塩屋縁起翁草 下
1 高田専修寺御系図のこと
水に潜る真っ赤な糸は立田山の紅葉のように染まり、水に浮かぶ太白の糸は吉野山の桜が流れているようである。すべて物事の始まりは、葎(むぐら)の雫であり、萩の露である。だからこそ私たちの御宗門を御開山された御俗姓の御代々は基である。
@ 御開山の俗姓は天児屋根尊(あまつこやねのみこと)の子孫である藤原氏が御父上の皇太后宮の大進有範卿である。御母上は、八幡太郎義家の嫡男である対馬守源義親の御娘の吉光女と申す方である。
A 第2世真仏上人
俗名は椎尾弥三郎春時という。常陸国(茨城県)真壁の城主である。俗姓は平氏桓武天皇の子孫で鎮守府の将軍常陸の大據平国香の後胤、後の下野の国司大内国春の子である。
B 第3世顕智上人
氏姓やどこの生まれかについてはわからない。富士権現の生まれ変わりであると伝えられている。
C 第4世専空上人
俗姓は平氏大内氏の一族である。親鸞聖人と面識ある弟子である。
D 第5世定専上人
俗姓は平氏大内の氏族である。専空上人の弟子である。
E 第6世空仏上人
俗姓は平氏大内氏の一族である。定専上人の兄である。住職となられた都合で前後する。
F 第7世順証上人
俗姓は平氏大内の氏族である。専空上人の兄で法名を証西といわれた方の子である。御年2歳で住職となった。
G 第8世定順上人
俗姓は平氏大内の一族である。順証上人の弟子である。
H 第9世定顕上人
俗姓は平氏大内の氏族である。定順上人の弟子である。
I 第10世真慧上人
俗姓は平氏大内の氏族である。定顕上人の弟子である。真慧上人は、念仏の教えを広めるために長禄3年(1459)26歳で下野国(栃木県)高田をお立ちになり、寛正元年(1460)から享保5年(1720)まで265年になる。初めて伊勢国にお入りになり、一身田の名主忍木伝右衛門を頼みとして寛正5年(1464)に一身田へ移られ、寛正6年(1465)に西御堂を建立された。下野国高田専修寺を移し、一宗の本寺にされた。永正9年(1512)10月22日79歳で往生された。永正9年(1512)から享保5年(1720)まで209年になる。
J 第11世応真僧正
俗姓は平氏大内の一族である。真慧上人の弟子である。
K 第12世堯恵大僧正
飛鳥井従1位惟綱卿の子である。
L 第13世堯真僧正
俗姓は近衛関白時嗣卿の御猶子である。堯恵大僧正の弟子である。
M 第14世堯透大僧正
俗姓は近衛関白左大臣信基公の御猶子である。堯真僧正の弟子である。正保2年(1645)に御院を焼失した。寛文6年(1666)、今の本堂が建立された。
N 第15世堯朝僧正
俗姓は近衛関白左大臣信熈公の御猶子である。堯透大僧正の弟子である。
O 第16世堯円大僧正
俗姓は花山院左大臣定好公の子である。先例のように近衛関白尚嗣公の御猶子である。延宝5年(1677)に大僧正に任じられ、この時に三門その他諸堂を建立した。また、堯円大僧正は宝永7年(1708)に退院され、享保元年(1716)7月27日76歳で往生した。御法名は、香光荘厳院前の大僧正堯円大和尚といわれる。
P 第17世円融御門跡
俗姓は伏見殿一品式部卿貞致親王第5の宮勝宮という。元禄10年(1697)5月に入室された。宝永5年(1708)9月に得度された。宝永7年(1710)7月、住職を継がれた。宝永7年(1710)、征夷大将軍家宣公の御継目にお会いするため6月26日に江戸へお着きになった。また、享保3年(1718)9月3日、征夷大将軍吉宗公の天下御家督の御祝儀に江戸へ向かわれた。
また、御本寺の阿弥陀堂建立について享保4年(1719)に南北の末寺方々が話し合い、御堂の西に建立された。日々の積道を怠らずに集まった。
この時、伊勢国津の本徳寺の隠居意林院が著述された折りに、私が添削し別に1巻を書いた。今ここで取り上げる暇はないので省略する。
歴代祖 庚
歴代祖竜王甍に幡まる また雲上に横て群生を化す
誰か知る匏杓一籃の月 宛も霊光を発して生盲を照す
2 領解鈔のこと
一番大切なことは、雨の夜の月のようである。見た目に雲っていても晴れていても西の空に動いていくことに似ているからだ。昔、天台宗や真言宗は灌頂注1して自らが仏となることを極めた。禅宗では真っ直ぐに心を正して仏となることを目指した。念仏の宗旨でも、時宗は60万人に札を出して仏になることを自ら成した。浄土宗では、五重注2によって自ら仏になることを極めた。
我が家の宗門は、十劫正覚の明け方に、私たちの往生は阿弥陀如来が回向されて必ず仏になると心に決められ、施与の心行を私たちにお与えくださることをまず最初に誓われて南無阿弥陀仏となられたことへの報恩感謝のお念仏のほかにはない。もし「領解鈔」がなければありえないものである。この世では三喝注3し、摩禅では衣鉢を渡し、浄家では許しをいただく。であるから我が宗門においても当然である。
領解鈔は、「他力の回向によって雑行雑修疑心自力を捨てて、後生をお助けくださいとお頼みし、初めて念仏を申すことで往生は決まり阿弥陀如来の念仏のいわれを正しく聞き分けられる。これから命が終わるまでの念仏は御恩報謝であると心に決めている。」このように聴聞申し上げることである。
