塩屋縁起翁草 中
1 塩屋村古里のこと
昨日は三社西山の峰を語り尽くした。今日は百家東園の郷について話し出すことにする。実に塩の戸(塩屋)を眺めるとすばらしい景色は昔と今では変わっている。見ると、青田の花は吉野の風よりもすばらしく、苅田の月は須磨の景色よりすぐれている。天暦の源順(したごう)(融弁)が物知り顔をして、鳥は古巣に、花は根に、昔の村は刈り穂のいおり、今の家は古里ではない。村は東西に短く、南北に長く、堂脇に尾を垂れて、まさに蜻蛉の形のように棟が連なっている。自然の家造りは秋津島(大和国)の影が移っているようだ。思うままに綴ったが、まずい出来映えだ。
古里地 青
塩戸を眺望す月華の亭 古里の周囲蜻蜒に似たり
遮って憶う秋津農下の地 松間の矮屋(わいおく=低い家)仙齢を楽しむ
2 塩屋村八景
老人(融弁)が空っぽの田で呼んでも、捧亭は来ない。大臣の上福地注1は招いても、魚はせめて快路丸の役に八景の文字を並べて腹を据えよう。
古里夕照 陽
安芸遙かに思う六乙の郷 竹籬(ちくり=たけがき)の田舎斜陽を帯ぶ
花に戯るに獅子乱調の曲 魚鱗を売与羽觴に満つ
咲(えみ)含む 花よりゆり粉 団子哉
堂脇晩鐘 冬
壁緑天を払う西御の松 人を逐う千尺幾臨(はぐりん)きょう
蜀魂は耳を傍(そばだ)つ夕陽の月 遠寺遙かに遺る帰去の鐘
鐘の声 松に染けり 一時雨(ひとしぐれ)
高浦帰帆 灰
十八町程高浦の台 苅田付込に野郎駘(こま)
遙かに看る亀嶋九天の鶴 空裏の秋帆満腹して回る
帆柱に 蝉の抱きつく 日和山
南山晴嵐 先竟
紅葉正に聞く雨脚の天 今朝葉を焼く老婆が焉(わら)い
十にあがく蔵錫杖の辻 鼕々(へいへい)注2樽を敲いて神仙を礼(まつ)る
わらよわらよ 時雨縫込 木葉哉
東山秋月 刪
田家寂寞と黒む東山 新ケ何石を養うはなのなみ
銀椀に雪を見る田毎の月 家々酔賞して窓間に寄る
是や此 月に御意得る 東山
太山落雁 先
水碧に山涼し縄手の辺(ほとり) 雁門幾行(つら)ぞ紅天を凌ぐ
畠田廓を成す太山の浦 一暁光有り玉仙に到り
雁がねの 壱歩がすだく 太山浦
北山夜雨 先
薄霧霏々(りんりん)注3として北山を包む 百花帰客笠蓑こうばし
朝とやいわん夕とやいわん巫山の雨 茅屋茶を煎て晴天を待つ
雨性や 葉花を相手に 稗団子
塩屋暮雪
辰乎(ときなるかな)露結ぶ柳花の天 山頂道闇く水煙を絶す
雪雅は詩を作り翁は酒を作る 梅花焼き尽くす石炉こうばし
口惜しや 貧家の雪は 酒にもれ
注1 上福地・・・・般泥沍経に「一自撿攝。財產日掾B二自撿攝。得近道意。三自撿攝。眾人所敬。至死無悔。四自撿攝。好名善譽。周聞天下。五自撿攝。身死神生天上福地。」とある。
注2 鼕・・・・せめつづみ。馬上で鳴らすつづみ。
注3 霏・・・・長雨
2 塩屋高のこと
高を一村に結んで升を聖田にあらわす。実に麦飯という思いやりのある君主の袖にあまり作りとりどり
塩屋村惣高
567石2升3合
但し御棹入りて
惣高700石6斗3升9合
内本田高567石2升3合
内新田高61石2斗1升8合
内古新田高20石5斗8升4合
内改新田高58石6斗3升4合
ここに古新田とは、稲生三郷地頭長野次右衛門城主の時、原田伊右衛門という家臣がいて簀巻(すのこまき)の難にあった。よく田畑の実情を知っているので、三郷の惣高1973石3合の中から別に高を編出して、古新田と名付けて差し出して難からにげたのである。但し品玉も種がなくては採れないので、田畠の打出し注1分までを上乗せすると、1973石3合から61石9斗3升1合は出すことができる。しかし、古新田の収穫として当面の死罪をのがれ、三郷の思いを積み重ね、一会五百生の間、桑名の焼蛤となってもよいと言われるのは悲しいことだ。
右の本田と新田の高は、文禄3年(1594)の年の太閤秀吉の御棹である。改新田は、家康公の御棹ではかっている。
田畠棹 先
新棹の竹篦(しっぺい)文禄の年 高を古聖に盛る太平の天
掌中に緩有り畠田の景 仁を黎民に与を万歳の仙
附 稲生三郷惣高の覚
惣高 1973石3合 預所給所
この町 161町3反5畝25歩
押合反に1石2斗2升2合7勺余
内
高 818石7斗3升 西村分
高 587石7升 成光分
高 567石2升3合 塩屋分
高 16石4斗9升2合 池鋪(しき)
この町 1町3反7畝12歩
毛付高 1956石5斗1升1合
この町 159町9反8畝13歩
打分け
一 田方 1467石8斗3升9合
この町 109町2反8畝24歩
押合反に 1石3斗4升3合
高 248石9斗2升1合 新田畑
この町 23町6反2畝29歩
内
高 1石1升1合
この反 1反5畝15歩
これは酉年に御棹入
高 61石9斗3升1合 古新田
3石2斗5升1合
この町 4町7反8畝26歩
畑方 367石2斗3升9合
屋敷方129石5斗5升2合
