懺悔録序
如来為一切 常作慈父母 当知諸衆生 皆是如来子
世尊大慈悲 為衆修苦行 如人著鬼魅 狂乱所為多
「如来は一切のために常に慈父母と作り給えり。まさに知るべし諸の衆生は、皆これ如来の子なり゜世尊大慈悲衆のために苦行を修し給うこと、人の鬼魅に著わせられて、狂乱して所為多きが如し。」
これ阿闍世王大煩悶に陷り、佛陀の大慈悲に接したりし時 佛徳を讃嘆したる涅槃経偈頌の句であります。回顧せば、私が苦悶した時、父が心配して、「自分は老年であるゆえ、代れるものなら代りてやりたい」、と云はれたる言は、あたかも頻婆娑羅王が空中より阿闍世王に告げ導かれたる言の如く思はれます。
また私が病熟に悶え苦んでいた時、母が心配して少しも眠らず、日夜看病して下さったことは、韋提希夫人が冷薬を以て、阿闍世王の瘡に塗られたと全く同様に感じます。「生育我身大悲母 西方教主弥陀尊」といへる古聖の言は、今更の如く身に浸みます。
確かに父母はこの世に現れ給いたる佛陀の慈悲であります。佛の慈悲に接したる多くの人々に於て、常に父母の導きと親しき関係のあることを発見いたします。実に親は子の為めに自巳を捨て、道理を捨て、或は慰め或は戒め、種々苦労して下さるが如く、佛陀は私の為めに永却昔より、一念一刹那も慈悲の眼を放ち給はず、人が心配して気が狂う程に苦労下さった御蔭で、ようやく佛陀の御慈悲が分ったのであります。
「弥陀の五却思惟の御苦労をよくよく案するに、ひとへに親鸞一人が為なりけり」とは、実に仏陀の大親に気が附いた心中をよく言ひ顕はして下さった。今から思へば苦悶や病気は勿論、生れてから今日に至るまで、一として佛陀の深き御導きならぬはなかったのであります。世の苦悶懊悩し給える人々、人間の浅薄なる思慮を捨て、佛智不思議の廣大なるを仰ぎ給え、世の中の事、一として佛の御慈悲の賜ならぬはありませぬ。
私は久しき間自分が煩悶したことを言うのを避けて居りましたが、近頃同様に苦める人々が多い様でありますから、有体に懺悔して共に御慈悲を頂きて貰いたいのであります。そして私の心中は全く阿闍世王の煩悶と符節を合せたるが如く感じましたから、之をも併せ叙した次第であります。
この書は昨年夏、信州飯山附近に於て開かれたる修養会に於て、「歎異鈔」を講じたる時の開題であります。それを信友佐崎聿喜君が筆記して下さったのであります。故に卷末に歎異鈔が附加して置きました。是非之を熟読拜誦して、千古尽きざる慈悲の霊泉を味うて下さることを希望いたします。
明治三十八年五月十八日
懺悔録
文学士近角常観述
第壹章 緒 言
歎異鈔は、親鸞聖人の信仰の御話を、親たり聞いた人が、自分の耳の底に留まりてある響を、其ままに顕わして、後の道を求むるものの為に、遺して置いて下されたもので、実に聖人の信仰を味うに就て、大切の書物であります。
其味わうというは、講釋や理屈では一向値打ちの無いことである。凡そ説教を聞くにも、又聖教を読むにも、唯言葉を聞き理窟をならべて居ると、何を聞いても何を読んでも、唯そのことを聞き流して仕舞って、我精神には少しも役に立たぬ。必ず之を內心に省み、自分の身の上に照らして味って行かねばならぬ。
よくよく宗教は実験である。釋尊を初めとして各宗の祖師達、自分自身の內心の経験より、この人生の意義、即ち日暮しの上に就ての真の味を証り得て、その実験の有りのままを説き教えられたものであるから。
残し置かれた所の経論聖教を、拜読するにも、一々自分の身の上に引き当てて、深く味ふべきは勿論である。决して道理や議論で終ってはならん。然るに年月を経るに従って、段々と形式に流れて、大に生気を失ふようになる。了度清らかな水の、懇々と流れて居る川の上を落葉が掩い、泥土や砂礫が川の底、にたまって、遂にその流を止むるようなもので、何れの宗派も、後代に至れば、清らかな信仰の泉が涸渇して、唯形計りになって仕舞ふ。