御開山聖人のこのようなお導きは、今日世に出られた善知識の御恩であり、ありがたく思う次第である。これから後、善知識によって仰せられた心のよりどころ趣旨に背かないようたしなむべきである。
南無阿弥陀仏 名判
年号月日
右の御文は、在家同行共々が、阿弥陀如来の念仏のいわれを正しく聞き分けようとする方々へ書いて渡すものである。
また、この「領解鈔」は、真宗で古くから決められたものではいない。堯秀僧正の時に越前(福井県)の専福寺へ言い伝えるのに内密にお書きになったものとも言われているが、それは明らかではない。しかし、今日阿弥陀如来の念仏のいわれを正しく聞き分けようとする在家同行の方々にとっては、みな心のよりどころとする領解を書き付けて頂きたいものである。
領解鈔 侵
一念に領解する帰命心 凡蓑夫笠純金に為る
云つべし累代神仙の力 尚恩沢を謝す一行の音
注1 灌頂・・・・諸仏大悲の水を、受戒して仏門に入る者の頂きに注いで仏果を得させること。
注2 五重・・・・浄土宗の教えの神髄を相伝する法会で、専修(せんじゅ)念仏の教えが正しく、誤りなく次代へと伝えられていくための法会です。五重というのは五通りの説明(意義)を重ねてもれなく念仏の一大事をお伝えするから五重相伝会というのである。期間は八日間で、前六日間が前行(ぜんぎょう)、七日目が正伝法(しょうでんぽう)、八日目が御礼礼拝(おれいらいはい)となっている。近時は期間を短縮する場合もある。
●初重(しょじゅう) |
法然上人作といわれる『往生記』によって、念仏を申して往生する人の機根についてのべる。 |
●二重(にじゅう) |
浄土宗第二祖聖光上人御作の『末代念仏授手印』によって五十五の法数(ほっすう)−をあげて浄土宗の安心(あんじん)、起行(きぎょう)、作業(さごう)、三種行儀等について、法然上人より承った通りにのべている。 |
●三重(さんじゅう) |
『領解末代念仏授手印鈔』、略して『領解鈔』(りょうげしょう)といい、浄土宗第三組の然阿記主(ねんなきしゅ)禅師の御作で、前述の「授手印」の述べるところがよくわかりましたということが記されている。 |
●四重(しじゅう) |
然阿記主禅師の御作『決答授手印疑問鈔』略して『決答鈔』といい、念仏信仰を続けているうちに起ってくるいろいろな疑問に対して明快な解答を与えている。 |
●第五重(だいごじゅう) |
『往生論註』に説かれている口授心伝(くじゅしんでん)、または「十念伝」といわれる。これだけでは五重とまちがえるので、第五重と第をつける。 |
注3 三喝・・・・宋の時代になると禅宗は爛熟期に入るとともに、形式的にもなり、以前の様な活発さが無くなってきました。そこで雪竇(せっちょう)禅師という人が、かつての活気を取り戻そうと、先達の行状、問答を100集め、それに自身の見解をつけ『雪竇頌古』というものを著しました。その後50年位して、圜悟克勤(えんごこくごん)禅師という人が、弟子を教えるのに『雪竇頌古』を使いました。そして『雪竇頌古』に圜悟禅師の解説や批評などを付け加え、本にしたのが『碧巌録』という書物なのです『碧巌録』に載っている「竜頭蛇尾」の話とは次のようなものである。
宋代に陳尊者という禅僧がいました。あるとき、一人の僧に出会い、禅問答をしてみようと思いました。
「近離いずれの処ぞ?(どこから来たのか)」
「喝!」
禅家はこの「喝」という言葉に、いろいろな意味を持たせます。それが回答になっている場合もあれば、そうでない時もあります。陳尊者は再び問いかけようとしましたが、その僧は、間髪いれず一喝しました。その応答のあざやかさには只者ではないと思わせるものがありました。しかし、陳尊者は見抜いていました。
「三喝、四喝の後、そもさん(何度も喝を繰り返すが、その後どうするつもりかね)?」
このように見破られた件の僧はついに降参してしまいました。
最初の喝は「竜頭」であり、降参したあたりは「蛇尾」である。『碧巌録』は陳尊者がこの僧の正体を見破った話を紹介して、「竜頭蛇尾」と評している。「竜頭蛇尾」とは、初めは勢いがよいが、終わりは振るわないこととして使われている。
3 本照寺の開山のこと
本照寺の開山について、詳細は明らかではないが、真慧上人(高田派第10世1512年没)が伊勢国へ来られた時、高田からお供をしてきた弟子であると古い書物に記されている。
真慧上人は、念仏を広めるために、長禄3年(1459)26歳で下野国(栃木県)高田をお立ちになり、加賀国(石川県)江沼郡を教化され、次に越前(福井県)、近江(滋賀県)両国そして坂本十津の浜の妙林寺でしばらく説法をされた。寛正元年(1460)から享保5年(1720)まで261年になる。
これより船に乗って伊勢国安芸郡久留間の庄白子浦へ上がられ、笠をおかけになった。お泊まりになった所を笠懸道場といい、今の空岩道場である。まず北伊勢を教化しようとして河曲郡土師村を通られた時、土師村の農夫藪田氏が鋤をかついで野良仕事に出たおりに真慧上人に出会い、すぐに自宅へお誘いした。藪田氏のことは「黒田浄光寺開山誓祐上人縁起」1巻があり、ここで記することは省略する。また、三日市六坊のことは顕智上人ならびに河曲郡地頭後藤殿の讒言(ざんげん)については別に記されているので省略する。
