塩屋縁起翁草の記述に関する年表
年号 |
稲生のできごと |
その他のできごと |
霊亀 〜養老年間 (715〜724) |
行基が獅子頭1頭を作る。 |
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天平宝勝元年 (749) |
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* 行基82才で往生する。 ・ 東大寺大仏ができる。 |
宝亀 5年 (774) |
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* 空海が生まれる。 |
延暦12年 (793) |
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* 空海、泉州槙尾寺で出家する。 |
延暦14年 (795) |
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* 名を空海と改める。 |
天長年間 (824〜834) |
空海が伊奈冨神社大宮の本地仏・阿弥陀如来、西宮の本地仏・薬師如来、三大神の本地仏・不動明王と毘沙門天を彫刻する。 空海が獅子頭1頭を作る。 伊奈冨神社菩薩堂が建立される。 |
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承和 2年 (835) |
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* 空海62才で往生する。 |
元慶 2年 (878) |
大神宮諸雑事記に伊奈冨神社3月3日の大祭の獅子舞についての記述がある。 |
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延喜11年 (921) |
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* 空海、弘法大師の贈り名を受ける。 |
平治元年 (1159) |
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* 平清盛が天下を取り、20年間治める。 |
治承 4年 (1180) |
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* 源頼朝が天下を取り、北条9代を合わせて115年間治める。 |
元暦 元年 (1184) |
このころ、運慶の弟子・安阿弥が獅子頭1頭をつくる。 |
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乾元 元年 (1302) |
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* 野仏を描いた琢磨法眼栄可という画師が生まれる。 |
建武元年 (1334) |
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* 尊氏から15代、合わせて239年、世を治める。 |
応永15年 (1408) |
稲生三郷の初代地頭となる。願主の棟札がないため氏名は不明である。(長禄元年(1457)まで50年間) |
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長禄 3年 (1459) |
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* 第10世真慧上人26歳で下野国(栃木県)高田をたつ。 |
寛正 5年 (1464) |
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* 真慧上人に一身田へ移られる。 |
寛正 6年 (1465) |
塩屋村の同行衆63人が連判状をつくって真慧上人へ御弟子をお迎えしたいと願い出て、御弟子のうち、明円坊がこの地に来る。 |
* 真慧上人西御堂を建立する。 * 真慧上人が伊勢国で教化し、高田門徒が増える。 |
文明16年 (1484) |
稲生三郷2代地頭として、棟札に和田左衛門太夫政盛・和田次郎左衛門清道・ 和田右京亮恒氏の名がある。(天文10年(1541)まで57年間) |
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文亀 3年 (1503) |
真慧上人から明円坊と名をいただく。 野袈裟に「文亀3年(1503)3月16日塩屋道場直参衆 釈真慧法印これを書す」と書かれる。 |
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永正 元年 (1504) |
方便法身尊形の裏書きに「永正元年(1504)閏3月8日持ち主塩屋道場直参明円 釈真慧法印これを裏書す」と書かれる。 |
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天正 2年 (1505) |
禅教道場の御裏書に「方便法身尊形 塩屋 持主禅通 永正2年(1505)1月5日」とある。この御裏書は、北黒田西の庄、肝煎八右衛門のところに安置されていた仏像の御裏書きを八右衛門のところで借りて禅教同行が写したものである。また禅教道場の六字名号には、「釈真慧法印 書之」とある。 明円は40年住し、3月8日、89才で往生する。(「翁草」では、永正元年3月18日とされているが、過去帳ではこの日である。) |
* 信長公が尾張国へ向けて出発し、長嶋一向宗の一揆を攻め破る。 長嶋の城主・水谷左京大輔は自害した。一子(幼児)は傷を負ったが存命であり、長嶋本願寺で成人するまで養育され、剃髪した。その後、伊勢国桑名に行き、先祖右京の菩提を弔うため願生寺の一堂を建立し、長嶋城の鯱(しゃちほこ)を願生寺の太鼓櫓に上げられた。(第9世伝察坊の先祖に関わる寺である。) |
永正 9年 (1512) |
