寿千万歳の時が、世界がつくられ完成した始めである。日本書紀の神代の巻を見ると、私たちの天父天母は、天の浮き橋で我が国を作られた。さて、私の享保5年1720)よりも昔の1584年、帝人王13代の成務天皇の年に始めて諸国の郡境をわけられた。

まず安芸郡を見つけ、さながら哀れな老人がさしのべた手に人王43代元明天皇和銅5年(712)の風土記を杖について老人の足で猿のように這って行くと、享保5年1720)のその日765年人王62代村上天皇天暦元年(947)、源順能登守庄園を20巻和名に教わり伊勢安芸郡栗真の庄庵芸・多井・服部・黒田・窪田・塩屋の6村に見当たり、今こそ老人の村にやってきた。しかし、行程1里に田舎がない。鼓が浦には、東南の波がたち、奈具の光は西北の山をかがやかす。雲樹叢裏に定めて神仙がある。稲生保食の霊穀は香しい。

 

   題塩屋   陽韻

 塩屋遙かに開く尋覓坊 風土記をつくこの猿行(さるはい)

 和名引くならく老翁が手 贏(かち)得たり安芸塩屋の郷

 

注1 D嚢抄(あいのうしょう)・・・・室町中期の類書。行誉の撰で7巻。1446年成立。事物の起源や語源、語義、仏教に関する事柄など536項目にわたって和漢の古典を引用しながら解説する。

 

2 稲生大明神のこと

 戯れの手品は、種がなくてはできず、手頭子の文字は仕手が書く。但し、昨日の善い苗は、今日実る。この正福田注1に人知れずおいしい霊穀があるのはどういうからくりがあるのかについて、稲生大明神の濫觴(らんしょう)注1風土記に説かれている。その昔、高天が原で天照大神は那江太国道命に願いでて、豊芦原瑞穂国に天から降り立ち人々を豊かにさせるという約束をされて、伊勢の国北山の松林に鎮座された。夜、池の鯉は雲上の竜となり、虚谷の声には赤銅の姿を現す。

D嚢抄」には、天神7代が過ぎて、地神の始まりである天照大神が天を治めて25万歳まで芦原の主であった。3代目で孫にあたる迩迩芸命(ニニギノミコト)注2308542年経ち、5代目の鵜葺草葺不合神(ウブヤフキアエズノカミ)注3836043年を過ごして、人王の初めである神武元年まで保食神(ウケモチノカミ)注4は現れなさらなかった。享保5年(1720)、崇神天皇の時1816年、延喜式神名帳に霊夢を蒙り、伊勢の国北山の林の裏山に美しい光となんとも言えない香りの中に一寸の米粒を見つけた。すぐにこれは神霊が変わったものであると固く信じ、めでたい光に輝く山を宮地とし、なんとも言えない香りのするところに社殿を造った。これを稲生大明神という。または伊奈冨の神とも、稲穂の社とも言い、延喜式神名帳にに聖武天皇の天平元年(729)に託宣して福万大菩薩と称した。すなわちこれは阿弥陀仏の広大な慈悲の心の秘名、伊王留薬の密号であると注釈をつける。

 

注1 福田・・・・仏法僧・父母・貧者など、供養・尊敬あるいは施与されるべき対象。または、福徳を生じる事物を田にたとえていう。

 

   呈稲生神   先

 崇神今日二千年 山頂の光芬瑞夢円(まどか)なり

 聖武の密号宮社の照り 衆名賞するに堪えたり天宜に寄る

 

注1 濫觴・・・・伊奈冨神社の獅子舞の舞い方の1つ。舞方は、1ダンチョ(濫觴)の舞  2なかおこしの舞 3おうぎの舞  4かみおうぎの舞 5とりとびの舞 6オイタチの舞 7花の舞   8おこしの舞 9田植えの舞 の9つがある。ダンチョ(濫觴(らんしょう))の舞は、神主が祝詞(大祓の詞)を奏上し始めると4頭の獅子が、いっしょに立ち上がって舞い初め、時計まわりに一回転する。口取はささらをすって後へつく。

 

注2 迩迩芸命(ニニギノミコト)・・・・天上界を治めていた天照大御神(アマテラスオオミカミ)は地上の国治が乱れている事を知り、孫にあたる迩迩芸命(ニニギノミコト)を地上にお降ろしになる。(天孫降臨) 迩迩芸命(ニニギノミコト)は多くの神を従え地上、日向、くしふるの峰へ降り立つが、そこは深く雲がたちこめ昼とも、夜ともわかないほど暗く、道も見えないありさまであった。そこへ2人の里人が現れ、「御手で千の稲穂を抜いてモミにし、四方に投げ散らせば、きっと闇が晴れるでしょう。」と申し上げた。迩迩芸命(ニニギノミコト)がそのようにモミを撒き散らすと たちまち辺りの闇は解け、晴れ渡ったという。
 
注3 鵜葺草葺不合神(ウブヤフキアエズノカミ)・・・・ウガヤフキアエズという変わった名前を持つこの神は、「海幸彦山幸彦」神話の主人公山幸彦(ヒコホホデミ神)が、海神の娘のトヨタマヒメ神と結婚して生まれた神である。その名については、誕生のときの事情によるものとされる。それは、海宮で懐妊したトヨタマヒメ神が、天神の子は海原で生むことはできないとして海辺へあがり、鵜の羽で産屋の屋根を葺き始めたが、まだ拭き終わらないうちに生まれてしまったというものである。天皇家の祖神とされる神々は、いずれも穀物に関する名前(日、火=穂)を持つのに対して、この神だけが異質な点が謎の一つにもなっている。その謎の説明としては、皇室の支配力の大きさを象徴するために、山と海の霊力が合わさったこの神が考えられ、新たに皇祖神の系譜に挿入されたのではないかという説もある。もしそうだとすれば、観念的に作られた神ということになる。また、父の山幸彦や子の神武天皇に比べ、この神が神話ではこれといった活躍をしていない不思議さもうなずける。