注1 打出し・・・・見地の結果表高より余分に出た分
4 塩屋の境のこと
究竟如空の大道には29種の絶景を飾り、4畳半敷の部屋には、獅子高座の風地をかがやかす。南閻浮提注1の山海田には361の数を立てて四州注2を顕している。
だからこそ1寸の花に尺取り虫がいてかねを渡し、1つの村には老翁(筆者である融弁)人がいて、「塩屋縁起翁草」とはじめに題名にしているので境内物(内のこと=村の中のこと)はよく知っている。
むかし1860年前、崇神天皇の代には、老翁の住む塩屋に13579もの住居があった。慶長年間のころは、家数は130軒にもなった。さて、塩屋の境には、西には阿弥陀堂があり、天にのぼる飛竜の松は、神木か仏木か知る人ぞ知るものである。北には天神山があって松林が繁り村に山鳥が住み着き、東は冨士塚が村境で鼓ヶ浦に東の海の波の音が聞こえ、正八幡が鎮座して村の太平を守っている。南は紺碧の松のもとに花の木神社が鎮座して、青い苗や黄色い稲穂が実る村は、古里の入り口から東山の冨士塚まで4町余りで、間に2町のあぜ道がある。南は高浦からたての長さは8町、東西の幅は1町50間である。ただし、古里から出屋敷まで見渡すと2町くらいか。また、古里忠兵衛屋敷にはむかしは観音堂があり、その後比丘尼屋敷になったという古老の言い伝えである。今は絶えている。また、古里東南に戸瀬奈という侍がいた。その跡は田地となったという古老の言い伝えである。今は絶えている。また、北東の方角に八王子社が鎮座して村を守り、西南に薬師堂があり、諸病厄除の地下仏と仰ぎ、山林竹木清浄の井戸満足男女の業産(わざ)御座かます冬暮れは浜矢を剥いで木綿を織って売っている。
境内 先
南家の一字北東円なり ふるきをもとめて新しきを知る絶景鮮やかなり
見るならく鳥花風月の地 単々鼕々注2樽をたたいて全(まった)し
注1 閻浮提(えんぶだい)・・・・四州の1つ。須弥山の南方の海上にあるという島の名。島の中央には閻浮樹があり、諸物が出現する島とされた。もとはインドを指したが、その他の国もいい、また、人間世界・現世をいうようになった。
注2 四州・・・・須弥山を取り巻く九山八海のもっとも外側にある4大陸。南膽部(なんせんぶ)州(または南閻浮提)・東勝身州・西牛貨(さいごけ)州・北倶廬(ほっくる)州の4つ。
注2 鼕々(とうとう)・・・・鼓の音
5 冨山出屋敷のこと
昨夜の月は飛んで西海を照らし、今朝の太陽は出て東の空を照らす。所替えをした民家衆は顔をほころばせてほほえむ。むかし貧しかったころの煤(すす)を松風で洗い流そう。
冨山瀬古名
山とも南山とも冨山ともいう。
ところで塩屋を眺めると、元和年間(1615〜1624)中頃までは、出屋敷したところはみな松山であった。むかしから叢林注1の裏に八幡よばれる祠(ほこら)があり、誰の仕業とも分からず八幡大菩薩美しいお姿がおこもりになっている。所替えをした民家衆は幸いっぱいに喜びわが瀬古の産土の宮と尊敬し、元和元年(1615)8月8日たいへんよい吉日であるとして出屋敷を始めた。元和元年(1615)から享保5年(1720)まで106年になる。毎年8月8日は、焼米をつぶして祝っている。
冨山所替 尤
元和乙卯古郷の流れ 縄手湛々として池水はるかなり
家は夕陽の松土の地にうつり 冨山の民下田秋を喜ぶ
(1)ここに八幡の由緒を説く
14代仲哀天皇のお后である15代神功皇后の代である。かたじけなくも八幡大菩薩を懐妊され、筑紫国で誕生された。16代八幡大菩薩である。胎中天皇とも誉(ほん)田天皇とも言われることから、八幡大菩薩という神は応仁天皇である。この天皇が崩御した後に人にのりうつって、「我は八幡麻呂(やわたまろ)である」とご信託あったので、八幡と名付け奉ったのである。まず豊前国宇佐の地に祝い祭ったことから、宇佐八幡というのである。その後、行教という僧に信託があって聞き届けたことを遂げて宇佐八幡を山城国鳩峰に移され、これを正八幡と名付けたのである。宇佐も正八幡も同じ神でいらっしゃる。
宇佐は途中から平清盛公以来、平氏の崇敬があったことで、平氏の氏神のように言い伝えられている。
正八幡は、初め行教和尚が鳩峰に移された時、源氏の公家衆を勅使として宇佐から迎え、鳩峰に移された。このことから、伊予守頼義公の嫡子義家をひきいて鳩峰に詣でてながく源氏の氏神として奉り、八幡太郎義家と名乗らせなさった。このことから、源氏の氏神として敬うようになった。頼義より先に義仲や頼光らも鳩峰を信仰し参詣していた。これは誰でも弓矢の霊神としていたからである。氏神としていたわけではない。
若宮八幡のことや神道口伝のことは省略する。
右は伊勢国河曲郡今宿浄長院五天の口伝えである。