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* 真慧上人10月22日79歳で往生する。 |
永正18年 (1521) |
9月14日、禅教道場に野袈裟を頂く。 和田氏の子孫を稲生三郷の地頭として迎えた。(以後、伊奈冨神社の大祭では和田氏の供養のため、御輿の先舞に三本扇子の常紋をかざり、また迹舞に鬼板烏帽子を押さえとした。) |
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永正12年 (1515) |
稲生中村道場ができる。 |
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天文 8年 (1539) |
1月28日、稲生西村鍛冶屋垣内道場に野袈裟をいただく。(紛失) |
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天文10年 (1541) |
稲生三郷3代の地頭として大明神宮社の棟札に、豊前守藤盛・長菊丸・源土佐守光延の名がある。 稲生殿と申すのは、和田豊前守源藤盛でである。(慶長11年(1606)まで66年間) |
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天文11年 (1542) |
第3世円定房が入寺し、39年住職をした。(ただし、この1代のうちに山本西岸寺へ行っている) |
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弘治 元年 (1555) |
第2世光円坊が51年住寺し、あとを円定坊にゆずる。 |
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天正元年 (1573) |
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* 織田信長が天下を取る。 |
天正10年 (1582) |
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* 6月2日、信長公とその子信忠公は明智日向守光秀のために殺される。(信長49歳、信忠28歳) 太閤秀吉の天下となる。 |
文禄 3年 (1594) |
稲生三郷に羽柴下総守新庄東玉両奉行によって検地の棹が入る。 |
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慶長 7年 (1602) |
円定坊が第4世専悦尼に譲る。 第4世専悦尼は、9年住んでいた。 |
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慶長11年 (1606) |
稲生三郷4代の地頭として棟札に、長菊丸・工藤氏苗裔長野次右衛門尉政勝・ 地頭源氏苗裔分部左京亮光信の名がある。 |
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慶長15年 (1610) |
2月6日に専悦尼があとを光雲坊に渡した。第5世光雲房が入寺し、6年住寺した。 |
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元和 元年 (1615) |
光雲房があとを浄円坊にたくした。 第6世浄円房は、9年住んでいた。 8月8日、冨山・高浦へ出屋敷する。 |
* 徳川家康の天下となる。 |
元和年間 (1615 〜1624) |
中村から寺家村へ使いを送り、中村108石を受け取ることを、判形で済ませる。その後、中村は衰退し、稲生村上畠(あげはた)と成光とに出屋敷し、跡は畑となった。 福楽寺・祐仁の時、樋口宗徳の寄進で2間4面の薬師堂を建てる。 福楽寺の西隣に屋敷替えをし、5間(約9m)4間(約7m)の堂を建てる。 |
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元和4年 (1618) |
稲生三郷5代の地頭が、紀州和歌山城主 従二位徳川常陸介大納言源頼宣卿 となる。(寛文11年(1671)まで) |
* 伊勢国の松坂・白子・田丸の知行が紀伊国大納言頼宣公へ移った。 |
元和 9年 (1623) |
浄円房があとを意信坊にゆずった。 第7世意信房は、入院し、9年住んでいた。 |
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寛永 8年 (1631) |
第7世意信房は、尾平の欣浄寺へ移り、あとを第8世栄伝坊に与えられた。 栄伝房は、入院し、7年住んでいた。 |
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寛永13年 (1636) |
冨士塚廟所について由緒が伝えられている。 この年、真西子の新法子と野村の四郎左衛門が寺家の端まで草刈に行き御座池でふたりとも水死した。埋葬のために墓穴が2ついるので外に穴を1つ掘ると、自然にむかしの墓穴に堀り当たった。今の墓穴はこれである。 |
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寛永14年 (1637) |
第8世栄伝房は、生桑の専養寺へ入院し、あとを第9世伝察坊にまかせた。 第9世伝察坊(定信房とも言う)は、俗姓は水谷氏で、二つ引きの家紋である。箕田の安養寺の弟子であり、長男である。箕田の安養寺は桑名願生寺の末孫である。これによって伝察坊は、長嶋左京大輔の一族である。 伝察坊が16歳の時、智光院からここ本照寺へ入院し、43年住まわれた。 |
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寛永17年 (1640) |
福楽寺の鏡田ができる。 道場3ヶ所に鏡田ができる。 |
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寛永19年 (1642) |
