ホワイト歯科通信


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介護・・・理想への挑戦

理想の認知症介護を目指して、福祉の専門家「北さん」と開設したグループホームのHPです。

この下に「介護の話」を少し載せておきます。興味のある方はお読みください。






認知症を理解する 

利用者との距離 

今、行政がケアマネに求めること 

グループホームの効用 

家庭的雰囲気とは何か 

介護職と医療職 

おいしいコーヒー

利用者本位 

大規模施設の限界 

レクリエーションと言う名のお遊戯 

介護職 

戦略と戦術 

おまけ





痴呆を理解する

 私たちの生活は通常、知性によってコミニュケーションされる。理屈と言ったほうが解りやすいだろうか。
 普段人と話すときには必ず「相手は私の言うことを理解してくれる」という前提で話す。それが通用しないのが認知症の特徴で、そこのところを 理解しないと「認知症介護」はできない。
 認知症の人は知性(理屈)によるコミニュケーションが取り難く、感情をうまく現せない。

たとえば 家族に会えない寂しさ(不穏)が、「食べたくない」という拒食になってしまう。そんな「食べたくない」方に、「たべなさい!」と しかりつけるのは間違っている。そんな時は、家族にかける電話一本で食事を摂るようになる。

 では、食事をしない認知症の方全員に電話をかけさせれば良い、、、というものではなく、その方の不穏の原因を洞察して対処する技術が 必要になる。
 認知症を理解しないと認知症介護はできない、と言われるゆえんである。


 ベテランの寮母さんは、新しい入居者が来るとその「肌」を見ただけで辱創ができるのがわかる。それを防ぐため、2時間おきの 体位交換を「若い職員」に指示する。ところが「若い職員」は、初めこまめに体位交換をするが、やがて「辱創なんてできないじゃない」 と、体位交換をさぼる。すると1日で辱創ができてしまい、そのフォローに今までの倍の手間がかかるようになり、「若い職員」は 寮母さんに怒られる。そして辱創は何とか治り、一件落着となる。

 ところが認知症介護では、職員の不手際で不穏な状態にしてしまうと認知症が進行する。そして一度進行した認知症はもう以前の状態には 二度ともどらない。だから認知症介護は「いかに現在の状態から認知症を進行させずに介護するか」が基本になる。

 こんな認知症介護の特殊性、、、知ってました?



 
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利用者との距離

 扱いやすい利用者は、介護する側にとって接しやすい。反面、不穏な利用者に対して、介護者は距離を取ろうとする。
 しかしそれでは、介護者側の腕が上がらない。利用者と接するということは、相手の話をひたすら聞くことでお互い感情的に理解する ということであり、接することの辛さを解るということである。
 特に利用者が不穏になった時、理解していない職員ほど絡まれ易い。施設全体が理解していない職員ばかりだと、利用者の不穏は 拡大する。
 理屈ではなく、感情で理解し合うのは難しく忍耐を要するが、そこから逃げて不穏な状態の利用者から 遠避かろうとしてはならない。



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今、行政がケアマネに求めること

 介護支援専門員現任講習会が開催された。参加は自由で、意欲ある人が多かった。
 内容は課題分析と週間計画の作成で、給付管理については一切触れなかった。介護保険が始まった当時は給付管理(請求業務)が 主体であったが、各事業者の給付管理も落ち着いてきた今、行政は適切な課題分析をケアマネに求めてきている。
 と、いうことは、、、今後適切な課題分析を行っているかどうかが、事業者に対する指導、監査で問われるようになるということであり、 適正な課題分析を行っていない場合、介護保険も医療保険と同じく事業者指定を取り消されるところが出てくるものと予想される。
 そして、事業者指定の取り消しは、事業経営にとって致命傷になるということである。



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グループホームの効用

 「北さん家」の利用者を紹介した施設職員や家族が、利用者に面会に来た後、口を揃えて「信じられない」と言う。

 入所前は、車椅子でしか移動できなかった人が、施設では見せたことのない顔で、ニコニコしながらてくてく歩いている。
 箪笥の中を片っ端から引っ掻き回して散らかすのを生きがいにしていた認知症の人が、「いらっしゃい」と笑顔で迎える。
 夜中の徘徊を繰り返していた人が、毎日ぐっすり眠って調子が良いと笑う。

   そこにはかつての認知症老人は居らず、笑顔の素敵なおばあちゃん達がいる。そんなおばあちゃんを見て、足の遠のいていた家族が 頻繁に訪れるようになる。おばあちゃん達は喜び、さらに良い状態になっていく。そしておばあちゃん達は、ここへ来てやっと本来 の自分を取り戻す。

 職員の言葉による拘束からの解放
 薬物等による拘束からの解放
 身体的拘束・施設管理的拘束からの解放


 これらがもたらす効果は、実践してきた我々でさえも驚くほどの効果を上げている。書物の上の「机上の空論」ではなく、 たしかに目の前にある事実として、、、



 
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家庭的雰囲気とは何か

 グループホームは家庭的雰囲気と言われる。
 「家族的であって、家族であってはいけない」と専門家はいう。家庭的、家族的とは何だろう?