最初豊前国宇佐の地に祝い祭ったのは、30代欽明天皇の代に、応神天皇が神として現れたので、豊前国宇佐の地に宮を建てて崇め奉ったのである。白幡が八本下り立ったといういわれから、八幡大菩薩というのである。同じ年に八幡太神を豊前国宇佐の地に崇め祀るべしという神託があって、宮社を立てて尊敬された。また、56代清和天皇の代、天安2年(1858)に行教師が宇佐へ参詣した。八幡太神には王城に来て皇位を守っていただくようにという神託があったことをお聞きしたので、初めて山城国八峰男山の石清水に宮を建てて宗廟として崇めた。
このように八幡太神は、天皇代々の宗社であり、源平藤橘の霊神である。本地(元の姿)の月は十万里ほどの空を照らし、垂迹(仮の姿)の和光注2は六根清浄の頭に冠をつけている。化身が古今では別れたといっても、ついに無礼な祭りをうけることなく、異なるものを包み込む慈悲を現し、世俗の中で生きている命を導いてくださる。できるならばほんとうのままの頭上に鳥居を立てて信仰をしたいものだ。
冨山八幡 攴
山頭無月八幡の祠 風風に問起すれば曽て知らず
好しこれ冨山無為の化 花表の八字神ふふどりを照らす
注1 叢林(そうりん)・・・・僧徒の居るところ。
注2 和光垂迹・・・・仏・菩薩が、衆生の救済のために威光を和らげ別の姿をとってこの世に現れること。
(2)冨山地蔵の辻について記す
むかしは、冨山への出屋敷以前から待つ山の中にあった石地蔵である。またこの地蔵の前は、むかしから、稲生寺家の山道と野村鴻賀野との山道である。その以前から自然の四つ辻の幸地蔵がおいでになったので地蔵の辻という。
地蔵菩薩の因位は五戒を受けた在家の女である。十往経には、17の本願を立てた弥陀で因位名を白(はく)菩薩とも説いている。釈迦以来、無仏であった衆生を救うことを託され、衆生に代わって苦難を受けようとの願いが1体を分身して六地蔵として現れ、六道の辻にいて闇を照らし、とくに5.7日の霊魂を救い苦しみから救う。また、あの世とこの世の路頭をさまよう子どもの友である。錫杖で愛しみ金環で驚かせる。また、毎日午前に入所定という二十五三昧注1の中の心楽三昧という禅定に入り、鳥の形になって妄想の夢を覚ます。だからこそ、もとは、因業の「か」字である。字は風大のもとであって黒字である。カラスも黒色で、毎朝「か」字を唱えて衆生の眠りを覚ますのである。。
右は、地蔵の事無縁集・烏と現わる事法花直五本・十七願十王経抄・錫杖の事四部録注・錫杖徳の事説法明眼論
また、元禄8年(1695)9月、石菩薩7体ならびに草堂ともに建立する。願主は当所、中野善衛子坊主順証比丘寄進
石地蔵 刪
古往今来菩のかんばせ顔 如意杖をにぎって南山を照す
了角を愛憐す望夫の石 生死の大夢玉環に覚むる
注1 二十五三昧・・・・二十五有(三界六道を二十五種に分けたもの)を破すための二十五種の心を静める状態をいう。
(3)高浦 南高浦・広崎とも言う
元和元年(1615)8月8日、冨山といっしょに出屋敷する。焼米をつぶして祝っている。
(4)東山 八幡小路とも言う
寛文8年(1668)1月26日、古里から出屋敷する。毎年1月26日、餅をついて祝っている。冨士塚の言われはわからない。
(5)太山 中小路とも言う
寛文8年(1668)1月26日、古里から出屋敷する。毎年1月26日、餅をついて祝っている。
太山小社は、これはむかしから松山の中にあった社である。ご神体は正八幡である。古老の言い伝えでは、山の神と言い伝えられている。とにかく、伊達伊織の氏神である。地蔵の辻が3間さがったところに伊織の墓所がある。ときおり火が灯るというが、だれも見たものはいない。翁草子、元禄年間(1688〜1704)、冨山へ年忌参りの時、ふだん通る道から1尺5寸離れ、空へ1丈5尺の高さで幅は瀬古いっぱいにまるで不動明王の火炎のようにひらひらと空に向かって灯し、しばらくして消えた。また、冨山のいわゆる道場屋敷東の境界の道の藪の裏に火が灯るという古老の言い伝えがあるが、見たものはいない。また、稲葉三昧に火が灯るという古老の言い伝えがある。しかし、誰も見たものはいない。
(6)北山 上小路・上陸路(じようろくじ)とも言う
寛文8年(1668)1月26日、古里から出屋敷する。毎年1月26日、餅をついて祝っている。冨士塚の言われはわからない。
(7)古里
里は、むかしからの名である。また、古里とも南瀬古とも言う。
(8)堂脇
堂脇は、西御堂である。むかしはぐるりと民家が取り巻いていたので、堂脇垣内と言う。
出屋敷 真
寛文八暦甫年の辰(あした) 松山に所替して風致新たなり
南裏の黄鶯駒北土 正に畠田を開きて千春を送る
6 塩屋村彦宮八王子のこと
むかしから塩屋の民家は古里の堂脇に集まって住んでいた。