伊勢国の北の熱心な信者であった采女の六郎大夫、土師の六郎右衛門、白子の太郎大夫(久谷寺を開山された)正善は、みな真慧上人の弟子である。いずれも真慧上人に喜んで住まいをお世話した。ここに一身田は天領で難しいことがあるかもしれないと思い、4人の同行衆は一身田の名主忍木伝右衛門のところへ行き、真慧上人の住まいについて詳しく話をすると、もともと伝右衛門は熱心な信者であったので、ありがたいご縁だと快く住まいを引き受けた。
真慧上人は、寛正5年(1464)に一身田へ移られ、住まわれた。同年5月に定顕上人(高田派第11世)が往生された知らせが来たが、寺院建立の大願のために下野国(栃木県)高田へおもむくことなく、寛正6年(1465)真慧上人32歳の時、この地はめでたく霊場となった。(御堂が建立された。)西の鈴鹿山脈はまさに霊鷲山注1で、北の川はガンジス川のようである。仏法が栄える霊地はここであると上人自らすばらしい土地に鍬入れをされた。こうして名主伝右衛門をはじめ同行衆が心をひとつにして寺地を開き、同年に西御堂を建立した。こうして下野国(栃木県)高田専修寺を移し、真宗の御本山とされた。
御本堂建立
長禄年中勢陽に入り 一身田上全堂に造(いた)る
月法水に移り専修の寺 本山と成り更に舌相を長ず
昔、103代後花園天皇の御世、征夷大将軍足利義政公の時、寛正6年(1465)日本中にだれも仏法を広めようとはしなかった。そんな時に真慧上人は真宗を広め専修念仏を進めると、風に草がなびくように伊勢国はみな高田門徒の同行衆となった。こうして、塩屋はみな高田門徒の同行衆となり、真慧上人をしたって御本山に足を運んだ。このころそまつな家があったので、この村の同行衆は高田専修寺の教えを守ろうと63人が連判状をつくって心をひとつにして真慧上人へ御弟子のうちのひとりをお迎えしたいと願い出た。真慧上人は御弟子のうち、明円坊を住まわせることにした。この村の同行衆はたいへん喜び、63人の連判状を明円坊に渡したところ受け取られ、住まわれることになった。明円上人は、見るからにそまつな家に住まわれ、朝は念仏者の参詣をうけ、夕方には葬送するという「念死念仏」注2の世の中なので、仏前では深い悲しみの煙がはぐれ雲に向かって立ち上り、三帰依文注3声と鐘の響きは遠くの村まで響き聞こえた。釈尊以来旅立つ時は金襴を身に付けて報身注4となり、来迎にあたってはサンゴの月夜に棹をさす。仏と信者が一体のものとなることを信じるものである。(彼此三業の会盟不相捨離注5)しかし、寛正年間のころはますます世の中は乱世となり、稲生三郷(塩屋・西村・成光)でも弓矢を持った者がおり、いなかの者は麦わらを甲冑の代わりとしていたので、村は薄氷をふむ思いで、この村の古里には四方にしっかり土手を築き、堀を構え、民家は一所に集まってひきこもっていた。こうして明円坊も御堂の建立もできず住まいに仏壇をすえて毎日を過ごしていた。
105代柏原天皇の御世、将軍義澄公の時、稲生三郷が地頭和田左右衛門太夫政盛、和田次郎左衛門尉清道、和田右京亮恒氏の文亀3年(1503)の春、真慧上人は明円坊と名をくだされ、野袈裟注6の裏書きに「文亀3年(1503)3月16日塩屋道場直参衆 釈真慧法印これを書す」と書かれ、(当寺14代忍海のときに災難にあって書き替えを願い出た)、また方便法身尊形の裏書きにも、「永正元年(1504)閏3月8日持ち主塩屋道場直参明円 釈真慧法印これを裏書す」と書かれている。
そうであれば、明円坊がこの村の本照寺の開山であり、塩屋村高田門徒の代表者である。永正元年(1504)3月18日に往生する。註7寛正6年(1465)から享保5年(1720)まで254年になる。また永正元年(1504)から享保5年(1720)まで217年になる。
本照寺開基
平氏の後胤明円坊 真慧に供奉して勢陽に来る
遠く宿縁を喜ぶ塩屋の地 一宇を開基して家郷を導く
注1 霊鷲山・・・・『無量寿経』の説法地として名高い霊鷲山(同経では耆闍崛山・ぎしゃくっせん)は、釈尊の時代のマガダ国首都王舎城を囲む五山の一つとしてそびえる岩山です。古くから「鷲の山」と呼ばれていましたが、その名の由来は、鷲が多く住むからとも、山頂の岩が鷲の形をしているからともいわれます。釈尊はその晩年、多くの時間をここで過ごされ、『無量寿経』『観無量寿経』『法華経』『般若経』を初め、数々の経典を説かれました。
注2 念死念仏・・・・今の一瞬に生の尊さを見つめることが大切である。これの教えという。
注3 三帰依文・・・・ブッダム・サラナム・ガッチャーミ(私は仏陀に帰依いたします。)
ダンマム・サラナム・ガッチャーミ(私は法(真理)に帰依いたします。)
サンガム・サラナム・ガッチャーミ(私は僧(聖者の僧団)に帰依いたします。)
注4 報身(ほうじん)・・・・仏陀となるための因としての行(ぎょう)を積み、その報いとしての完全な功徳(くどく)を備えた仏身である。また、「受用される身」とも訳すことができるので、人間がこの仏の身体を受用して成仏するという意味ともなる。
注5 三業・・・・人間のなす作用行為のことで、そのことによって善悪が生じる。
その根本業が身から生じる殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪婬(じゃいん)と、口から生じる悪口、両舌、綺語、妄語と、意から生じる貪欲、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)。この身業(しんごう)・口業(くごう)・意業(いごう)を三業という。