   家庭的、家族的雰囲気は人によってぜんぜん違う。
 例えば、スナックを経営し、その二階で生活する家族、、サラリーマンの家族、、母子家庭や父子家庭の家族、、暴力おやじのいる家族、、障害者のいる家族、、、これらの家庭で育った人たちは、人によって、家庭の定義がまったく違う。

 したがって、家庭的雰囲気を介護職の人間が、その本質を無視してグループホームに持ち込むと、むちゃくちゃになってしまう。「私の家族は、こんな感じだったから、、、」と、職員が自分勝手に利用者に接し、それが間違った接し方だとしても、反省しなくなるからに他ならない。

 家庭的雰囲気とは何か?

 たとえば、あなたが主婦だとする。自分の家で一人お茶を飲んでいるとする。そこへ、ご主人が帰ってくると、安心する。しかし、家に入ってきたのが知らない人だった場合、あなたは緊張するでしょう。同じ家で、同じお茶を飲んでいても、相手によって反応が違ってくるはずです。では、どうして違うのか???それはもちろん、ご主人はあなたを家族の一員として理解し、あなたもご主人を理解しているからに他ならない。

 つまり、家族的雰囲気とは、入居者と職員がお互い対等な目線で許し合うと言うことである。



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介護職と医療職

 医療畑の人が介護の現場に入ってくると、介護職員とぶつかる事が多い。それはお互いに「医療」と「介護」の本質を理解していないから である。

 医療とは、病気になった病人を治療するのが目的である。
 したがって、医療は医師の統率の下、メディカルスタッフ(看護婦、薬剤師、理学・作業療法士など)が命令一過に従い患者を治療する。医師の治療方針に従えない人間は、たとえ患者と言えど排除される。言い方を変えれば、医師の命令を無視して動くメディカルスタッフがいては、医療は成り立たない。
 そして、患者の意思を第一には考えず、患者を「説得」してでも必要な処置を受けさせようとする。

 対して介護の理想とは、利用者の意思を尊重し自律を支援することである。
 利用者を説得して介護側のやり方を押し付ければ、それはもう「介護」ではなく「虐待」になってしまう。
 そしてまた、介護職は利用者が人生を全うするまで付き合う仕事でもある。


 以上のようなことをふまえると、看護と介護には「嫁と姑」のようにどちらも最もな背景が有る。

 そしてまた、実際にやることは似ているがその本質は根本的に異なる。そこのところを理解しあわないと何時までたっても介護と看護のにらみ合いは解消しない。



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おいしいコーヒー

 食事が終わりみんなでコーヒーを飲もう、と言うことになった。
 最初、職員がコーヒーを立てて砂糖を入れ「はいどうぞ!」と出す。
 認知症の人はコーヒーを見て、本当に砂糖が入っているかわからず、カップを覗き込むが飲んでみようとはしない。
 そこで違う職員が、認知症の人の前で砂糖を入れてあげると「はい、そこまで」と、(痴呆の人が)砂糖の量を指示するようになった。
 自己決定はよほど重度の人以外はできるもので、他人が砂糖を入れたコーヒーをおいしいと言う人は まれである。

 コーヒーを飲むか飲まないか 砂糖やミルクを入れるか入れないか 砂糖やミルクをどのくらい入れるか、などを自分で 決めるからこそおいしいコーヒーが飲めるのである。

 私が「頑固じじい」になった時、砂糖とミルクを勝手にいれて「どうぞ!おいしいですよ」と出されたコーヒーなど「ふんっ!」と言って 飲まないだろう。



 
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利用者本位

 利用者本位とは利用者の意思を尊重することである。これは日常の介護にも必要で、特に認知症介護はこれ無しでは出来ない。

 例えば、利用者が手を伸ばして机の上の湯飲みを取ろうとする。この時点で利用者が「取ることが出来ない」と判断すれば、「だれか 取って!」、、、となる。取ってと言わないで手を伸ばすのは、自分で取りたいからで、それが利用者の意思である。
だからそのとき 職員が「はいどうぞ」といって取ってあげてはならない。

