悲願30年 近鉄バファローズ ドキュメント 栄光のV1 制作協力=(株)近鉄球団/朝日放送/朝日音楽出版 構成協力=朝日放送運動部 写真・資料提供=大阪日刊スポーツ 制作=(株)CBS・ソニー |
このLPレコードに寄せた大阪日刊スポーツ水本義政氏の寄稿文 |
いま、もののふの詩 近鉄悲願の初優勝 その時・・・・・・西本監督は潮騒≠聞いた。西宮球場の人工芝がサザ波のように、小さくふるえた。湯上りの上気した顔の赤味をそのままホホに漂よわせて20歳の山口が投じた一球は蓑田のバットをかいくぐり梨田のミットに音をたてた。昭和54年10月16日午後4時52分・・・・・・。苦節30年。近鉄球団創立30年目の栄光は、キリもむような西本監督の折り≠フ中で、ひょいとやってきたのである。 「野球とはおそろしいスポーツだ。たった一つのバウンド、一球のストライクとボールによって勝敗が左右する。局面がかわる。そこには、それまでの努力と汗のつみ重なった年月を非情に捨てさる慮しさがある」 人は、多くの人は、あと一歩で挫折する。焦る。迷う。そして一歩一歩、正確にあやまちを犯す!? それが人間だ。「それが私だ」と西本幸雄はいう。 ただし・・・・・・と、彼は続ける。「私は、もう一度やってみる。それだけだ」 西本監督が近鉄にやってきたのは、昭和49年。オニがやってきた!!≠ニ選手は身を固くした。実は、近鉄とこの指揮官はもっと早く蜜月時代を迎えたかもしれなかった。 20年前、昭和35年暮。そう、あの大毎オリオンズ優勝。ミサイル打線を擁した一年生監督、西本は、日本シリーズで大洋の三原魔術にものの見事にしてやられる。球史に残る第二戦の谷本スクイズ・・・。ワンマン・オーナー永田雅一氏との衝突、辞任。世は安保騒動。樺美智子さんの死。アカシアの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい・・・ このとき、近鉄から次期監督としての誘いがくる。ユニホームへの郷愁から西本幸雄の心はかたむく。が、大毎時代の代表和田準氏(現東京スボニチ社長)はこうさとす。 西本幸雄、当時39歳。血気盛んの一直線。もし、そのときに西本近鉄監督が誕生していたら、佐伯オーナーは、6年間もガマンしただろうか。 答えは「ノウ!」。つまり、35年にもし近鉄入りしていたら、ハネムーンどころか球史もまた大きくゆれ動き、阪急ブレーブスの栄光も、いま、近鉄の栄光もまたなかったのである。 近鉄にも西本にとってもシアワセな回り道=B昭和49年に、めぐりめぐって$シ本監督がやってきた。 「チームをつくりなおすにはブルドーザーで土台から堀り起こさねばならない。阪急ではそれでよかった。が、近鉄では、その上に横にこぼれ落ちた砂を一粒々々、ひろい集めてゆく作業が必要だと思う」 この西本のチーム強化策は適当だった。慧眼。長年のしみこんだ二流のアカと負け犬根性。選手達はオドオドしていた。名もなく貧しく…。世間の同情と潮笑にさらされた兵隊達はロクな武器も食糧もなく万年最下位≠ニいうジャングルをさ迷っていた。 まず鉄ケンが飛ぶ。西本監督は、彼らに緊迫感とは何か?を教えた。苦しくても空腹でも、胸をはれ=A天を見ろ。気合を入れろ。 「目標を持つ」という簡単なことから始まった西本の教育法は、次に「体」であった。 オレは不器用だから、何をやるにも一つの方法しか出来ない。それは、一にも二にも練習することだった・・・・・・と西本監督。 平野、小川、佐々木、栗橋、石渡、羽田、梨田、有田修、西村・・・・・・柳田、井本、村田、板東・・・・・・一人として、全国区≠ナはない。わずかにエース鈴木とプリンス太田幸司。二人だけが著名といえた。 どこの馬の骨か?とせせら笑う王者阪急。