会盟・・・・会は覇者が諸侯を会同すること,盟は覇者が諸侯に対して載書(条約文書)を宣読し,条件付他人呪詛(違反者への鬼神の制裁の予告)をもって条約の遵守を強制すること。会盟とは会と盟,あるいは盟自体を指す。
彼此三業不相捨離・・・・蓮如上人『御文章』三帖目第七通等によれば、南無阿弥陀仏の南無の二字を阿弥陀仏を信ずる機とし、阿弥陀仏の四字をたすけたまう法というように、二字と四字に分釈し、名号はたのむ機 とたすけまします法とが一体であるという機法一体の道理をあらわしているといわれている。すなわち「たのむ」機、すなわち信心は、「たすけたまう」法、すなわち摂取不捨の願力によって起こさしめられたものであって、たすける法の外にたすがる信心はない。ゆえに機と法とは一体(不二)であるといわれるのである。
すでに「たすけたまう」法が、私の上に「おたすけをたのむ」信心となって顕現しているのであるから、「たのむ」信心が発ったとき、信心の行者は「たすけたまう」法に摂取される。その摂取不捨の利益にあずかっているすがたを彼此三業不相捨離と釈されたが、この場合は、如来と信心の行者との不離一体のことを機法一体といわれたといえよう。
注6 野袈裟・・・・南无阿弥陀佛の御名号の書かれたもの。葬儀の時にかけるもの。
註7 開基明圓上人は、過去帳の記録では、永正2年(1505)3月8日に往生している。
4 真慧法印六字名号のこと
当寺で使われている宝物の六字名号一幅は、真慧上人の御真筆である。この御名号は、当寺歴代が使ってきたものであるが、同行数が多いため往生された方や年忌をされることがしばしばである。それで、同行衆が志をあげられた時には民家へ入るようになった。野仏は、焼香のときだけお出になる。
真慧名号 先
今日出門田舎の辺 果名の六字絶莚に至る
菩提の坐席西来の客 法灯前に在って寸志こうばし
同云 攴
法印の毫端価を知らず ただ尊きを知るに也果名のいたり
墨垂露を研童子を済う 筆魚鱗に踊って幼児と化す
門弟肩を雙鈴取りの品 同行膝を組む称名の移り
肝腸月を曝(さ)らす心根発す 化物を吹いてついに宝池に至る
また、外に大幅の名号
真慧法印御直筆 六字御名号之在
5 野仏御影 琢磨法眼真筆
当寺で使われている野仏は、琢磨法眼栄可という画師の直筆である。もともとこの画師は、大和国(奈良県)の住人だった。仏像づくりにすぐれた天下の名人である。いわゆる義之の筆跡は寸石に三寸入り、子恭の筆端は光明を放っている。しかし、栄可の画筆には人を良いほうに導く。落梅が雲に飛ぶ様子は、洞雲院の夕暮れに似ている。混ぜて同じにしがたく、似ていて語りやすい。93代後二条天皇の代、乾元元年(1302)の人である。乾元元年(1302)から享保5年(1720)まで426年になる。
野仏御影 先
野仏の霊光万川に浮ぶ 機感相映じて月更に円なり
乾元四百年中の筆 落日龕前白蓮に至る
6 当寺中尊仏のこと
当寺御堂の中尊仏は、110代女帝の代、征夷大将軍家光公大献院殿の世、寛永19年(1643)11月28日、塩屋
注1 十念・・・・真宗学では、従来より江戸期宗学の中で「十念」について種々の議論がある。「十念」の出典は、『観経』下品下生段「…具足十念、称南無阿弥陀仏…」とある。その文の示すように、「十念(十たび念じて)を具足して、南無阿弥陀仏を称えさせる」という意味である。しかし、宗学者の論点は、「十たび」という回数は問題ではなく、「念ずる」行為は南無阿弥陀仏を称える称名念仏であるとし、浄土往生できると捉える。すなわち、「十念」は往因(浄土往生への因)として、称名念仏を意味すると理解している。
そもそも「十念」を定義付けしたのは、北魏の曇鸞(四七六ー五四二年)である。主著『浄土論註』上巻、八番問答には、「十念」について曇鸞独自の解釈が述べられている。以後、隋の道綽(五六二ー六四五年)は曇鸞の「十念」解釈を継承し、「十念」を念仏三昧と同義に見て、独自の念仏思想を確立する。道綽の弟子善導(六一三ー六八一年)は、曇鸞・道綽の「十念」を継承しつつも敷衍し、「十念」に称名思想を結びつけた二。善導は「十念」を「十声」と読み替えることで、明確に「声」として仏名を称えることを明示した。
7 内仏張子弥陀のこと
当寺内仏張り子の阿弥陀仏は、本山第16世堯円大僧正の御局幽明院知通専悦大姉の延宝年間(1673〜1681)の自作である。張り子の阿弥陀仏は2体ある。1体は稲生村成泉寺へおわたしになった。また1体は、当寺内院の看経仏注1として安置したてまつっている。
張子弥陀 歌
紫金明なり張子の弥陀 結跏鎮座貴卑を化す
誰か識る知通専悦の作 すべて鶴首に乗り蓮池に至る
注1 看経(かんきん)・・・・声を出してお経を読む。
8 当寺張子上宮太子のこと