 それはともかく、神話では、生みの母のトヨタマヒメ神が、出産を夫に見られたことを恥じて海宮に帰った後、姉に頼まれてやってきたタマヨリヒメ神に教育され、成長すると叔母であるタマヨリヒメ神と結婚して神武天皇の父となる。というわけでウガヤフキアエズ神といえば、初代天皇であり国の祖である神武天皇の父としての存在が一般的に知られる。では、この神の霊力はどのようなものなのか。先にふれたように、この神の出生は、山の霊力と海の霊力とが合体したところに特徴がある。つまり、海山の恵みをもたらすエネルギーを司る偉大な神格というのがウガヤフキアエズ神なのである。さらに、この神はあまり目立たないながらも皇祖神の系譜の正当に位置する神であるから、基本的には農業神であると考えていいだろう。

 

注4 保食神(ウケモチノカミ)・・・・保食神の出自ははっきりしておらず、一般には大気都比売神と同じ神であろうと推定されている。

大気都比売神(オオゲツヒメノカミ)は伊邪那岐神・伊邪那美神の神産みの時に、最後の方でお産まれになった神である。字としては大宜津比売神、大宜都比売神、などとも書かれている。神裔としては、大年神の子の羽山戸神との間に、若山咋神、若年神、妹若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(夏之売神)、秋毘売神、久々年神、久々紀若室葛根神といった神々がおられる。一方でこの神は素戔嗚神が高天原を去る時に、殺されてしまったとも古事記に書かれている。そしてその死体から五穀が発生したというのであるが、大年神は大国主神の子で、大国主神は素戔嗚神が高天原を去ったあとに出来た子孫なので、この話は矛盾している。

この話が日本書紀では、今度は月読神と保食神とのエピソードになっている。日本書紀の場合は、その月読神の所行に怒った天照大神が「お前の顔は見たくない」と言ったため、太陽と月は昼と夜に別れて輝くようになったとして、昼夜起源の話になっています。

また、これらの神は、同じ食物神ということで、しばしば稲荷神社の御祭神の宇迦之御魂神や、伊勢神宮外宮の神である豊受大神とも同一視されている。ここには、保食神の「うけ」、豊受大神の「うけ」あるいは「うか」、宇迦之御魂神の「うか」という音の共通性もある。

 

3 寸粒籾のこと

 

 稲生大明神は、もともと霊穀の元祖五穀の種の明神である。まことに甘瓜は蔕(へた)も甘く、苦瓜は根から苦い。造られた一寸の米粒は善し悪しはわからないが、淡が道理である。だから、神代の昔から霊穀位置天におよび、威光は四海を照らす。東で作る青苗は葦原に広がり、西で収穫する黄色く色づいた稲は中つ国に満ちている。よくはわからないが、これは皇道鎮護の尊神であり、天下万民の寿命相続の霊神である。

 延喜式には、日本国の朝廷に霊穀が降りてから今まで種子の元神である崇神天皇の霊夢によって、一寸八分の米粒を得たと書いてある。

延喜式神名帳に、風土記を出して御間城入彦五十瓊殖天皇が霊夢を見て一寸の米粒を得たと説明してある。

 

  著寸粒籾   先

 昨天降る奈江の大神 今また造公霊穀の身

 空しく碧松を送る多刧の事 正に報夢に熟(なっ)て米真を現わす

 

4 三枝(さいぐさ)榊樹のこと

 

 口に酸梅をいれると口中に水が流れる。まことに名はその正体を顕し、正体は名に現れ、昨日は保食神であったが今日は一寸の米粒となった。崇神三枝の大榊樹は根花果一木の陰質(たね)であるから、何を取り、何を捨てるか、ただ三幅一対の幣帛注1 社(こそ)尊い。

 延喜式には、大日本伊勢国安芸郡稲生大明神とは、東国が岡(あずまがおか)三枝の榊樹が日本国朝廷の霊穀を厳(かざ)り降りて以来、種子の元種である。

 同じく延喜式によると、東国が岡大明神は稲生三社大明神を祀り、すなわち御内院である。崇神天皇の時、霊夢のお告げによって伊勢の国司に宣示して見せなさった。すぐに一寸八分の米を得て天皇に奉った。天皇は大変感心され、公家に命じて三枝の御幣を下し賜い、すなわち稲生大明神と崇めなさった。(以上は書き下す)

 これは奥の院である。大宮から西に行くこと18町余りで、またこの山の続きに神楽が岡がある。御神事の時はこの山で三社大明神の神楽を奏した。

 

三枝榊樹   庚

 行き尽くす東岡十八程 三枝の神樹群生を照らす

山岡の中庭神楽を奏す 幣帛芬々として天下を守る

 

注1 幣帛(へいはく)・・・・神前の供えるものり総称。みてぐら。にきて。ぬさ。

 

5 稲生三座のこと

 

 梅は厳しい寒さに香しく、桜は暖かくなると咲く。鳳凰は風に舞い、聖人は時に乗る。しかし世はさえずりに変わり、神はつつしみにご繁昌ご繁昌。

 延喜式神名帳にいわく、伊勢の国安芸郡稲生神社三社 云々

 風土記にいわく、大宮注1 は那江大国道命保食神である。西宮注2は地主姫大神(天照大神)、三大神の宮注3は雷神である。

 しかれば、永遠の福田には地主姫もひかげのたすきをし、天のような甘露の水には三大神は九五の雲に乗り、多くの庶民が食べられる善い苗には、大宮も長生不死の霊国の大将軍となり、誠に天地をいっしょに飲み食いすれば、老人の快楽丸も天下の人数分はあり安らかに満ち足りること、その御恩は感謝しきれないものだ。

 

  大宮勅額

一 正一位稲生大明神

 裏書きに勅使世尊寺経朝

 この御額は正三位藤原朝臣経朝の筆である

 御殿御神体 保食神

 御本地 阿弥陀如来 空海が作る

 

一 説法因縁に悲花経を出してむかしこの世界に刪提嵐国という時に転輪聖王がおり無上念王と名付けた。悟りをひらいて阿弥陀仏という西方浄土の教主である。皷音経には乃往過去にこの国を清泰という。父を月上転輪王という。母を殊勝妙顔夫人という。御太子は悟りを唱え、阿弥陀仏と名付けた。