元和年間(1615〜1624)のころから少しずつ出屋敷をして、村の境界地は東、南、北へと広がり、鬼門が太山北山の東角となった。そこで、八王子の古宮を出屋敷し、鬼門に鎮座して村の安全を守った。寛文8年(1668)1月26日に場所替えをした。出屋敷してから、毎年めでたい先例として1月26日、場所替えした民家は餅をついて一日中祝っている。
ところで、稲生大明神の末社に八王子がある。塩屋の氏神としてお移ししたいわれはわからない。
八王子 東
遙然たる所替新宮に在り 叢樹(そうじゅ)注1万山境内あつし
疫を他方に放脚して鬼は外 稲花の微笑眼中濃(こまやか)なり
注1 叢樹・・・・むらがり生える樹木。
ここに、八王子のいわれは、ほき注1注によると、父は牛頭天王、母は頗利采女さいにょである。牛頭天王は、北インド王舎城の商貴帝である。むかし、善現天に住まわれて帝釈天に仕え、諸天をとりまとめて天形星といわれる。閻浮提に下って転輪の位に至り、牛頭天王といった。頭は黄牛注2の顔で、両角は夜叉のようである。身長は1由膳那で普通でない形相のためにお后はなく、空から美しいオオルリが来て、「あなたが天形星の時、私は毘首羅天子で親しい友である。天帝の命令によって、南海の婆竭羅竜王の惣領の金毘羅女の妹がおり、赤銅の容姿である。あなたに嫁ぐだろう。」と言って空に飛んでいった。牛頭天王は喜び、家族をを率いて八万里の南海を三万里行った。南インドの夜叉国の鬼王で巨旦大王というものがいた。国のカーストの身分は魑魅魍魎の類であった。牛頭天王は一夜の宿を願い出るがことわれられてしまい泊まれなかった。また千里の松原を行き、ひとりの賤女に会い、一夜の宿を願い出た。巨旦の下女であった。彼女は、「東へ1里行ったところに蘇民将来という老人がいるので宿を頼むといい。」と教えた。牛頭天王は喜び宿を頼んだ。蘇民はヒョウタンの中から栗米を出して瓦釜で調理して牛頭天王にさし上げた。牛頭天王は、朝に集鶏の船に乗って竜宮城に着き、頗利采女に一夜を共にして八王子をもうけられた。
一 惣光天王 大歳神 本地 薬師如来
二 魔王天王 大将軍 本地 他比自在天
三 倶摩羅天王 大蔭神 本地 聖観自在天
四 得達神天王 歳形神 本地 堅牢地神
五 良侍天王 歳破神 本地 河泊大水神
六 侍神相天王 歳殺神 本地 大威徳
七 宝神相天王 黄幡神 本地 摩利支天
八 蛇毒気神 豹尾神 本地 大荒神
これを八将神という。牛頭天王は「私は北インドの主である。帰ろうとする南海の間にある広遠国の主である巨旦は、一夜の宿をことわった。この王の城を破壊しよう。」と言った。牛頭天王と八王子とが、鬼の館に攻め入った。牛頭天王は、「巨旦の下女は恩人である。桃の木の札にとり急いで如律令の文を書いてたもとに入れるように。」と言った。こうして、災難をのがれた。そして、巨旦の遺骸を切断して5つに分けて降参させた。その後、蘇民将来のところへ行き、例の夜叉国(広遠国ともいう)を将来の恩に対して与えた。そして、「私が末代に疫神となって八王子の家族の国へ攻め入ろうとも、私の子孫は邪魔をしてはならない。」と誓った。
注1 ほき・・・・神に穀物を捧げる祭器。
注2 黄牛・・・・中国・台湾・タイ・ミャンマーなどで飼育それている役用牛。
(2)織御前
本社の西に中野氏の氏神の小社がある。出屋敷するより前から古里と堂脇の間で源兵衛屋敷の後ろの森である。むかしから、織御前神と言った。または、織伊大明神とも言うと古老が伝えている。ご神体は、弁財天である。
証拠は、源兵衛・吉右衛門・助右衛門・瀬次兵衛・太兵衛・惣兵衛・甚右衛門の7ヶ所にきれいで静かに水をたたえた湧き水が出ていた。弁財天とは宇賀神である。これは民間の正に福田注1である。
頭上の宝冠の白蛇は老人の眉毛が白く左右に八分そでを垂れ、頭上に如意棒の光を輝かせ、常に十五童子を使う浄土にあっては無量寿仏である。現世では如意輪観音として現れ、日輪の中にあって四州の闇を照らす。白月巳亥祭者貧転吽娑婆訶(うんそわか)。
弁財天 真
織伊本是大明神 更 弁天とニジて巨貧を済う
七所の清泉今古の妙 恒に巽注2土に安じて農民を保つ
注1 福田・・・・供養・尊敬あるいは施与されるべき対象。
注2 巽(セン・たつみ)・・・・東南の方角。
(3)天白神
天白神はも白狐である。ご神体は、稲荷大明神である。むかしは、古里の孫兵衛屋敷の竹藪の後ろにあった。寛文8年(1668)に八王子本社の東脇に移された。稲荷大明神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の化身の倉稲魂命(うがのみたまのみこと)である。保食神ともいわれる。これは五穀の精霊の神である。稲荷というのは、地名である。山城国稲荷山に祀り奉ったことから名付けられた。例えば、春日明神、三嶋明神というのと同じである。
右稲荷の説 神道五十二代五天説可秘である。
天白神 真
八王玉子東隣に宿る 本是彦宮天白神
樋口いずくんぞ花の父母 白狐の冨貴後胤の珍(たから)