 利用者が自分で湯飲みを取り、お茶を飲めれば「見守り介護」となるが、取れないときはどうするのか?
取れないとき、利用者は何度か 取ろうと頑張る。そして自分では取れないと思ったとき、初めて回りに「取ってちょだい」と助けを求める。
 この時になって初めて介護者が 介入する(取ってあげる)。

 この様に徹底した利用者本位が認知症を和らげ、利用者の身体能力を温存する。

 利用者が立ち上がろうとする。立ち上がろうと何回も努力して、立ち上がる動作が止まるまで、手を貸してはならない。安易に 手を貸して立ち上がらせる介護は、利用者の身体能力と、自由意志による決定を奪うことになる。


 介護者が自分の思いどうりに利用者を動かそうとするとき、介護は破綻するような気がする。
 猫なで声で「・・・・しましょうねー」と言うのは、自分の思いどうりに相手を動かそうとするテクニックではないだろうか。
 子供に言うことを聞かせようとして、接するのと同じ理屈に思える。だから私は、施設などで猫なで声を聞くとぞっとする。これは すでに「言葉による拘束と利用者の人権差別」以外の何者でもない、、、と感じるから。



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大規模施設の限界

 今までの老人福祉は特別養護老人ホームなどに代表される、大規模施設が担ってきた。福祉先進国と言われる北欧諸国でも昔はわが国と 同様であり、彼らが日本の福祉を見ると 「私達も百年前はこうでした」 とのたまう。

 現在、世界の福祉先進国は大規模施設を否定している。そしてその根拠は大規模施設の限界である。

 福祉という薬草を煎じていくと、個別化という薬が出来る。この薬は老人福祉だけでなく障害福祉、児童福祉にも効用を発揮する妙薬 となる。いくら高価な入れ物(施設)が有ろうと、薬(個別化)が無ければ役に立たない。では、どうして個別化が必要なのだろう。

 介護の理想は上記のとうり「利用者本位」である。利用者本位とは「利用者が求める物を提供する」と言うことであり、利用者を個々に理解して いないと提供できない。これが「個別化」である。

 大規模施設の限界は、個別化不可能と言うことに尽きる。

 100人の利用者に対し、職員が10人では手が回らない。これが大規模施設の 限界だと思い込む。では、職員を100人にすれば問題は解決するかと言うと、解決しない。何故なら、いくら職員対利用者の比率が一対一 になった所で、一人の職員は、100人を個別化(理解)せねばならないからである。

 この人はこんな人で、今こんな状態だからこの様な 介護が要る、、、などと、100人相手に把握しきれる物ではない。しかも、相手は生ているのであるから、状態は刻一刻変化するのである。

 では、100人の利用者を10のグループに分けて職員を専属に配置すればいいじゃないかと言う人がいる。じゃあ、日勤、夜勤、早番、 遅番のローテーションのなかで、あんたやってみなさいよ!当直の見回りの時、うろついている利用者を「私のグループじゃないから」 といってほって置くような人間は介護職ではないんじゃないの?、、、と言うことになる。

 個別化を考えるとき、介護保険で最も問題になるのがデイサービスである。
何故なら、30人規模のデイサービスの利用者は(一人の 利用者が一週間に2回利用するとしても)30人*7日/2回で105人となり、それを交代勤務の無いデイサービス人員基準でカバー する。

 この条件で個別化しなさいと言うほうが間違っており、これが大規模施設における介護限界の最右翼である。



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レクリエーションと言う名のお遊戯

 デイサービスで一般的なレクリエーションには、明確な目的が必要です。体を使う身体機能の維持、指先を使う神経機能の維持、そして、生活に活力(活性化)を与える心の維持などがそうです。

 目的を持たずにただ、「皆で、これをしましょう!」と、どの人にどんなレクリエーションが必要か考えずにやるのは、お遊戯でしかありません。せめて、「この人にはこれを目的に、レクをしよう」とグループ分けしてから、その人たちの状態を見つつ、やっていかなくてはいけない。

 身体機能の維持では、体を動かす「バレーボール」や「卓球」などがあり、神経機能の維持では指先を使う「パッチワーク」など、心の維持には「音楽療法」などがあります。

 ここでたとえば音楽療法でも、聴く音楽によって作用が異なり、「明るい楽しい歌」から「自殺してしまいそうになる歌」までの選曲や、使い方、、、ただ聞くだけの時や、利用者が歌うのか。。。歌うとすれば、皆で歌うのか、一人で歌うのか、、、などを考えなくてはいけない。