一 御本地の阿弥陀物は、人王53代淳和天皇の時、延喜式に天長年間に空海が彫刻した。

一 空海御誕生から享保5年まで943年になる。

一 空海のご先祖は人王12代景行天皇の御子の稲背入彦命の孫の阿都別命の男豊嶋という人で、第37代孝徳天皇の時代に初めて佐伯の姓をいただいた。稲背入命の兄の日本武尊にお仕えして東夷を征伐して手柄をあげたことで讃岐の国を恩賞として賜った。よってこの地に住まいし、その子孫は長くここの県令であった。蓋嚢抄(あいのうしょう)16巻によると、空海は佐伯氏で讃岐の国多度郡屏風の浦の人である。父は佐伯氏の直系で、母は阿刀氏の人である。夢でインドから聖人が飛んできて懐妊した。人王49代光仁天皇の時代、宝亀5年(774)6月15日に12ヶ月で生まれた。これは唐の太宗皇帝の大暦9年6月15日、不空三蔵がお亡くなりになった日である。よって、空海を不空三蔵の生まれ変わりという。空海20才の時、泉州槙尾寺で延暦12年(793)に出家された。御名を教海という。後に如空と改める。同じく延暦14年(795)4月20日、22才の時、東大寺戒壇院で空海と改める。人王56代清和天皇貞観6年(864)3月27日に、法印注4大和尚位(だいかしょうい)になる。人王60代醍醐天皇の時代、延喜11年(921)10月に弘法大師の贈り名をいただく。人王52代仁明天皇の時代、承和2年(835)3月21日、62才で往生された。

御獅子1頭 空海の作

御獅子1頭 安阿弥の作

御獅子は 鈿注5女神である。口訣注6  当巻の「獅子起源」に明らかにする。

稲生三社の4頭の獅子の中に安阿弥と行基の2作は、寛文8年(1668)に盗賊に盗まれ、今の獅子は新しく彫刻されたものである。

一 安阿弥は、人王82代後鳥羽上皇の時代、元暦元年(1184)、仏師運慶の弟子である。

  元暦元年(1184)から享保5年1720)まで523年である。

一 この御殿に正祢宜が御供物をお供えし、1年間の天下泰平をご祈祷される。

一 この御殿は、御祭礼の時、伊勢神宮別当神の法楽注7の読経がある。

一 この御殿に大祢宜の祝詞祭文を勧められる。祝詞祭文は、中臣祓注8を読むのである。

  祓の文は古事記や日本書紀の中に中臣祓がでている。神武天皇が大和畝傍橿原宮で天下を治められた時、侍臣天児屋根命(アメノコヤネノミコト)の孫の天押雲命(アメノオシクモノミコト)の子である天種子命(アメノタネコノミコト)に命じて作らせたものである。それが中臣祓である。天の罪と国の罪を祓われたのである。

 

  大宮保食神   刪

 金文の勅額大宮山 神体薫馥す保食の顔(かんばせ)

 本地の一刀空海の作 二頭の獅子平閑を舞う

 

注1 大宮・・・・・・祭神は、保食神(うけもちのかみ)   ・那江大国道命(なんおおくにみちのみこと)

注2 西の宮・・・・祭神は、豊宇加能売神(とようかのめのかみ)・稚産霊神(わかむすびのかみ)

注3 三大神・・・・祭神は、鳴雷光神(なるいかづちひかりのかみ)・大山祇命(おおやまつみのみこと)

注4 法印・・・・僧位の最高位で、法眼、法橋の上。大和尚位の略。僧綱の僧正の相当する位。

注5 鈿(てん。でん)・・・・かんざし。

注6 口訣(くけつ)・・・・言い伝え

注7 法楽・・・・経を誦したり音楽・芸能・詩歌などを手向けて、神仏を楽しませること。

 

注8 中臣祓(なかとみのはらい)・・・・大祓詞(おおはらいのことば)ともいう。大祓は、正しくは「オホハラヘ」とよみ、宮中・神宮をはじめ全国の神社で毎年630日と1231日に行われており、自らの罪穢と社会の罪穢を祓い去り、清き明き心に立ち帰って後の半年を雄々しく各自の使命に精励し、心豊かな社会作りをするための神道的行事である。

その起源は古く、祓除(ふつじょ)又は大解除(おおはらへ)と称し、災害疫病等事あるたびに随時行われていました。現在のように6月・12月の定期に行われるようになったのは、文武天皇の大宝元年(701)からである。

平安時代には大内裏の正面にあたる朱雀門前の広場に、親王以下百官が参集し、国民全般の罪穢を祓い除く行事が行われていた。

大祓詞は、先ず建国の由来を説き、かくて天皇の統治せられた国内に国民の過ち、犯せる罪穢が発生したならば、古伝による祓いの行事によって、これを払拭するのである。即ち、天つ宮事以て天つ祝詞の太祝詞事を宣り、罪を祓つ物に付して川に流し、川から海に流し、そこから遠い沖合にある潮流の落ち合う潮の八百合に送り、更にそこから黄泉の国へ放棄するものと考えた。

大祓の原文は、延喜五年(905)編纂を始め、延長五年(927)に完成をみた。当時の法令の施行細則を示した『延喜式』五十巻の中の巻八「祝詞」に集録されている。宮中の祭祀を司る家柄の中臣氏が、大祓の儀式のときに宣読したので「中臣の祓」とも言われている。これができたのは、遠く天智天皇(661671)の時代と思われる。

 

西宮勅額

一 正一位稲生大明神西宮

  裏書きに勅使世尊寺経朝

  この御額は正三位藤原朝臣経朝の筆である。

  御殿御神体 天照大神

  延喜式によれば姫神と号する。地主神ともいう。または、保御魂尊(ウケミタマノミコト)ともいう。

  神代の巻注1に、飢えた時生んだ児倉稲魂命(ミコウカノミタマノミコト)という。「D嚢抄」には、倉稲魂命は宇加神である。諸社に宇賀神を祭る姫神という。

  天照大神は「勢陽雑記」注2に、伊勢の神とは、内外二宮のことである。内宮は、宇治にまします地神の始めである天照皇大神宮である。外宮は、山田に鎮座する天神の始めである天照豊受皇大神である。