(4)馬の神丑辰未戌稲生大祭の日
稲生大明神、郡山大明神、別保土御前の三社の氏子が別保縄手で会合をし(セイジ縄手・ショウズ縄手ともいう)、勢揃いして右の3か村の中からひとり神馬役をする。竹の鞭を持ち、神馬に乗り、三社を回って稚児に舞をさせる。ここに、塩屋に住む惣兵衛の先祖は神馬役に当たり、祭礼が終わって持っている竹の鞭を住まいの藪に差しておいた。すると不思議なことに、その竹の鞭が根をはり、枝葉が出て、ここに神は非礼を受けず正直であれば霊験はあらたかである。そして、出屋敷のおりに、八王子本社の奥山に移し奉った。ただし、八王子本社の山の中から見渡すと、奥の院のように見える。全く左のようではない。
馬の神 寒
本社遙かに障つ後山端 碧松叢裏に幾寒を送る
竹鞭本是神精の玉 土饅頭と為り碧巒に在り
7 古宮御池のこと
そのむかし、古宮御池は、稲生大祭礼ごとに大明神祢宜が来て古池に向かって歌い舞った。これは御池の印である。誠に世の中は興盛と衰退が千変万化する。むかし古宮がおられたころは、花の枝が茂って2羽の鳥のように葉をつけ、年を重ねた水は清く、オシドリの池は涼しく明け方の風が竹垣を吹けば、青い波は静かに音を立てる。夕方の雨がヤナギに降り注ぐと銀の水も静かでカキツバタで有名な三河の八橋のようだったというむかしの話であ。今は、埋まってカキツバタが残っている。古宮の御池に東のあぜから水をひいて菖蒲池とはなんということか。
古宮御池 真
昨日神盤日々に新なり 今朝いかがせん独池のいたり
雲とり霜と下る斜陽の雨 当作田村仁水うるわし
8 天神山のこと
塩屋村の澳台(おきだい)の北の森の中に天神の小社がある。字を天神山という。稲生大明神の末社である。北に鎮座して塩屋を守らせることは自然の道理である。天神の末孫は、天照大神の第2の御子、天穂日命の子孫である11代垂仁天皇の代、出雲国野見宿祢という武士の末孫、従五位下遠江介左中弁古人の末葉、長者文章の博士策大内記大学の以册三木従三位刑部卿菅原宰相是善の息子である。
天神の御名前は、右大臣正三位右太政大臣正一位菅家という。
そして天神は、花鳥風月の化人文学筆翰の太祖の臣に生まれ民衆の利益を与えた。本地は大悲の観音菩薩であり、垂迹は天満大自在天神の応化である。右の菅丞相は、筑紫国太宰府権師に移り、延喜3年(903)2月25日に亡くなった。延喜3年(903)から享保5年(1720)まで813年になる。
62代村上天皇の代、天暦元年(947)9月9日京都北野の千本の松が一夜にして生え、ここに社を立てて祀った。
天神山 寒
北台に鎮座す天満神 仰ぎ看て伏して察す眼中新なり
筆端の余慶畠田の緑 華鳥風月の一漢身
9 花木大明神
南台の花の木大明神は、稲生大明神の末社である。塩屋に分身された神である。この神は、稲の花の神という古老の言い伝えである。
むかし稲生大明神は、伊勢国の大社である。73代堀川院の代、嘉祥2年(1107)12月、摂政右大臣家政所の下文の朝野郡載に、「稲生四至、西は国府の東の祓川を境とし、南は井手の橋南の畔を境とし、東は白子の浜を境とし、北は庵芸郡と河曲郡の郡境を境とする。」と書かれている。
俗に言う井手の橋とは、庵芸郡一身田の北に今井という村があり、木曽の臣下で今井四郎兼平が生まれたところである。村では、兼平を地頭であった。嘉祥2年(1107)から享保5年(1720)まで610年になる。
縁起式には、稲生大明神の一の鳥居は、桑名郡伊伽留賀の里にあるという。
また、鳥居もむかしは5ヶ所あり、一つは御所へ出向く道で、稲生山から亀山道の間に一の鳥居があった。今は界道となって石塚という跡だけがある。二の鳥居は、白子寺家村の街道の浜辺に鳥居の朽ちた木柱が1本ある。寺家では小浜鳥居という。いずれも、5ヶ所の鳥居はみななくなっているが、縁起式には。むかしのところに鳥居の石だけがあると書いてある。
初め稲生大明神は、伊勢大神宮のように参詣のための道は行き渡っていた。白子注連懸(しでかけ)松からも花の木大明神への行き来の道が1つある。稲生への道は、伊勢の宮川のように花の木神は水ごりをする場の神である。今は、水ごりをする池の形だけあると古老が伝えている。
華木神 真
千古御祓花木神 農簑(さ)業笠間塵に雑る
誰か知る小社林中の事 正に盛衰与え亀春を同うす
10 塩屋山神のこと
この村の山神は4ヶ所にある。一つ目は古里の小社の古宮にある。二つ目は高浦の勘左(かんざか)山にある。三つ目は冨山の地蔵の辻の竹藪の中にある。四つ目は太山の八王子の鳥居の先で、北山の1ヶ所である。村中の子どもは、1月7日に嫁わらを集め、日暮れから明け方まで焼いた。夜明けには神木を焼いて祀って帰った。また11月7日、下働きの子どもたちが松葉をかき集めで日暮れから焼き、夜明けには神木を焼いて祝った。そして、この両月は集落ごとで仲間と一緒に酒を飲み魚を料理して村を回って祝った。