エースの鈴木でさえ、登板すると相手の阪急ベンチからパチパチと柏手された。それほど近鉄は敵からコケにされていたのだ。 雨の日も風の日も・・・・・・雪が降っても、西本監督と無名戦士はグラウンドで練習した。それしか方法がない・・・・・・それ以外に我々が強くなる手段がはい・・・。 が、この方法は遅々として歩みがおそい、「数学に王道はない」如く、これにも近道はない。西本の軍団は、たし算と引き算から始めた。すでに相手は微分、積分、高等なことをやっている。 たまには休もうや!というのが人情。目に見えないスローテンポの伸長。一年、二年、三年・・・・・・まだ届かない。かなり届かない。四年、五年・・・・・・。一度、指揮官西本はザ折しかかっている。阪急では監督5年目で優勝した。同じ方法、同じ情熱。なのに、5年目にも、近鉄は阪急に破れた。 昨年の9月23日藤井寺決戦=Bエース鈴木が崩れたとき、西本の情熱も音をたて崩壊した。いや、崩壊しかかった。 「一つのチームを5年も預かって、優勝できないのはすべて私の責任である」 血を吐く思いでそういった西本監督。オレがやってきたことは何だ。阪急でやってきたことは虚像なのか。同じことを、阪急時代以上の情熱をもってしても、成しえないのは、オレの方法が根本からまちがっているのではなかろうか。なかば、5年の歳月は、オレにとってもファンにとってもチームにとっても無駄な浪費にすぎぬ! 鉄の意思をもつ西本監督が、辞意≠かためたとき、ごう然と選手から声がまきおこった。エース鈴木は涙ながらに絶叫した。 「監督をやめないでくれ!オレたちを見捨てないで下さい・・・・・・」 この声に、うしろ髪を引かれた指揮官は、再びナインの前に立って「もう一度、みんなで努力してみよう」といった。そこへ、マニエルと永尾がヤクルトからやってきた。 人はいう。そりゃあ近鉄°ュいはず。オニが金棒を待ったのだから・・・・・・と。オニは西本。金棒はマニエル。 『インパクト・ベースボール』。 衝撃の野球≠ニ名付けられた昭和54年のバファローズは強打で幕をあけ、砂けむりをあげて突進した。主砲マニエルだけでない。西本のスパルタ教育は、着実に戦士に力をつけていた。6月9日、マニエル死球・・・・・・のアクシデントをのりこえ、近鉄は6月26日に前期のゴールイン!8回にみせた平野の猛バックホーム!! 後期は、マニエル欠場も響き、阪急がムックリと鎌首をもたげてきた。そして優勝。 かくて、プレーオフは宿命の対決。(注:前年度後期優勝するも、プレーオフで阪急に敗退。初優勝ならず) 第一戦、西本とその軍団は積極的に攻めた。 第二戦、西本とその軍団は一転して緻密な確率野球を演じた。 第三戦、西本とその軍団は阪急とのガマンくらべに勝った。井本が突然口をひらき、鈴木が夢をひろげ、村田がたぐり寄せた。59歳の指揮官が、20歳の若きエース・山口を、ことごとく修羅場≠ノ送りだし、山口もまた、3連投。阪急にトドメをさしたのである。 「世の中には、日の当たらない場所で毎日努力している人達が大勢いる。我々は、その人たちに、努力すれば、いつかは日が当たるんだ≠ニいうことを証明しなければならない」・・・・・・西本はそういってナインをグラウンドにかりたてた。自らも立ちつくした。汗と泥と涙と屈辱の6年間。 ナイター設備のない藤井寺球場と、借りものの日生球場。借家ずまいのわびしさ。まさに近鉄ナインは螢の光、窓の雪≠フ中で勉強した。弱き者。お荷物球団と呼ばれて、唇をかみしめた日々・・・・・・。生者必滅会者定離。形あるものは必ずこわれる・・・・・・牙城を誇った阪急王国が、西本とその軍団の汗と泥≠ノ切り崩されていった。平凡な男達の演じた涙のドラマ・・・・・・近鉄の悲願達成は、人間の生きざまの原点の詩であった。
|
(大阪日刊スポーツ水本義政) |