  「伊勢郡記」によると、天照は二宮の通称である。大神は、大廟の本来の称号である。内宮は外宮より巽(たつみ)の方角にある。その間は50町である。

  御本地 薬師如来

      地蔵菩薩

  天長年間(824834)の空海の作である。

  薬師如来のことは、中巻に記す。

  御獅子1頭 行基菩薩の作

一 行基菩薩のご先祖は、人王39代天智天皇の元年(662)から7年(668)のころにお生まれになった。俗姓は、高階(たかはし)氏で和泉の国大鳥郡の人である。また、聞くところによると、父は高子(たかこの)貞千世、母は半田の薬師であるという。大鳥の大承の下女である。半田とは里の名である。幼くして剃髪し、広く国を回って念仏を広められた。これが日本の念仏教化の始めである。数カ所に橋を架け、堂塔を建てた。人々は競って往来する人々は必ず礼拝をした。ことに聖武天皇の信頼は厚く、御師匠となられた。また、天平16年(744)に大僧正に任じられた。また天平8年(736)に南インドの婆羅門僧正(菩提僧正ともいう)が来朝して行基と対面し、互いに手を取り合って喜び、笑みを浮かべて行基は、「霊山の釈迦の御前で約束をしたことは本当に忘れられることはなかった。」と言った。婆羅門僧正は、「迦毘羅衛で共に約束したかいがあって、文殊のお顔立ちと見た。やはり文殊菩薩とわかった。」と返答したという。

  行基は御年82才、孝謙天皇の時代、天平勝宝元年(749)2月2日にお亡くなりになった。(百因縁7巻を写す)

  こうして、行基の作である1頭の獅子は、国を回っているおりに稲生の社へ来て、霊亀から養老年間(715724)の頃に彫刻されたものである。

  この行基の作である獅子は、寛文8年(1668)に安阿弥の獅子といっしょに盗まれ、今のものは新しく刻まれている。

  行基の誕生の年から享保5年1720)まで、975年になった。

  ここの年中祭礼は、大宮に殉じている。

 

  西宮大明神   元

西宮の朕筆神礬を彩る 社頭に臨幸す日霊命(ひるめのみこと)

本地の善逝教海の刻 一頭の獅子花元に寄る

 

注1 ・・・・日本書紀巻第一 神代上
第五段 四神出生章 一書その二<第六その一>

伊奘諾尊(いざなきのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)は共に大八洲国(おおやしまのくに)を生んだ。その後に、伊奘諾尊は、「我々が生んだ国は、ただ朝霧だけがあるが、薫りに満ちているのだろうか」と言って、霧を吹き払おうとした息が神と成った。名を級長戸辺命(しなとべのみこと)と言う。別名級長津彦命(しなつひこのみこと)と言う。この神は、風神(かぜのかみ)である。また飢えて気力を失っていた時に生んだ御子を、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と言う。また生んだ海神等(わたつみのかみたち)を、少童命(わたつみのみこと)と言う。山神等(やまのかみたち)を山祗(やまつみ)と言う。水門神等(みなとのかみたち)を速秋津日命(はやあきつひのみこと)と言う。木神等(きのかみたち)を句句迺馳(くくのち)と言う。土神(つちのかみ)を埴安神(はにやすのかみ)と言う。その後に、悉く全てのものを生んだ。そして火神(ひのかみ)軻遇突智(かぐつち)生んだことによって、その母である伊奘冉尊は焼け死んでしまった。

伊奘諾尊は恨んで、「この子供一人と、私の愛しい妻が引き換えになってしまった」と言って、すぐに頭の方ではいつくばり、足の方でもまたはいつくばって、激しく涙を流して泣き哀しんだ。その涙が落ちて神と成った。これが畝丘(うねを)の樹下(このもと、地名)に鎮座している神である。啼沢女命(なきさはのめのみこと)と言う。
 そして遂に帯びていた十握劍(とつかのつるぎ)を抜いて、軻遇突智を斬りて三段にばらした。これがそれぞれ神と成った。また剣(つるぎ)の刃から滴った血は、天安河辺(あまのやすのかはら)にある五百個磐石(いほついはむら)と成った。これは経津主神(ふつぬしのかみ)の祖である。また剣の鐔から滴った血が、流れて神と成った。名付けて甕速日神(みかのはやひのかみ)と言う。次に
C靈速日神(ひのはやひのかみ)。その甕速日神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の祖である。また、甕速日命(みかはやひのみこと)が生れ、次にC速日命(ひのはやひのみことが生れ、次に武甕槌神が生まれたとも言う。また剣の切っ先から滴った血が、流れて神と成った。名付けて磐裂神(いはさくのかみ)と言う。次に根裂神(ねさくのかみ)。次に磐筒男命(いはつつのをのみこと)。ある書では、磐筒男命及び磐筒女命(いはつつのめのみこと)と言われる。また剣の頭から滴った血が、流れて神と成った。名付けて闇龗(くらおかみ)と言う。次に闇山祗(くらやまつみ)。次に闇罔象(くらみつは)。
 その後に、伊奘諾尊は伊奘冉尊を追って、黄泉(よもつくに)に入って、追い付いて共に語った。時に伊奘冉尊が、「吾が愛しい夫よ、どうしてこんなに遅くここに来たのです。私はすでに黄泉国の食物を食べてしまいました。私はこれから休もうと思います。お願いですから、どうか見ないで下さい」と言った。伊奘諾尊はその申し出を聞かず、密かに湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を取って、そ櫛の端を引き折って、松明代わりにして見ると、膿が沸き虫がたかっていた。今、世の人が夜に一つの火を灯すことを忌むことや、夜櫛を投げることを忌むことは、これが元である。伊奘諾尊は大変に驚いて、「私は何も考えずに、何と醜悪で汚い国に来てしまったのだ」と言って、急いで走って帰ろうとした。すると伊奘冉尊は恨んで、「どうして約束したことを守らず、私に恥をかかせるのです」と言って、大勢の泉津醜女(よもつしこめ)を、ある書では泉津日狭女(よもつひさめ)と言う、を遣わして追って留めさせようとした。それに伊奘諾尊は剣を抜いて背の方に振り上げながら逃げた。そして黒蔓草の頭飾りを投げた。これがすぐに蒲陶(えびかづら、葡萄の古名)に成った。醜女これを見て採って食べた。そして食べ終わってからようやくまた更に追った。伊奘諾尊はまた湯津爪櫛を投げた。これがすぐに竹の子に成った。醜女はまたこれを抜いて食べた。食べ終わってから今度は伊奘冉尊が自ら追ってやって来た。しかしこの時伊奘諾尊はすでに泉津平坂(よもつひらさか)に至っていた。ある書では、伊奘諾尊が大樹に向って放尿した。これがすぐ大河と成った。泉津日狭女がその川を渡ろうとしている間に、伊奘諾尊が泉津平坂に至ったと言う。そしてすぐに千人所引(ちびき)の磐石(いは)で、その坂道を塞いで、伊奘冉尊と岩を対して、遂に別れることを告げた。