山の神というのは、山祇(やまづみ)注1というのが本名である。神代7代伊弉諾尊(いざなぎのみこと)軻遇突智(かぐうとっち)という火の神を斬って3つにした。その首は深山高岳の山祇となった。その体は中山祇(なかやまつみ)となった。その手足は麓山祇(はやまつみ)となった。三神とも、草木をつかさどる神である。麓山祇は里に近い山祇を言うのである。
しかし、山祇の神に白餅を祀るのはどうしてだろうか。その訳は分からない。
山神 東
颯然たる松下四金の宮 霜春に祀祝す七日の空
銀餅檀に盛る更に満腹 童牧積藁暁天紅
注1 山祇(やまづみ)・・・・大山津見神(おおやまつみのかみ)。『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では国津神の大山祗神(おおやまつみのかみ)として登場している。また和多志大神とも書かれることがある。野の神の鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)との間に四対八神を生んでいる他、石長媛と木花開耶媛の親神としても知られている。
伊邪那岐命、伊邪那美命が国生みを終えた後に生んだ神々のうちの一人。神名の意味は大山に住むという意で、大山を司る神、山神を表す。また和多志大神の和多は綿津見のわたでこれは海を表す。大山津見神を祀る大山祗(大三島)神社の社伝によると山、海の両方を司る神とされていることからもこの事が伺える。
後に火神の迦具土神から生まれる山津見八神が登場しているが、これは山に住む神が各地にあり、それらを統べる神がこの大山津見神であると考えられる。
日本の山神信仰は、非常に複雑な様相を呈している。極端ないい方だが、民俗信仰の山神の世界に入り込んだら、二度と出てこれないような迷路に踏み込んだような感じになるだろう。たとえば山神は、その山の周辺地域に暮らす人々の祖霊であり、農民から見れば、春には里に下りて田の神となる穀霊である。また、山の民にとっては木地や炭焼、鉱山や鍛冶の神さまだったりする。さて、どれが本当の山神なのかといえば、当然すべてである。結局は、漠然としたその全体を山神というしかないのである。
以上のように複雑な表情を持つ山神であるが、はっきりしているのは人間の生死を左右する大変な呪力を持つということだ。それくらい人間の生活に深く関わっているのが山神なのだ。
11 漱浴(そうよく)風呂のこと
塩屋村の風呂は三ヶ所にある。むかしからの風呂は古里の幅楽寺の藪の西南にある。また、冨山は東畑の傍らにある。太山は北山との境にある。そして、立夏(5月6日頃)の終わり、立秋(8月8日頃)の初めころの48日間の念仏法会の始めは、風呂の日に看板を出して風呂をたいている。ただ、報謝の日はやめる札を立て、命日は志に任せて風呂をたいている。1年中同じである。
誕生したお釈迦様は産湯に入られた。即位された太子は頭上をそそいだ。また、孔子は日々に新と湯船に銘を打たれ、せめて翁草(随筆)を□□なりと書いてむなしさを洗い落として腹を据えようと思う。
風呂 東
焼き初むる四十八願中 妙触宣明浴室濃かなり
沓々単々鶯長舌 更々掩(のこり)無し弗吹風
12 稲葉三昧のこと
むかしからこの墓地は中村の葬場であった。字は、北にあることから北定(ほうじょう)三昧とも言う。また、中興に若子殿という方がいた葬場なので、若子三昧とも言う。この稲葉三昧は、稲生成光村へ中村から出屋敷しておられる渥美智光昭軒の先祖であると古老の言い伝えである。ところで、元和元年(1615)、高浦や冨山へ出屋敷したころから、太山や北山へ所替えをしようとしたが、寛文8年(1668)、東山・北山・太山へ出屋敷をすると、稲葉三昧が郷の間の畑になり、さらに八王子産土神の下となって無礼になるので、御公儀へお願いして高田の名塚といっしょにして稲葉三昧は、延宝8年(1680)6月に御棹を請けた寺の畑とした。
稲葉三昧 東
稲葉の焼煙碧空を画く 貞松匝地一風忽(いそが)し
彦宮の非礼何とか説くことをせん 終に名塚に従って田舎豊かなり
13 西御堂のこと
聞いたところによると、西御堂はむかし長命寺という旧跡の霊場であった。草堂の釣り鐘は夕日に凛としていた。民家を越えて聞こえる音は夕雲に響いている。ぐるりと家々が立ち並んで土饅頭のようでだった。しばらくして太山に出屋敷した。それで、堂脇垣内という。阿弥陀堂の境内は、10間四面の御免地であった。高田の他の法流であるがこの寺の末流である。中尊は恵心僧都が作られた1尺5寸の阿弥陀仏である。時の流れで世の中は変わる。堂は花や鳥で飾られた宮殿となり、仏像は風月の友となる。寛永16年(1639)から享保5年(1720)まで80年になるが、その前に(中尊は)盗まれ、今のものは新しい仏像である。不思議な陰陽でひねり出したものか。