当寺御堂の中尊仏が、11月28日、塩屋村の住人である疋田源惣右衛門が父の7回忌のために寄進される。元暦年間(1184〜1185)の仏師雲慶の弟子安阿弥の作である。 |
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正保年間 (1644 〜1648) |
野村に山神を祀る。 |
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正保 元年 (1644) |
野村に出屋敷する。 |
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正保 2年 (1645) |
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* 第14世堯透大僧正の時、御院を焼失する。 |
正保 3年 (1646) |
当寺の坊号官、12月29日、佐部利源兵衛と別所治部右衛門の判形がある。 |
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正保 4年 (1647) |
野村に対して、諸役御免の3ヶ条が出される。 |
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慶安 4年 (1651) |
当寺の中老官、9月8日、国府谷判左右衛門と別所治部右衛門の判形がある。 当寺の寺号は、慶安4年(1651)8月27日にいただく。敷地半左衛門と別所治部右衛門の判形がある。 |
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承応 元年 (1652) |
むかしの御堂がこの年まで古里にあって6間の建物で100年が経っていた。 |
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明暦 2年 (1656) |
福楽寺の薬師仏が再興される。(2尺5寸の金箔仏) |
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万治 3年 (1660) |
福楽寺の墓地ができる。 |
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寛文 6年 (1666) |
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* 第14世堯透大僧正の時、本堂が再建される。 |
寛文 8年 (1668) |
1月26日、当寺の境内が古里から大山へ移って屋敷を建てた。 1月26日、東山・太山・北山へ出屋敷する。 1月26日、彦宮八王子を北山の北東(鬼門)へ場所替えする。 天白神を八王子本社の東脇に移す。 稲生の獅子頭のうち、行基と安阿弥作の2頭が盗まれる。 |
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寛文10年 (1670) |
3月26日、田地を金子8両2歩で永代買い取る。 |
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寛文11年 (1671) |
稲生三郷6代の地頭が、頼宣公長男従二位大納言光貞公となる。(宝永2年(1705)) |
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延宝年間 (1673 〜1681) |
本山第16世堯円大僧正の御局自作の張子上宮太子像を頂く。(2体あり、1体の未彩色のものは円応寺村慈教寺へ融弁の代にゆずる。) |
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延宝 5年 (1677) |
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* 第16世堯円大僧正が大僧正に任じられ、この時に三門その他諸堂を建立する。また、享保元年(1716)7月27日76歳で往生した。 |
延宝 7年 (1679) |
伝察坊が、あとを弟子(子)の第10世霊察にゆずった。その後、水沢の一乗寺へ移った。 第10世霊察坊は、伝察坊の弟子である。関東に行き、増上寺のもとに十余年暮らした。この年に入院し、9年住んだ。 |
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延宝 8年 (1680) |
6月、稲葉三昧を名塚といっしょにして、跡地は本照寺の畑とする。 6月、北山上畑についての書状がある。 6月、冨士塚中畑についての書状がある。(畑を起こし、茶の木を後に植えた年貢畑である。) 当寺第10世霊察の時、6間半と4巻半の本照寺庫裡を建立した。 福楽寺の堂が建立される。 |
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天和年間 (1681 〜1684) |
当寺の天神を、第10世霊察定阿上人が寺の北東に移して奉り、鎮守とした。 |
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天和 2年 (1682) |
5月28日、稲生西村鍛冶屋垣内道場の御袈裟に、本山第16世堯円大僧正の御真筆で、本照寺下と書き付けがある。(2つ目のもの) |
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天和 3年 (1683) |
3月18日水沢の一乗寺伝察坊が62歳で往生した。一心院釈昌悦定信上人と号した。 |
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正保 5年 (1685) |
融弁が生まれる。 |
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貞享 4年 (1687) |