第五段 四神出生章 一書その三<第六その二>

 その時に伊奘冉尊は、「愛しい我が夫よ、このようなことを言うのなら、私はあなたが治める国の国民を、一日に千人殺しましょう」と言った。伊奘諾尊はそれに答えて、「愛しい我が妻よ、そのようなことを言うのなら、私は一日に千五百人生もう」と言った。そして、「これよりこちらへ来るな」との言って、杖を投げた。これを岐神(ふなとのかみ)と言う。また帯を投げた。これを長道磐神(ながちはのかみ)と言う。また衣を投げた。これを煩神(わづらひのかみ)と言う。また褌を投げた。これを開囓神(あきくひのかみ)と言う。また履(くつ)を投げた。これを道敷神(ちしきのかみ)と言う。その泉津平坂に(泉津平坂と言うのは別に場所を言うのではなく、死に臨んで生き絶える時の事をいうのか)、塞がっている岩を、泉門(よみど)に塞(ふたが)ります大神(おほみかみ)と言う。別名道返大神(ちがへしのおほみかみ)と言う。
 伊奘諾尊は帰って来て、追ったことを悔いて、「私は先ほど醜悪で汚い国に行ってしまった。我が身についた穢れを洗い捨てよう」と言って、すぐに筑紫の日向(ひむか)の小戸(をど)の橘の檍原(あはきはら、地名?)に至って、禊祓いをした。そして身の汚れを濯ごうとして、言葉を発して、「上の瀬は流れがかなり速い。下の瀬は流れがかなり遅い」と言って、中の瀬で濯いだ。これに因って生んだ神を、名付けて八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と言う。次にその穢れを直そうとして生んだ神を、名付けて神直日神(かむなほひのかみ)と言う。次に大直日神(おほなほびのかみ)。そして海の底に沈んで濯いだ。これに因って生んだ神を、名付けて底津少童命(そこつわたつみのみこと)と言う。次に底筒男命(そこつつのをのみこと)。また潮の中程に潜って濯いだ。これに因って生んだ神を、名付けて中津少童命(なかつわたつみのみこと)と言う。次に中筒男命(なかつつのをのみこと)。そしてまた潮の上に浮きながら濯いだ。これに因って生んだ神を、名付けて表津少童命(うはつわたつみのみこと)と言う。次に表筒男命(うはつつのをのみこと)。全て合わせて九柱の神である。その底筒男命・中筒男命・表筒男命は住吉大神(すみのえのおほみかみ)である。底津少童命・中津少童命・表津少童命は、阿雲連等(あづみのむらじら)が祭っている神である。
 さてその後に、左の眼を洗った。これに因って生んだ神を、名付けて天照大神(あまてらすおほみかみ)と言う。また右の眼を洗った。これに因って生んだ神を、名付けて月読尊(つくよみのみこと)と言う。また鼻を洗った。これに因って生んだ神を、名付けて素戔鳴尊(すさのをのみこと)と言う。全て合わせて三柱の神である。伊奘諾尊、三柱の御子に命令して、「天照大神は、高天原(たかまのはら)を治めよ。月読尊は、青海原の広大な潮の全てを治めよ。素戔鳴尊は、天の下の全土を治めよ」と言った。この時、素戔鳴尊はすでに年老いていた。長く鬚が伸びた老人だった。しかし天の下を全く治めようとせず、常に激しく泣いて怒りを露にしていた。それのことを伊奘諾尊は問いて、「お前はどうして何時もそのように泣いているのだ」と言った。それに答えて、「私は母のいる根国(ねのくに)に行きたいと思って、このように泣いているのです」と言った。伊奘諾尊はそれを憎んで、「好きな世にどことなりと行け」と言って、追放した。

注2 勢陽雑記・・・・明暦年間(165558)津藩士・山中為綱が著した。

 

三大神勅額

一 正一位稲生大明神三大神の宮

  裏書きに勅使世尊寺経朝

  この御額は正三位藤原朝臣経朝の筆である。

  御殿の御神体は雷神(イカヅチノカミ)である。

  御本地 不動明王

      毘沙門天

  天長年間(824834)の空海の作である。

  御獅子1頭 春日作

 

  神社が啓蒙するときに日本の怪談故事をだしていうところによると、人王39代天智天皇の元年(662)から享保5年1720)まで、1516年になる。河内の国春日部村に稽文会稽主勲という兄弟の仏師がいた。仏像を刻む技に優れ、この両人は世に認められ、平凡な仏師ではなく、春日大明臣の神仏工になって刻まれたので、両兄弟の名を世間では春日と称した。だから、当社の春日というのは、仏師の名である。ただし、春日大明神の作者ということは、付け加えられた説である。

 

三大神   元

 輪額雲を拏(ひ)く三大神 雷公の玉体雨珍新たなり

 本源の不動大師の作 獅子の一頭春日甄(あきらか)なり

 

6 稲生五社のこと

 

  延喜式神名帳に記されている伊勢の国安芸郡稲生神社三座は、風土記によると、大宮は那江大国道命保食神、西宮は地主姫大神(天照大神)、三大神の宮は雷神である。

 稲生三社の社殿に二社を添えて五社をつのるは座頭の籬屏攷(かきのぞき)か。但し不足にはまし歟(か)次でに説ん。

 勢陽雑記によると、稲生の神津から北へ4里ほど行った乾松山に五社を祭って崇めた。本社は大宮殿と言い伝えられている。日域米穀は、最初一寸八分の籾がこの社へ天から落ち、菩薩堂に奉納された。本社の艮(うしとら)の三大神は雷神である。西宮は地主姫大神(天照大神)、東は八幡、その次菩薩堂は弥陀である。

 

綴五社   真

稲生三社崇神に寄る 三枝を奉納す榊樹のまつり

五社余り有り山頭の晃(ひかり) 正に寸粒と成って生民を活す

 