当寺の太子は、本山第16世堯円大僧正の御局の延宝年間(1673〜1681)の自作の張り子の太子である。2体ある。1体の未彩色のものは円応寺村慈教寺へ私(融弁)の代にゆずった。また1体は、霊察の代に当寺の右側の祖師檀に安置した。ところで聖徳太子は、元は救世観音である。仏法を広めるために現れたものである。2644年の昔、仏教は西の国の興り、我が国の朝廷30代欽明天皇の代に、仏教が初めて日本に伝わった。儲君(よつぎのきみ。太子のお名前である。32代用明天皇の皇子である。)が施しをされなかったならば、どうして弘誓に逢うことができただろうか。それで皇太子を崇めるのである。これは仏法を広めた大いなる恩に感謝することである。
上宮太子 灰
塵世に似同す上宮の台 玉体芬々として霊徳堆(うずたか)しし
法灯を弘伝して衆弊を廖(すく)う 精舎を擁護して幾回を送る
9 本照寺代々のこと
ちょっとした春風ですら、西般では南枝は暖かく北枝は寒い。しかし南に面した橘胡国に植えればたちまちに枸橘(からたち)となる。今もそれぞれである。桜に普賢像注1、白梅に紅梅、八入(やしお)に野村、皆つげば付いて形態を受け継いでいる。とても喜ばしいことだ。
当寺を開山した明円御房は、この村の高田歴代の先師である。30余年住職をされ、残されたものは明円房にまつわるものである。往生された年月日はわからないので、御裏書を往生の日としている。
当寺第2世光円坊は、106代後奈良天皇の代、将軍義輝公の天下、弘治元年(1555)まで51年住寺し、本山第11世応真僧正の時に、あとを円定坊にゆずった。
当寺第3世円定房は、106代後奈良天皇の代、天文11年(1542)に入寺し、39年住職をした。本山12世堯恵大僧正の時、慶長7年(1602)、専悦尼に譲った。(ただし、この1代のうちに山本西岸寺へ行っている)
当寺第4世専悦尼は、108代後陽成天皇の代、慶長7年(1602)に入寺し、9年住んでいた。本山13世堯真権僧正の時、慶長15年(1610)2月6日にあとを光雲坊に渡した。
当寺第5世光雲房は、108代後陽成天皇の代、大将軍家康公の世、慶長15年(1610)に入寺し、6年住寺し、本山第13世堯真権僧正の時、元和元年(1615)にあとを浄円坊にたくした。
当寺第6世浄円房は、109代太上皇帝(後水尾天皇)の代、元和元年(1615)に住職し、9年住寺した。そのころまでは、古里土宜清兵衛屋敷の南東に小さな草庵に住まいしていた。そして福楽寺の西隣に屋敷替えをし、5間(約9m)4間(約7m)の堂を建てて暮らすようになった。本山14世堯秀大僧正の時、征夷大将軍秀忠公の天下、元和9年(1623)にあとを意信坊にゆずった。
当寺第7世意信房は、109代太上皇帝(後水尾天皇)の代、元和9年(1623)に入院し、9年住んでいた。本山14世堯秀大僧正の時、寛永8年(1631)に尾平の欣浄寺へ移り、あとを栄伝坊に与えられた。
当寺第8世栄伝房は、110代女帝(明正天皇)の世、寛永8年(1631)に入寺し、本山14世堯秀大僧正の時、寛永14年(1637)生桑の専養寺へ入院し、あとを伝察坊にまかせた。
当寺第9世伝察坊は、俗姓は水谷氏である。二つ引きの家紋である。この水谷とは、尾張国(愛知県)長嶋の城主である。水谷左京大輔という。天正2年(1505)、信長公が尾張国へ向けて出発し、長嶋一向宗の一揆を攻め破った。城は攻め落とされ、ついに左京大輔は自害した。左京の一子は幼児であった。信長の家臣が捕らえて二太刀通して葦原の中へ捨ておいた。帰陣のあとで、乳母はせめて遺体だけでもと探し回ると、不思議なことに葦原の中に幼児は存命であった。喜びいっぱいで長嶋にある本願寺村に抱き帰り、成人するまで養育され、髪を剃り衣を身にまとわれ、それよりいっしょにどこかの家でしばらく住まわれた。その後、伊勢国桑名に行き、先祖右京の菩提を弔うため願生寺の一堂を建立し、長嶋城の鯱(しゃちほこ)を願生寺の太鼓櫓に上げられた。今ここにある。その後、織田信長公は天正10年(1582)6月2日、上洛の時に本能寺に宿をとり、その子信忠公は二条城に宿をとられ(信長49歳、信忠28歳)、両所とも明智日向守光秀のために殺された。今は本願寺に敵対するものはなく、それで太閤豊臣公の天下の時、桑名願生寺は139石の朱印状を頂戴し、また家康公の天下の時、同じく朱印状を頂いた。また、尾張国(愛知県)名古屋に4町6町の通い所を頂いたので、家康公の天下となって尾張国(愛知県)尾張大納言義直卿に渡り、朱印状等は大納言卿の支配となった。桑名願生寺は昔は東本願寺の末寺であった。後には西本願寺の末寺となった。またこのたび、正徳5年(1715)に高田の末寺となった。また、松坂の願生寺も高田の末寺となった。ここに伊勢国河曲郡箕田の安養寺は、桑名郡願生寺の子孫である。塩屋本照寺第9世伝察坊(定信房とも言う)は、箕田の安養寺の弟子であり、長男である。箕田の安養寺は桑名願生寺の末孫である。これによって伝察坊は、長嶋左京大輔の一族であることははっきりしている。伝察坊が幼少のころ、本山智光院一代であり正教院のいとこであるという縁によって、しばらく院におられた。110代女帝(明正天皇)の代、将軍家光公の天下、寛永14年(1637)本山第16世堯円大僧正の時、伝察坊16歳の時、智光院からここ本照寺へ入院し、43年住まわれた。延宝7年(1679)、あとを弟子の霊察にゆずった。その後、水沢の一乗寺へ移り、天和3年(1683)3月18日62歳で往生した。一心院釈昌悦定信上人と号した。