103代後花園天皇嘉吉年間(1441〜1444)から享保5年(1720)まで275年になる。そのころ大柴九郎太夫という武士がいた。この村の西御堂の裏に住んでいた。そこで西御堂と源兵衛の住まいとの間の細道の道筋を九郎後(しろ)屋敷と言った。もともと九郎殿は西御堂が菩提寺であり、長命寺の大檀那である。ずっと後に、稲生本城の脇に住まいした。ところで九郎殿はりっぱな方であったので、田植えで袂(たもと)をぬらしたり、家を作るのに木を切り出したりして骨をおり、干ばつの時は雨乞いをし、長雨の時は水門を開いた。そして、稲生山にむかしは池の形だけあったものをうまく利用して、三郷の池水を見立てた。むかし南宮の八幡一の御崎神楽所に杉の神木があったのを見当にして田水を測ったところ水掛かりがよかったので、自らもふごをになって大池を完成させ今に至っているので、大柴の名字をとって柴が池という。
ひでるとも 流れは尽きじ 大柴の 稲生の山の あらんかぎりは
と歌にある。
柴池 先
御崎の神木米の天父(かぞ) また見当と為って斛千を養う
池塘尽くる無し仁徳の水 太柴の粉骨水田詮(たいらか)なり
14 地下薬師仏のこと
塩屋村の集落の仏として祀られている薬師仏は、京都の仏師宮内卿行基が作られたものと古老が伝えている。行基菩薩が亡くなった天平感宝元年(794)から享保5年(1720)まで971年になる。
また、むかしに草堂が焼けた時に本尊が焦げてしまい、御尊体だけは無事であった。このような霊験は作られた方の力の極みである。また、元和年間(1615〜1624)、伊勢国安濃郡津城主冨士信濃守石田治郎と取り合いした時に焼失した。この村の薬師堂とともに焼けた。しかし如来御本尊は無事であったと古老の言い伝えである。
一 薬師物の境内地は、東西10間南北20間である。ただし、西の杉林は本照寺の屋敷である。しばらくは福楽寺へ借地する。
一 薬師堂はむかしわずかな草堂であった。寺号はいつから呼ばれるようになったかわからない。本寺は京都の尼寺というが絶えていて本寺はない。元禄3年(1690)にご公儀から本末御改めのお触れによって、白子寺家村観音寺の末寺となった。
一 稲生大明神が3年に1度大祭がある1月9日に、御獅子が福楽寺にお入りになり、4頭の獅子が薬師堂の庭で舞い初めをする。御神酒とご祝儀をする。
一 元和年間(1615〜1624)から享保5年(1720)まで100年余りになる。福楽寺に祐仁という出家者が灯りをつけて住んでいた。その時、佐渡の金山から山伏3人が金儲けをして稲生村へ帰り、金を出して百姓身分になった。この樋口宗徳は大庄屋で百姓としてもうけた金で、塩屋に2間4面の薬師堂を建てた。祐仁の後は、ずいぶんだれも住んでいなかった。
一 寺家観音寺は六坊がすべて絶えた後、慶伝坊が観音寺に住まわれた。この福楽寺を掛け持ちしてずっと供養した。
一 薬師仏の鏡田は寛永17年(1640)、この地の田を整理した時に、割余ったわずかなところを鏡田とした。寛永17年(1640)享保5年(1720)まで80年になる。そのころ福楽寺は無住の時であった。正月の御鏡餅の世話をする人がなかったので、樋口宗徳のところから御鏡餅を供えられた。1月8日、正月明けには、寺にお供えした御鏡餅は宗徳のところへ取ってきて、真言の同行衆が集まって割って頂いていた。むかしの先例にしたがって今もこのようにしている。
一 薬師仏の灯明代は、村一同が毎月集める。また、古宮と新宮の落ち葉は福楽寺へ集める。また、作付けの初めには真言の同行衆だけが集まる。
一 薬師仏の再興は、明暦2年(1656)で、御長2尺5寸の金箔仏とする。
一 盆の14日は、村の大念仏会は薬師堂で始める。ただし、施主による大念仏会はそれぞれ別である。
一 村の雨乞いのお礼踊りは、福楽寺で用意して行列をつくってお願いする宮へ参る。
一 村の仏は、むかしから秘仏である。深空(じんくう)坊の時、8月12日に開帳して拝見してきた。(または承応元年(1652)に開帳されたという古老の言い伝えもある。)
一 福楽寺の墓地は、むかしは出屋敷した松山であった。思い思いに松山で葬送をしてきた。それで真言の墓地はなかったので、源空坊の時、万治3年(1660)に墓地をつくった。ただし、五輪の水大円形の中に仏舎利と秘書を入れたものだという古老の言い伝えである。
一 薬師堂の建立は、俊教坊の時、庄屋樋口宗順の代に建てたものである。ただし。修理や破損の経費はすべて真言だけの同行衆だけと聞いている。人足代や手間代も同じであった。延宝8年(1680)に今の堂が建てられた。
一 薬師山八王子は、新宮にある。開墾した畑であるので通称は起田と言った。つまり宮山である。