7 菩薩堂のこと

 

粟稗に棲む飛鳥は一張りの鳴子に追い立てられ、石河に遊ぶ魚鱗は一羽の鵜兵に逃げ去。ただ安楽なのは関貫(かんぬき)のない草庵に篭(こ)もって得手である仏刻をし、勝ち負けなく本領を発揮するほうがよい。

 延喜式によると、菩薩堂の建物は、人王53代淳和天皇の時代、天長年間(824834)に空海がこの他に詣でて、100日御本地仏の供養をなさった時に建立したものである。崇神天皇がお手にされた一寸八分の米はここに奉納されている。

 また、三社大明神の御本地仏を定め賜い、自作の弥陀薬師地蔵不動毘沙門の像をこの堂に安置なさったという。

淳和天皇の時、天長元年(824)から享保5年1720)まで、887年になる。

三社大明神の御神体の会席に来て本地仏の彫刻ということは空海は大変ありがたい高弟で不空三蔵の生まれ変わりである。神仏一致の徳をご存じである聖者の彫刻はおよそ測り知ることはできない。

また、弥陀の御首に寸粒の籾を篭めなさったという昔からの言い伝えだと古老が伝えている。

 

 菩薩堂   陽

天長に臨賀する東国の岡 颯然たる山下碧松の堂

老僧の刻彫五尊木 百箇の香煙上陽に至る

 

 獅子舞のこと

 

豊饒(ほうじょう)の聖人は優曇花(うどんげ)に咲き、豊年の明神は太郎月(1月)に開く。泰平の世の瓊矛注1は国を探出(かきだ)し、稲穂の神聖な矛は村を求得する。ニニギノミコトは天鈿女命(あまのうずめのみこと)を先に立たせ、稲冨の神は猿田彦命を口取りとして丑辰未戌青陽上澣9日塩屋に臨光し、国家安全の太鼓を打ち、氏子延長の笛を鳴らし、花の本には獅子の乱曲を調べ、西収東作の諌鼓は遠く高天が原に響き、白日晴天安楽安楽。

延喜式神名帳では、風土記によると、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいそにえのあめのすめらぎ)霊夢再三におよび、綸○新たに降り、勅会の儀を整え、社頭を刷(かいつくろ)い、遷宮の儀式を○○。

稲生大明神は、延喜式によると3年に一度の大祭がある。3月3日、大宮の神輿、西宮の仮殿御幸4頭の獅子ならびに他の村の末社の獅子12頭以上が3月1日にこの宮へ出仕して御輿のお供をし、そして天下泰平五穀成就のご祈祷をされる。これが昔から3年に一度、3月3日の大祭である。まずその年の正月7日に三社大明神のご神前で初舞いをする。同じく8日に延命寺で舞がある。次の日から3月まで方々の舞所で例年のように舞がある。3月3日、ご神事の後、御殿御殿へ納めるのである。

また、大宮は正祢宜1人、権祢宜1人、祝(のっと)1人、頭人(せんど)1人、神子座(みきざ)1人、西宮も同じく5人、三大神の宮も同じく5人、その他御神役祢宜など24人、その他小祢宜など数人である。

大神宮諸雑事記によると、57代陽成天皇の元慶2年(878)12月、左衛門尉平季衡神祇大祐大中臣惟経卜部権大副兼懐(かねやす)らは、今年3月3日奄芸郡稲生の社の祭日である。

元慶2年(878)から享保5年1720)まで、856年になる。しかし、諸雑事記の記述を考えると、稲生の3月3日の祭礼は伊勢国をあげての大祭礼である。

 

 獅子舞   寒

瓊矛凛々として山碧を照らす 得田家を探り塩屋完し

百々(沓々)打ち鳴らす獅子の曲 天長地久国家団(まどか)なり

 

注1 瓊矛・・・・たまで飾ったほこ。

 

 

 

 獅子起源のこと

 

11代垂仁天皇の時、天照大神が伊勢国宇治の五十鈴の宮に鎮座された後、天鈿女命(あまのうずめのみこと)という女神が獅子の形になって現れ、宇治の東南(たつみ)の山に天から降り立ち、天地四方をにらみ、忿怒(ふんぬ)の形相で飛び踊り、天地の鬼神や悪妖を降伏させた。これが獅子の始めである。

この時、宇治の地主神・猿田彦命が赤面長鼻の姿を現して出迎え、獅子ともに舞をかなでなさった。これが口取りの始めである。

このことはいたって秘め事である。謾(あなど)りに他説は無用である。五天口決である。

静かに浴考えれば、天神の7代十一神の次、5代億々万年治まり、人王の始め神武元年から人王29代宣化天皇の時までは神職として国を治められた。

 恐れながら無絃の一曲はを弾じてみる時、神道は伊勢に宗源吉田に唯一仏教に両部がある。宗源はおのおのの心国常立尊である。この心は天にあっては神、地にあっては霊、人にあっては心である。かく神明より得たる心に私心があればさらに願いは聞き入れられない。唯一はいまだ一念と起こらざる本心である。万端心に出てくるとも本心に移らないのを唯一という。両部は金剛界・胎蔵界の大日である。内宮は胎蔵界で九尊に像(かたど)り、鰹木9つである。外宮は金剛界で五智を表す五輪月がある。

そうして今、三社御神体のてっぺんに空海が来て、御本地仏を彫刻なさったことは、神仏の内証注1が不垢不浄の注2真如の体であるということだ。日が照っても露が晴れないのは神だからである。本地仏の如来が仮の姿で神の姿となって現れるのは、光を和らげ塵と交わることが本意であり、神仏が一緒になって衆生を救済するためである。

それで、翁草の注3くちばしは黄色で神仏一致の沙汰のお言葉がすぐれているということだ。

 

 獅子口取   東

 

今日入来す細女命 街道に横ふ五十鈴の公

眉毛を相結び眼中眼 踊躍歓煕万国豊なり

 

注1 内証・・・・仏語。自己の心の内で真理を悟ること。内面的な悟り。

注2 真如の体・・・・《梵tathatの訳》仏語。ありのままの姿。万物の本体としての、永久不変の真理。宇宙万有にあまねく存在する根元的な実体。法性(ほっしょう)。実相。