第10世霊察坊は、伝察坊の弟子である。関東に行き、増上寺のもとに十余年暮らした。本山第16世堯円大僧正の時、延宝7年(1679)、入院し、9年住んだ。貞享4年(1687)あとを円融にゆずった。同年2月4日、37歳で往生した。寿末院釈霊察定阿上人と号した。
第11世円融坊は、俗姓は甲府武田信玄公の家臣山本勘助の末孫である。祖父は山本助左右衛門浄正という家康公の家臣である。父は、山本三郎右衛門住雪といって阿部修理大輔の家臣である。子息は慶安元年(1648)10月24日に生まれ、山本熊之助吉正といった。増上寺21代業誉上人の弟子である善智和尚(江戸崎大念寺から瓜面浄福寺に移って住む)を師匠として、11歳で出家し、30余歳で伊勢国庵芸郡黒田浄光寺一代の藤堂数馬の子息唯勝院誓智上人の学問の指南役に来て、しばらく住んだ。本山第16世堯円大僧正の時、貞享4年(1687)に当寺へ入院した。そのあとは、融弁にまかせた。
当寺列祖 陽
蓬莱の三嶋御盃香し 門弟流を酌む金殿堂
列祖の機関浄国の媒(なかだち) 農家遙に送る玉蓮房
時に正徳5年(1715)2月7日の夜、阿弥陀仏に救われた夢から目覚めたところ、野僧が両腕を取って家の中へひっぱりこんでいた。
摂取夢 先
一瓶価なし赤栴檀 笑を含む顔二葉より蘭(かんば)し
手を握る紫金連理の契り 誰れ知らん精神馬汗の焉(わら)い
注1 普賢像・・・・サトザクラの代表的な園芸品種。淡紅色。八重の大きな花をつける。
注2 八入(やしお)・・・・何度も染料液に浸して濃くつけること。
10 当寺中尊 (坊号中老寺号境台 下屋敷中興のこと)
当寺第8世伝察上人は、中尊、坊号、中老官、寺号、境台、下屋敷までことごとく建立された。したがって中興の位牌をたてる。
当寺の中尊は、110代女帝(明正天皇)の世、将軍家光公の天下、寛永19年(1642)11月28日、ここの住人である疋田源惣右衛門が父の7回忌のために寄進なさった。当寺の坊号官は正保3年(1646)12月29日、佐部利源兵衛と別所治部右衛門の判形がある。当寺の中老官は、生桑の専養寺から親取して公金は少しでまかなった。また、堯円大僧正のの御局伝察御房の小姑女の関係で公金は少しで済んだ。慶安4年(1651)9月8日、国府谷判左右衛門と別所治部右衛門の判形がある。
当寺の寺号は、慶安4年(1651)8月27日にいただいた。111代今上天皇(後光明天皇)の代、将軍家綱公厳有院殿の天下、本山第16世堯円大僧正の時、慶安4年(1651)8月27日、敷地半左衛門と別所治部右衛門の判形がある。
当寺の境内は、征夷大将軍厳有院殿家綱公の天下、寛文8年(1668)1月26日、古里から大山へ移って屋敷を建てた。
大庄屋徳田村(渥美氏吉三郎)、小庄屋稲生成光村大井喜右衛門、西村塩屋村樋口八兵衛宗順
寺地の境内は、東西60間(約110m)南北110間(約200m)が年貢地である。
屋敷南 4畝24歩(約480u) 村井太兵衛 判
分米5斗7升6合 岩本次良左衛門 判
中井三右衛門 判
延宝8年(1680)6月 稲生庄屋肝煎中
屋敷北下々畑 4畝3歩(約410u) 井関弥五助 判
分米2斗6合 太岡兵之右衛門 判
伊藤庄兵衛 判
元禄8年(1695)10月 稲生庄屋肝煎中
古里の寺地跡は当寺の下屋敷である。
御年貢地 本田 1斗3升
分米 東西へ13間(約23m)南北20間(約36m)ほど皆湿地(マルガマの生えた土地)となっている。
寺徳用 先
独一浄身摂化円なり 常に金織を懸けて紅天を照す
太山地に移る寛文の日 幾か是定信建立の仙
11 当寺田畑のこと
一高2石8斗2升6合である。
右の田地、金子8両2歩で永代買い取る
同じく右の金子は西の御貢御蔵へ入れる
たしかに手形がここにある
寛文10年(1670)3月26日 庄屋 九兵衛
売主 与左衛門
請人 善兵衛
同 八助
口入 彦右衛門
ただし、この中南台 1石代
円融入院前に庄屋伝助 庄左 又兵衛
古里 清兵衛 久左衛門
売る今に不変 買主 久左衛門
右の田畑は御局が宗斉へ買いつかわされる
12 北山畑のこと
北山上畑 1畝9歩(約129u) 村井太兵衛 判
分米 1斗4升3合 岩本次郎左衛門 判
中井三右衛門 判
延宝8年(1680)6月 稲生庄屋肝煎中
北山田 先
遙に送る北定葬舎の煙 穢(けがれ)名塚に祓って八神円なり
自然田畠当寺に附す 正に心霊をして白蓮に至らしむ
13 冨士山畑のこと (冨士塚ともいう)
冨士塚 中畑 5畝18歩(約554u) 村井太兵衛 判
分米 5斗4升 岩本次郎左衛門 判
中井三右衛門 判
延宝8年(1680)6月 稲生庄屋肝煎中
右の畑を起こし、茶の木を後に植えた年貢畑である。
冨士塚畑 先
空地新におこす廟所の辺 松間寂莫としてホトトギスを聞く
いざ帰らん如来の地 粟稗乱漫として蕎麦かぐわし
14 鏡田
当寺鏡田は5束刈ほどの広さである。地下田慣の時、余った田地を如来へさしあげるものである。右の地下田慣のいわれは、中巻15目録に書いてある。
鏡田 先韻
生水如何か勘左の池 心を仏地に移して青田を養う
更に白月を盛る大円鏡 応用天然として万千を送る
15 三昧廟所