霊察坊はあとを第11世円融にゆずった。同年2月4日、37歳で往生した。寿末院釈霊察定阿上人と号した。 第11世円融坊は、慶安元年(1648)10月24日に生まれ、山本熊之助吉正といった。増上寺21代業誉上人の弟子である善智和尚(江戸崎大念寺から瓜面浄福寺に移って住む)を師匠として、11歳で出家し、30余歳で伊勢国庵芸郡黒田浄光寺一代の藤堂数馬の子息唯勝院誓智上人の学問の指南役に来て、しばらく住んだ。この年に当寺へ入院した。 |
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元禄 3年 (1690) |
本照寺と禅教道場のあいだで、初めて本末の争いがあった。(第1回) 福楽寺が、寺家村観音寺の末寺となる。 白子御奉行から寺社改めについて、稲生大明神三社棟札をもって稲生三郷の御地頭が白子御会所へ書き上げられた。 |
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元禄 8年 (1695) |
10月、寺地についての書状がある。 境内は、東西60間(約110m)南北110間(約200m)が年貢地である。 屋敷南(約480u)・屋敷北下々畑(約410u)・古里の寺地跡は当寺の下屋敷である。 順証比丘が冨山地蔵7体と草堂を建立する。 |
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元禄10年 (1697) |
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* 第17世円融御門跡が5月に入室する。 |
元禄15年 (1702) |
閏8月、御堂の建立のために寸志をつのったところ柱立するまでになった。 3月、御領地内へ御公儀寺社奉行から「改宗御改書」の文書が出される。また、これについて、「本山三か条」が出される。 |
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宝永2年 (1705) |
稲生三郷7代地頭が、光貞公長男贈従二位大納言綱教公となる。(5月14日まで) 稲生三郷8代地頭が、光貞公二男 従四位左少将宰相内蔵守頼職(よりもと)公となる。(9月8日まで) 稲生三郷9代地頭が、光貞公三男 従三位中納言主税頭(ちからのかみ)吉宗公 となる。(正徳6年(1716)まで) |
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宝永 5年 (1708) |
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* 円融御門跡が9月に得度された。 |
宝永 7年 (1710) |
本照寺と禅教道場のあいだで、本末の争いがあった。(第2回) 野村の石地蔵に清水氏が堂を建てる。その後、順証比丘が新たに地蔵を建てる。 |
* 堯円大僧正が退院される。 * 円融御門跡が7月に住職を継がれた。 * 円融御門跡が征夷大将軍家宣公の御継目にお会いするため6月26日に江戸へお着きになる。 |
正徳年間 (1711 〜1716) |
倉田殿という武勇の達人がおり、屋敷があった。そのあとは、相続した六郎左衛門が住んでいた。その子で惣領の又兵衛も住んでいた。この頃に稲生成光村に出屋敷した。 |
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正徳 3年 (1713) |
禅教同行組、冨山の市右衛門は、智光院と禅教同行衆へ断りを入れ、本照寺の直檀那になった。 |
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正徳 4年 (1714) |
当寺開山明円御房の御影1幅が、7月15日稲生成光村渥美瀬兵衛が両親のために寄進された。 野村に、1町ほどの新田を開く。 |
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正徳 5年 (1715) |
第11世円融が第12世融弁へあとをゆずる。(2月7日の夜、阿弥陀仏に救われた夢から目覚めたところ、野僧が両腕を取って家の中へひっぱりこんでいたという記述がある。) |
* 桑名願生寺は昔、東本願寺の末寺で、後には西本願寺の末寺となった。またこのたび、高田の末寺となった。(第9世伝察坊の先祖に関わる寺である。) また、松坂の願生寺も高田の末寺となった。 |
正徳 6年 享保 元年 (1716) |
稲生三郷9代地頭、光貞公三男 従三位中納言主税頭(ちからのかみ)吉宗公が、将軍家継公の遺言によって8月12日、征夷大将軍に任じられ江戸城に入られた。 よって稲生三郷10代地頭が、従三位中納言宗直公となる。 従四位少将左京太夫頼純というのが、左京太夫の先祖である。これは紀伊国大納言光貞の次男である。左京太夫頼純に御子が3人あり、ひとりは頼路従五位である。豊後守である。二人目は頼雄(よりかつ)、三人目は頼致(よりよし)という。これが左京太夫従四位少将である。今の紀伊国宗直である。 このように将軍家継公の遺言により、正徳6年(1716)8月12日、紀伊国の吉宗公の家督をつがれた。 |
* 堯円大僧正が7月27日76歳で往生する。 |
享保 3年 (1718) |
第12世融弁の時、黒衣をつくった。また、4間半と2間の茅葺きの隠居を建てた。 |
* 円融御門跡が9月3日、征夷大将軍吉宗公の天下御家督の御祝儀に江戸へ向かわれる。 |
享保 4年 (1719) |
第12世融弁が、伊勢国津の本徳寺の隠居意林院が著述された折りに、添削し別に1巻を書いた。 |
* 御本寺の阿弥陀堂建立が、御堂の西に建立される。 |
享保 5年 (1720) |
第12世融弁が、「塩屋縁起翁草」を執筆する。 |
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明和 5年 (1768) |
第12世融弁が、83才で往生する。 (過去帳の記録から) |
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