注3 翁草・・・・キンポウゲ科の多年草。日当たりのよい山地に自生。全体に白毛が密生する。葉は根生し、羽状複葉。春、高さ20センチメートル内外の花茎上に鐘状の花を一個下向きにつける。萼片(がくへん)は花弁状で外面は白い絹毛が密生、内面は暗紫褐色。和名は、花後、羽毛状にのびた白色の花柱を老人の白髪にみたてたもの。根を乾かしたものを白頭翁(はくとうおう)とよび漢方薬とする。

 

10 扇鬼板のこと

 

凛々とした白氷は春風に解け、颯々とした秋風は青雲に飛ぶ

ここに105代後柏原天皇の大永元年(1521)将軍義植の天下であった。この時、伊勢国は叛逆が絶えず、神領もままならなかったので、和田氏の子孫を頼み稲生三郷の地頭と仰いで村を治めなさったので、三年に一度の御祭礼では、和田の苗裔大明神の供養をされ、御輿の先舞に三本扇子の常紋をかざり、また迹舞に鬼板烏帽子を押さえとした。これは昔の印で、今に至る掟となった。

 しかし、稲生西村宗哲の旧記によると、北畠殿が討ち取られ、稲生三か村は方々から攻められ、大永年間に浪人和田蔵人という方を義盛は第11代目の地頭に頼み、神領を支配され、神主は城跡を取り立て、本丸・二の丸・三の丸まで取り立て、近郷近村を討ち取り、5万石ほどの城主になって上洛し、公方様から和田豊前守源藤盛となった。稲生殿と申すのはこれである。和田豊前守源藤盛とは、稲生三郷4代の地頭である。大明神宮社の棟札に

施主豊前守藤盛同願主長菊丸源土佐守光延天文10年(1541)2月28日

とある。

 そして、天文10年(1541)から享保5年1720)まで、178年になる。また、稲生西村宗哲の旧記には大永年間とある。大永年間は7年間だけである。大永元年から数えれば享保5年1720)まで200年になる。

 また古老の伝記に和田稲生殿の末裔は名字を改めて奥山に名乗り、伊勢国津城主藤堂和泉守の家臣となり、700石を所領として奥山弥五左衛門といったという。この和田豊前守稲生地頭が祭礼の起こりで、獅子の舞年には大明神が奥山の自宅へ臨光して獅子舞をしたという。

 

 扇鬼板   文

 

 和田の後胤稲生の君 仁徳余りあり大度の懃め

 三本の常紋祭礼の印 又鬼板を呈して家郡を治す

 

11 御神領のこと

 

菊が好きな陶淵明は枝をいじらない。蓮を愛する周茂叔は茎を攀(よ)じらない。しかし、逆らう風には米花も尻を留めず少し荒々しく振る舞う。

稲生大明神の御社領は、むかし800石だったが、伊勢国が乱れてから失落したという古老の言い伝えである。

稲生宗哲の旧記では、和田豊前守源藤盛稲生殿は伊勢国関城主長門守の聟(むこ)である。子どもがたくさんおり、和田近藤丸9歳の時、神主は子どもがなかったので、孫娘と夫婦にし、磯部城次郎となった。御神事をつとめ、土佐守に城を譲り、弟らに領地を譲り、城次郎にも稲生三村分の蔵米1000石御供田御田木村のうち12反を譲り、城次郎は稲生の長官になり御神事を勤めた。この三郎右衛門の親も一城の主であった。また、我らの親、三郎右衛門も長官の聟(むこ)になり御神事を勤めた。いずれも諸大名の証文が数多くある。稲生大明神縁起式によると、当社の御領はむかし白子久留麻八郷の人々が寄附した。中古以来の稲生三郷である。また太閤秀吉公の時代に落ちた。

また尾張守織田信長公が伊勢国に出陣し、北畠殿を攻めに来た。稲生城主は信長に降参し、神領はみな召し上げられたと古老の旧記にある。

 

 御神領   東

 

咲(いた)るかな神領百華の嵩 今日吹く無(なみ)す叛逆の風

興生衰家天運の至り 泰平の天子寸粒豊かなり

 

12 三郷地頭のこと

 

百花は阿字にひらいつわらいつ、万花は吽字につぼんつ凋(しぼ)み、実に実に時節の保元には盤石でも摧(くだ)き易く、到来の平治には太山を分破する。

一 ここに78代二条天皇の時代平治元年(1159)、平清盛公は天下を取り、二十余年治められた。平治元年(1159)から享保5年1720)まで、561年になる。

 

一 80代高倉天皇の時代治承4年(1180)、頼朝公が天下を取り、北条9代が相続して115年世を治めた。治承4年(1180天正元年(1573から享保5年1720)まで、544年になる。

 

一 96代後醍醐天皇の時代建武元年(1334)、尊氏から15代、合わせて239年世を治めた。建武元年(1334から享保5年1720)まで、305年になる。

 

一 107代正親町天皇の時代、天正元年(1573)、平信長公の天下である。天正元年(1573から享保5年1720)まで、148年になる。

一 同じく天正10年(1582)、太閤秀吉公の天下である。

 

一 109代太上天皇後水尾天皇の時代、元和元年(1615)家康公の天下である。元和元年(1615から享保5年1720)まで、105年になる。

 

一 元禄3年(1690)10月、白子御奉行から寺社改めについて、稲生大明神三社棟札をもって稲生三郷の御地頭が白子御会所へ書き上げられた。

   三社棟札の面、応永年間以前は地頭が知っていた。応永年間からは棟札がない。

 

一 これより稲生三郷の地頭

正一位大明神   一社

開基の棟札はない。造立の棟札。

造立し奉る稲生大明神 願主の名の分け見え申さず候

 応永15年(1408)8月1日

応永15年(1408)から長禄元年(1457)まで50年になる。また、享保5年1720)まで、313年になる。応永15年(1408)は、101代後小松天皇の時で将軍尊氏から4代義持の天下である。

 ここに2代の地頭に 大明神棟札に

 石川佐渡守 石川五郎左衛門咸惟(まさただ)

 長禄元年(1457)12月13日

 この地頭は白子御会所の書上ではない。ある旧老の記から書き出したものである。

 