当寺冨士塚廟所は誰もいわれを知らない。昔から高田の墓地である。しかし71年前、寛永13年(1636)、真西子の新法子と野村の四郎左衛門が寺家の端まで草刈に行き御座池でふたりとも水死した。埋葬のために墓穴が2ついるので外に穴を1つ掘ると、自然にむかしの墓穴に堀り当たった。今の墓穴はこれである。また、廟所の五輪塔は31代敏達天皇元壬辰の年(512)、聖徳太子の時、宇成見寺と言う石 それで五輪水大円形ばん石に仏舎利を埋め奉っていると古老の言い伝えである。
冨士塚三昧 先
冨士の塚塔東辺に在り 松樹の風の音愛憐を染る
ただ見る九天換骨のけむり 竜頭鶴首空川に走る
16 御所桜
当山の境内はむかしとちがって東西に広く南北に長くのびている。碧い松は雲を飾り、竹葉は赤土に繁っている。白く清らかな水は井戸にみなぎり沸きだし、月を移してゆったりしている。常緑の橘は夏至に香り高く、秋は霜、冬は雪に映える。むかしの御堂は承応元年(1652)まで古里にあって6間の建物で100年が経っていた。寛文8年(1668)出屋敷して年月を経て鬢髪が白くなるくらいにどうしようもなくなったので、元禄15年(1702)閏8月、寸志をつのったところ柱立するまでになった。まことに満徳円備の仏陀は東の山に高くそびえている。四智円明の尊体は中台に堂々としている。ここに前庭の御所桜を拝見して書きつづるだけである。
御所桜 真
東山の精舎洛陽の春 二百余年金繍にいたり
御所の華容翁草か詠 一時千金幾旬を楽しむ
17 篠塚稲荷大明神
篠塚稲荷のいわれは、源氏頼朝公の家臣畠山庄司重忠六代の末孫で武蔵国生まれの住人篠塚伊賀守は嘉暦年間(1326〜1329)のころ、新田左中将義貞朝臣のみこまれたうでのすぐれた力の強い勇士であった。応安年間(1368〜1375)に故郷の武蔵国に帰り、江戸浅草鳥越で病死した。不思議なことに、遺骸から光りを放ち、そこの目付や賤民に不思議な恩を与え、稲荷大明神として祀られた。この稲荷は江戸で一番の霊験あらたからでこの世のもの供思われないほどだった。そこで元禄15年(1702)、当寺の鎮守天神の社のかたわらに小さな社を建てて祀った。稲荷とは、霊鷲山を守る神で仏法を守護する大明神である。弘仁7年(1816)4月には紀伊国田辺の宿に人の姿で現れ、弘仁14年(1823)1月には稲を背負い杉を持って2人の女人と2人の子どもをお供にしているところが見られた。2人の女人は下中宮となり、2人の子は田中の明神稲荷5社となった。
ある古書に、稲荷とは荷田大明神の地へ倉稲魂(うがのみたま)を祀ることから名付けられた。稲を荷うという名ではない。もとは稲の魂である。これを倉稲魂と言う。これは姿形ある神を言うのではない。姿形は、稚産霊神(わかみむずびのかみ)または保食神とも言う。結局は姿形が五穀の精霊と言っても同神異名である。この神は衣服や食物をつかさどる神であるので、広く人々が信仰している。天子や諸侯から下は万民までこの神の魂の恩恵をうけることが多く、自分に頂いたものはまずこの神に捧げた。日本では山城国や紀伊の郡に和銅年間(708〜101543代元明天皇)に初めて奉られた。世間で狐を稲荷と言うのは誤りである。山王権現の猿、八幡宮の鳩、春日大社の鹿と同じく、狐は稲荷大明神の使者と思うことだ。このものは時折主人の威を借りて奇怪なことや奇妙なことをする。そこで人々は意図を誤って敬い、小豆飯などでもてなすのである。
稲荷大明神 東
篠塚の判官東国の公 仁智の勇士山洞を砕く
奇なるかな芬郁妙なるかな晃 また稲荷と化して百工をあわれむ
18 寺内の天神
当寺の天神は、第10世霊察定阿上人が天和年間(1681〜1684)に寺の北東に移して奉り、鎮守とした。
天満天神 先
菅姓梅に乗り素天に飛ぶ 青をまとう幣帛注1精心かぐわし
筆士に附依す稲荷の社 長命山頂一円を守る
注1 幣帛・・・・ぬさ。禮物に用いるきぬ。
19 当寺開山の御影
当寺開山明円御房の御影1幅は、正徳4年(1714)7月15日施主稲生成光村渥美瀬兵衛が両親のために寄進されたものである。
明円御影 灰
今月明円重畳の台 常に西刹居して間塵を導く
紅顔見るならく秋月に似たり 総て先師となって幼孩を化す
20 鍛冶垣内道場
稲生西村鍛冶屋垣内道場は、本照寺の末寺である。106代後奈良天皇の代、征夷大将軍義植の天下、本山第12世堯恵大僧正の時の髭道場である。その時の野袈裟はなくなっている。年号は天文8年(1539)1月28日であった。正徳6年(1716)までに170年になる道場である。今の御袈裟は、本山第16世堯円大僧正の御真筆である。天和2年(1682)5月28日、本照寺下と書き付けがある。
鍛冶屋垣内道場 東
筆を天分に染む六字濃(こまやか)なり 門弟を分開して僧宮を授く
更に蓑笠成る応真の絹 遠く野山に送り涙袖紅なり
21 稲生中村道場