 レクリエーションは介護の一つの方法であり、目的なしに行われる「レクのようなもの」とは区別されなくてはいけない


 元々、老人福祉のレクは児童福祉からきたものである。児童福祉の現場でも、個別化の重要性が言われているが、老人福祉より長い歴史を持つゆえに、かえていくのは困難と言われている。

 子供と違い、それぞれの人生で多様な価値観を築いてきたお年よりに、画一的なレクは通用しない。

 ある施設で、無理やりつれてきたおじいちゃんに「さあ、歌いましょう!」と言うが、彼は歌わない。そこで、その人の前職を調べてみたところ、大学の先生だという事がわかった。
 そこで、音楽療法士がドイツ語の歌を歌ったところ、その方は見事にドイツ語の歌を歌ったそうで、周りの職員は「ドヘーー!!」と驚いたそうである。


 チイチイパッパは、やはり間違いだと思うのだが、施設でレクをしている人はどう思います?



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介護職

 人と人が接するとき、お互いの意見が合えば「そうそう!そうなんだよねー」となり、話は大いに盛り上がる。意見が食い違うと 「それはこうなんじゃない?」とお互いに意見の交換をして、意見の統一と相互理解を図ろうとする。これが、一般的な形である。

 しかし、介護は違う。

 他人が自分と違う意見を主張してきても、決して口をはさまず、何時間でも黙って聞くことができる。 そして相手を理解し、共感することによって、介護することを利用者に許してもらうのである。

 「人は、己を知るものの為に死す」と言われるほど、「理解される欲求」は強い。人は自分を理解してくれる(許してくれる)存在を渇望する。

 反対に自分を理解してくれない、もしくは理解しようとしない他人を拒絶する。

 自分は何人の人を理解しているだろうか?
 何人の人が本当の自分を理解してくれているだろうか?

 常に自分に問い掛ける、、、

 そして人を理解することで、自分自身は高められていく。


 介護職とは、仕事をとうして自分を高めることの出来る職業である。


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戦略と戦術

 よく言われる話だが、戦争は戦略と戦術がそろわないと勝てない。

 戦略とは、どこに戦場を設定し、どれだけの兵力を投入し、どんな目標を設定するかである。つまり、戦争をする時の外枠の条件を決めることで、お弁当で言えば弁当箱と食材にあたる。

 対して戦術とは、戦場で作戦を立て、臨機応変に兵を動かす技術を指す。それは、お弁当で言えば、中身のおかずにあたる

 材料が乏しかったり、弁当箱が小さすぎれば、いかに料理の得意な人が作っても満足できるものは作れない。ただこれは、料理の腕次第である程度カバーできる。反対に、いくらいい素材と良い弁当箱があっても、料理の腕が悪ければ台無しになってしまう。

 この戦略にあたるのが、介護保険の施設と人員基準とサービス単価である。そして戦術にあたるのが、職員と経営者の介護理念と介護技術(コミニュケーション技術を含む)と言うことになる。

 介護では先ず「利用者ありき」で、その人の自己決定を尊重し、カタルシスを獲得させる為に、多様な介護サービスを組み合わせて提供する。

 「北さん家」では、重度認知症の人にも一切拘束をしない。しかし、「グループホームとは、共同生活ができることを前提とする」ために、職員基準が限られてくる。身体機能にほとんど問題がない重度認知症の人の場合、グループホームから外へ出ると職員が付いていく。しかしそれも入所者九人中せいぜい一人が限界で、そんな人が二人いれば破綻せざる終えない。

 軽度認知症の人が重症化していくことも考慮に入れると、厚生労働省の戦略レベルで提供できるグループホームサービスに限界が見える。身体機能が全く正常で、重度認知症の人は、大規模施設で拘束せざる終えない現状を抜きにして、ただ「拘束はだめ」だと言うのは間違っているのではないだろうか。ただし、ここで言う「拘束」とは、回廊式廊下による拘束や、薬剤による拘束も含まれる。

   そういった意味で、今後、厚生労働省の戦略レベルでの対応が求められていくような気がする。




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おまけ


認知症介護はその本質を捉えて行なえば、決して特別な物ではない。


本来、認知症でない利用者に「お仕着せの介護」を提供して

平気な顔をしている現在の介護姿勢が

認知症では「不穏や痴呆の悪化」と言う形で顕在化するだけである。


 認知症だから「否定しない」ではなく

介護と言うもの自体が

利用者の肯定という理念で行なわれるのが本来の姿であること


を認識する必要がある。



介護理念の理解と実戦を行なってこそ

介護の専門職といえるのではないだろうか。



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