一 薬師十二神は、正徳2年(1712)、江府衆奉加願主樋口三四郎が寄進した。ただし、日光菩薩と月光菩薩の両天は、光明のお供えと順証の志とを合わせて建立した。
一 真言宗3月21日の御影のお供えは、真言の同行衆だけが角餅をついて参り合う。
一 福楽寺の代々は、むかしのことはわからない。慶長年間に祐仁という出家者が来てからのことである。
祐仁 行実 慶伝 深空 祐山(源空の弟子) 法持(定に入り焼香露となり弁舌がたった。) 住源 俊教 信東 秀仁 栄泉(奥州二木松の領僧である。国に帰った時に宮山の開墾を始めた。) 了山 本能(延命寺の弟子である。)
一 村の薬師仏は東方浄瑠璃世界の医王善逝である。垂迹は、日本の秋津島の地主ではるかに第9滅却人で八万歳の権現で、その身を隠して赤銅を現し、諸病厄払いをし、12の耶舎は12支を頭に付けて悪魔を退散させたこともあった。遠くの農夫がうらめしく思う飢えと渇きはどこの国のことであろうか。
薬師
東去持来一壺の中 花有り穀有り青銅有り
遠門手無し無絃の作 農下の破顔微笑豊かなり
15 鏡田のこと
村の鏡田と、大庄屋樋口太郎左衛門宗徳の時、寛永17年(1640)、この地の田を整理した時に、まず塩屋高560石を民家56軒に割りふり、10石ごとに12歩の分け前を取った。その田の余ったわずかなところを鏡田として、3ヶ所の道場へ付け与え、今も1月1日に御仏へ御鏡餅をお供えことは、善行を積んでよい報いにあうもので、私の袂もよい香りがする。
。寛永17年(1640)から享保5年(1720)まで80年になる。
鏡田 東
当日惣高寛永の慣 畝反刻り取る御田中
余有り分厘頼み尚有り 心を鏡用に植えて本空に至らん
16 野村新田のこと
むかし野村は、白子の注連懸から神戸の安塚まで鴻鵝野と言った。例えると、安塚から関河(鈴鹿川)までを和泉野と言い、川より向こうを鞠野と言ったようなものである。しかし。むかしの野原は、今は家々が建って繁盛し、野であったことを忘れるほどである。しかし、野村と呼ぶと親をひとつとする松孫である。
一 野村の境界地は、東西1町南北2町ほどである。軒数は17軒で、そのうち15軒ほどは正保元年(1644)1月20日に古里から出屋敷した。他の3,4軒は稲生村から出屋敷した。正保元年(1644)から享保5年(1720)まで77年になる。
一 この野村17軒のうち、13軒は本照寺の同行衆で、2軒は浄泉寺、2軒は真言宗である。
一 野村は白子の領地である。御公儀書付に
白子新田野村 高 新田 120石1斗6升9合
正保3年(1647)の御棹の定めである。
一 野村は諸役免除の地である。
御公儀書付に
一 池堤は油断することなくしっかり守ること。
一 道や橋の修理は、野村へ申しつける分は断らずに作業すること。
一 村人足のことは、本郷と同じでその村に応じて作業すること。ただし、御鷹の餌をお送りすることは、本郷から勤めること。
右3ヶ条以外は、諸役を免除させるものである。
正保4年(1648) 久外記判
正月11日 三長門判
白子新田野村 百姓中
野村 東
昨日鴻鵝野月の空 今朝功遂げて野村礼(あつ)し
仁君謝し難し宥卒の地 田舎の破顔微笑濃なり
17 彦宮神明のこと
野村の産土神は、神明を鬼門に祀っている。それは、寛永18年(1641)、白子の注連懸の松の根元から野村の北東へ金色の光が一筋輝いてきた。野村の民家の人々は我が目我が耳を驚かせ、何かの神をお祀りしようと思い、伊勢大神宮へ参詣し、宇治の祢宜である岩井田左京殿におみくじを願って神意にお任せした。そしてついにおみくじが神明に下り、お祀りする御幣である白幣をありがたく頂戴してお守りして帰った。白子寺家村観音寺に住寺する祐慶法印神入に頼んでお祀りしたものである。
鎮守 東
光艮上に臻る注連の空 鬮(きゅう)取湯花幣帛濃し
正保に勧請す神明の社 稲田の農下千功を祝す
一 野村山神は村の入口の小社にある。この山神には、米4斗ほどができる山神田がある。最初は、野村に出屋敷したもの11人組で山神を守った。今でも先例の通りである。正保年間(1644〜1648)に山神を祀っている。
山神 元
邑端の小社野村に祀る 正保に安鎮して間塵に雑る
花有り酒有り満庭の月 又餅将と為って子孫に送る
18 石地蔵菩薩のこと
むかし鴻鵝野の時から碧石の地蔵があった。宝永7年(1710)、清水氏が芦の建物を建てて地蔵を安置した。その後、ここに住んでいる順証比丘が新しく作った地蔵を1体建てられた。
地蔵 東
石地蔵宝永庚寅の空 十字街頭一宇の中
山岳晴飛んで清水の月 満田の一露稲花紅
18 新田切起のこと
野村の人々は、正徳4年(1714)に御公儀へお願いして、野町と野村の間に1町ほどを見立てて新田を開いた。
新田 侵
七十年来眺望の田 緑樹きり尽す遠門の辺
成々五穀独尊の地 分破す山頭流水すみやかなり