稲生中村道場はむかしの髭僧であった。本照寺の末寺である。105代後柏原天皇の代、征夷大将軍義植の天下、本山第11世応真僧正の時、永正12年(1515)にできた道場である。正徳6年(1716)までに194年になる。応真僧正の御真筆の野袈裟、水引はなくなっている。六字の名号だけ残っている。ここにその昔、中村は稲生の内である。軒数は30〜40軒ほどであった。そこの地頭は、分部左京と長野次郎右衛門殿であった。昔は中村に倉田殿という武勇の達人がおり、屋敷があった。そのあとは、相続した六郎左衛門が住んでいた。その子で惣領の又兵衛も住んでいた。正徳年間(1711〜1716)に稲生成光村に出屋敷して住んでいた。元和年間(1615〜1624)に塩屋の東280石の寺家村へ使いを送り中村108石を受け取ることを、大庄屋樋口太郎左衛門宗徳の代に中村の庄屋勘左衛門と小左衛門の2人の手形判で大庄屋樋八兵衛と判形で済ませていた。中村はだんだんと衰えていき、稲生村上畠(あげはた)と成光とに出屋敷し、跡は畑となった。中村道場の主は、もとは六郎左衛門といい、応真僧正と堯恵大僧正との御名号2幅が道場の御名号だったというが、これは古老の言い伝えで、いつごろ道場がなくなったのかはわからない。この御名号の持ち主は、成光村の六郎左衛門の子息の又兵衛のところにあり、中村衆の墓地も稲生村名塚と同じ所にある。
中村道場 陽
往古中村俗道場 応真門弟俗觴を酌む
永正堂宇蹤迹絶つ 六字の残花更に断腸
22 禅教道場
塩屋村冨山の道場は、むかし髭僧俗道場であった。本山の大帳に塩屋本照寺下とある。
御公儀宗門帳に{高田宗同村本照寺末寺一禅教道場屋敷御年貢地本尊弥陀真慧筆}とある。永正18年(1521)より元禄3年(1690)まで175年。右は元禄3年(1690)の10月御改めに書き上げてある。禅教の野袈裟には永正18年(1521)9月14日とある。(真慧上人は永正9年(1512)に往生される。永正10年(1513))の春、上人の弟子の応真僧正が御住職になった。天文6年(1537)、応真僧正は往生される。永正10年(1513))から天文6年(1537)まで、その間25年である。されば、禅教の野袈裟は応真僧正の御真筆であることは明らかである。)
また、禅教道場の御裏書に「方便法身尊形 塩屋 持主禅通 永正2年(1505)1月5日」とある。この御裏書は、北黒田西の庄、肝煎八右衛門のところに安置されていた仏像の御裏書きを八右衛門のところで借りて禅教同行が写したものである。また禅教道場の六字名号には、「釈真慧法印 書之」とある。
禅教道場について、愚僧(円融)の入院以来、本末の争いがあった。
元禄3年(1690)、初めて本末の争いがあった。
寛永5年(1708)、本末の争いがあった。
正徳2年(1712)、本末の争いがあった。
右の三度とも御対面所で智光院8世金剛心院権律師公常上人がお出になって、禅教道場の事は本照寺末寺とはっきりされた。詳しいことは別紙に記してある。禅教同行組、冨山の市右衛門は、正徳3年(1713)に智光院と禅教同行衆へ断りを入れ、本照寺の直檀那になった。
禅教道場 真
本照山頭御所の春 古梵開敷して満枝匂う
永正辛巳応真筆 正に袈裟を載いて玉珍と為す
23 寺社奉行改宗御改書付のこと
御領地内へ寺社奉行から
高田一宗のことは、代々朱印がここにある。勝手に改宗いたさないようにすること。もちろん寺と檀家が互いに心得て、改宗いたそうとする時にはことさら正しいことをとおす心をつくして、改宗しにくいようにすべきこと。
右は、元禄15年(1702)3月、御領地内へ御公儀寺社奉行からのお知らせをうかがった文書である。
御領下触 先
史官触流る元禄の年 仰て御朱印を開く天に輝く
自在に閉禁す門弟の掟 換骨の宗風玉仙と化す
24 御本山三か条のこと
今後紀州藩内へ御一宗のきまりについてご沙汰があった。すでにおのおのはご承知のはずである。末寺の方々は、御朱印の御権威の力によって、また御家のご威光によって、檀信徒に対して分をわきまえないことがないように申しつけ、けっして勝手なことをしないようにすること。しっかりし御法式を守り和を保ち、分相応に交わるべきこと。
一 松坂、白子、田丸の三領地の処置は、それぞれしっかり守りけっして宗門判形等が遅れないように念を入れてしっかりつとめるべきこと。
一 檀信徒の内、貧しい者がおり、導師の儀を申し出てきた時は、自分の造作をしてすぐに参らせ、それ相応に取り置くのはもっともなことである。ふつうに思いのままに任せて檀信徒の志をなくしたようなふるまいがある時には、度を越したところについてその様子に合わせて仰せつけるべきである。
一 何かの理由があって、寺と檀信徒が言い争うになる場合は、僧侶に非がある場合は、寺から追い出したり、御一宗の末寺を替えたりすべきこと。
右の通知を仰せられた。
智光院
元禄15年(1702)3月
僧俗
年寄中
塩屋
本照寺
本山触 先
元禄回旋す壬午の年 条目を謹しむに堪えたり高宣を仰ぐ
南北に唱吟す五陽の月 三曲調高し杜宇の天
25 当山寺家台田地
本照寺の田地の家奥の90刈は、寺家村十兵衛の田地である。金7両で買うことになった。ただし、金子を増やして、9両以上で買い求めた。
この金7両は、津名古屋元順からいただいたものである。そのもとは、江戸新橋米屋三十郎からいただいた金である。この金は、津魚町元順老人の内縁の妻と娘が当寺に45年住まいしていた縁によって、金をいただいたものである。妻は津へ帰り、伊賀の姉婿のところで往生した。
施主魚町妻菩提のためである。
26 本照寺庫裡建立
当山台所は、当寺第10世霊察の時、延宝8年(1680)、6間半と4巻半のものをつくられた。
27 薄黒衣ならびに隠居屋建立
当寺第12世融弁の時、黒衣をつくった。金は檀家から出る。またほかに享保3年(1718)、4間半と2間の茅葺きの隠居を建てた。