一 稲生三郷2代地頭 大明(神)棟札に

          地頭 和田左衛門太夫政盛

 奉造立稲生大明神    和田次郎左衛門清道

             和田右京亮恒氏

  文明16年(1484)2月26日

  104代後土御門天皇の時代、尊氏将軍9代、義尚の天下である。文明16年(1484)から天文10年(1541)まで57年になる。また享保5年1720)まで、246年になる。

 

一 稲生三郷3代地頭 大明神棟札

          施主 豊前守源藤盛

 奉造立稲生大明神    同願主長菊丸

             源土佐守光延

  天文10年(1541)2月28日

  106代後奈良天皇の時代、尊氏将軍12代、義晴の天下である。天文10年(1541)から慶長11年(1606)まで66年になる。天文10年(1541)から享保5年1720)まで、179年になる。

 ここに4代地頭 大明神棟札

 長野半左衛門正家 名字鈴木とも言う

  天文16年(1588)4月17日

 この地頭は、白子御会所の書上ではない。ある旧老の記から書き出したものである。

 

一 稲生三郷4代地頭 大明神棟札

 奉造立稲生大明神    同願主長菊丸

  工藤氏苗裔長野次右衛門尉政勝

  地頭源氏苗裔分部左京亮光信

  慶長11年(1609)○月如意珠日

  108代後陽成天皇の時代、家康公の天下である。慶長11年(1609)から享保5年1720)まで、114年になる。太閤の御子秀頼公は内大臣に任じられて大坂城に住まいした。大老は加賀大納言菅原(前田)利家、毛利中納言大江輝元

  また、太閤秀吉公の天下に日本の神領地頭の過半数は召し上げられたということである。このとき、第三用心の社領も召し上げられたのか、稲生大明神縁起にもこれまた太閤公の時代に落ちたといわれている。

  また、日本の田畑の検地棹も太閤の世に入った。稲生三郷の棹は、文禄3年(1594)、羽柴下総守新庄東玉両奉行である。文禄3年(1594から享保5年1720)まで、126年になる。また、太閤公の前は田畑の1反は360坪である。太閤公以後は、1反を300坪と定めた。6尺の棹四方を1坪とも1分(歩)という。1坪30を1畝という。1畝10を1反という。また日本下臈(げろう)2合半も太閤以来である。

  また伊勢国安芸郡上野の城は織田七兵衛信證(のぶずみ)がここに住まいしたが後は絶えた。しかし左京亮光信公の先祖は分部左京亮光高という。長男は分部左京亮光喜という。これは上野城主で花林と号した。長男は従五位左京亮光信という。光心の次男は喜治、同じく若狭守喜高、若狭守信政という。さて、今の時代は将軍吉宗公の家臣で分部左京亮信曹ニいう。信政の子息である。それで元和4年(1618)紀伊国大納言頼宣公へ御知行が渡ったおり、伊勢国は18万石で松坂・白子・田丸の3領である。上野は白子領内である。これによって上野城主分部左京亮光信は、近江国大溝へ所替えされた。元和4年(1618)から享保5年1720)まで、102年になる。この地頭の下は、年代記と王代記をもとにし、私の記を考えて註したものである。

  これよりは紀伊国稲生三郷の地頭のことである。

  御城があるのは紀伊国和歌山である。江戸から146里余りである。 むかしは桑山法印がここに住まいした。慶長6年(1601)に浅野紀伊守幸長(よしなが)、同じく但馬守長晟(ながあき)、元和5年(1619)以後、紀伊大納言頼宣卿、同じく大納言光貞卿、大納言綱教卿、宰相頼職(よりもと)卿、紀伊中納言吉宗直卿、紀伊中納言宗直卿である。

 

一 稲生三郷5代地頭

 紀州和歌山城主

 従二位徳川常陸介大納言源頼宣卿

 御法名は南龍院殿二品前亜相(ぎ)永天光台霊、寛文11年(1671)1月10日になくなった。

  109代太上皇帝後水尾天皇の時、将軍秀忠公の天下である。御知行は、元和4年(1618)に55万5000石渡った。そのうち伊勢国に田丸・松坂・白子3領に18万石あり、大和に5万石分ある。公方様の御献上は有田蜜柑忍冬酒である。

 

一 稲生三郷6代地頭

 頼宣公長男従二位大納言光貞公

御法名は二品前亜相清渓院殿源泉国公

宝永2年(1705)8月8日になくなった。111代今上皇帝後光明天皇の時、将軍家光公の天下である。

 

一 稲生三郷7代地頭

 光貞公長男贈従二位大納言綱教公

御法名は高林院殿雲峰静空大居士

宝永2年(1705)5月14日になくなった。

114代東山院の時、将軍綱吉公の天下である。

 

一 稲生三郷8代地頭

 光貞公二男 従四位左少将宰相内蔵守頼職(よりもと)公

御法名は深覚院殿円厳真常大居士

宝永2年(1705)9月8日になくなった。

114代東山院の時、将軍綱吉公の天下である。

 

一 稲生三郷9代地頭

 光貞公三男 従三位中納言主税頭(ちからのかみ)吉宗公

115代今上皇帝、諱(いみな)は慶仁の時、将軍家継ぐ公の天下である。そして将軍家継公の遺言によって紀伊国中納言主税頭(ちからのかみ)吉宗公が正徳6年(1716)8月12日、征夷大将軍に任じられ江戸城の御城に入られた。

 

一 稲生三郷10代地頭

 従三位中納言宗直公

従四位少将左京太夫頼純というのが、左京太夫の先祖である。これは紀伊国大納言光貞の次男である。左京太夫頼純に御子が3人あり、ひとりは頼路従五位である。豊後守である。二人目は頼雄(よりかつ)、三人目は頼致(よりよし)という。これが左京太夫従四位少将である。今の紀伊国宗直である。

 このように将軍家継公の遺言により、正徳6年(1716)8月12日、紀伊国の吉宗公の家督をつがれた

  

 紀州御代々御家老

 水野大炊双  安藤式部

 久野備後守  渡部数馬

 三浦遠江守  水野丹後守

 加納大隅守  岡野石見守

鈴木四郎兵衛 朝比奈宗左衛門

 

 稲生地頭   東

 

往古は知らず稲生の公 本城に住在して三宮を護る

梁棟看るに堪えたり頭社の札 亜相の太守万亀豊かなり

               翁草子七旬三

時享保5庚子春日

    往相子73歳これを述す