その時再び偉人が出て来て、自分が人生問題に触れて種々に経験し、最後に佛陀の光明に遇うて、初めて解决がついて、生き生きと胸中に感じ来って、信仰の泉が湧き出したのが、新しき宗派の源である。一宗の祖師というは、即ちこの泉を見出した人である。一の宗旨が出来たからとて、別のものが出来たのではない。久しき以前より佛陀慈愛の清泉を、新たに心の中に味うた結果であります。
親鸞聖人は、釋迦佛以後多くの宗旨の祖師達の中でも、特に要領を得て而も誰にでも味はゝれる、まことに人生に適切な、微妙な信仰を有して居られた。凡そ高尚な人には高尚な経験があり、学者には学者だけの経験がある。人々各々それぞれの経験あるが、凡ての人の誰にでも通じてよく解るのが、親鸞聖人の経験である。
私は京都の本願寺に参詣して、満堂の群集の中に混じて、聖人の御真影を拜する每に、厨子の御扉が開くや否や、高いも卑いも、富めるも貧しきも、老若男女、皆一斉に感涙に咽んで礼拜するのを見て、聖人の人格に、甚深の味のあることを感ぜすには居られない。聖人の御教化が、慥に人間の心の急所要点を握って居るのでなくては、どうしても、あゝいう譯に行くものでない。彼の琴の絃の一ヶ処を叩くと、他の絃が皆一斉に響きわたると同様に、学問智識の有無に関はらず、男女貴賎の区別なく、いやしくも人間ならば、この人生の最大要点たる或る一点を叩かれると、万人が万人みな一斉に、胸の中に微妙に響きわたる信仰である。
其最大要点といふは他では無い。この人生の物事が思ふに任かせぬにつけ、及び我身の罪のいかにも深重なるに驚き悲しんで、人生に於て一のたよるべき点なきに至れるとき、大慈大悲の御佛の心は、あたかもこの如き吾人を摂取して猞て玉はぬといふ一事である。聖人のこの御教化を聞いては、何人も心底に感銘せずには居られぬ。この一点を抑へてまします方は親鸞聖人である。佛滅後三千年来、比類なき唯一人の御方であると、私は断言するにはばからぬのであります。
この如き聖人の実験を、心易く書き顕わしたのがこの歎異鈔であるから、この鈔を講ずるというても、之を高尚の道理の上から論ずるのではない。唯聖人の信仰の結晶として之を味うのである。あたかも砂糖の塊りをなめ味うように、私自身がこれを味はゝして貰うて喜ぶのであります。而して諸君が是れを聞て同情同感して下さるならば、それが即ち諸君の心に佛陀の慈悲の味が味ははれたのである。
かく信仰は佛の心が直に諸君や我々の心に触れて下さった事実であるゆえに、議論や理屈の関節なる手段にては、到底味うことが出来ぬ。直に佛陀と接する直接の実験よりてのみ味はれたるものである。この歎異鈔の如きはこの見地に立って拝読しなければ、恐くは一言一句も了解することが出来ぬであろう。
しかしもし一たびこの実験に触れたる以上は、あたかも琴の絃が共鳴するような塩梅に、一言一句みなハイハイと首肯きて拜読することが出来る。故に私はこの聖教の文句を遂うて拜読する前に、この鈔に現はれたる信仰の実験に於ける極要点と思はるる眼目を取り出でゝ、各項に就いて実験の見地より出来得る限り申し述べて、親鸞聖人の信仰の何物たるやを味ひ、そして心中に湧き出でたる嘆咏の言葉を列ねて讃嘆したいと思います。
第二章 罪悪と救済
古よりこの歎異鈔は、親鸞聖人の信仰の極処を説破したるものとして、名高き聖教なることは誰も知るところなるが、特に近来新らしき青年求道者の手に渡りて、一種清新なる光輝を発揮しつゝある聖教である。
全体この聖教は、其文字がすこぶる直截簡明にして、人の肺腑を穿つか如き力あるが如く、亦その內容がすこぶる極端に信仰の力をあらわして居る。其云いようの、如何にも思い切って云い放ったる点は、初めて、この聖教を拜読したる人は、何人も一驚を喫することであろう。
而して最も何人も眼に着くは、悪人救済と云うことを、如何にも大膽に断言し去った点である。蓋し是は、歎異鈔の特徵の第一に計へねばならぬ点であろう。蓮如上人が、殊更に奥書して、「無宿善の機に於ては、左右なくこれを許すベからざるものなり」と云われたも、この点のことと思われます。昔より子供に剃刀を持たすようなものであると、いい伝へる聖教である。去りながら、かくの如く危険の断崖に迫ってあるだけ、それ丈この聖教は、生きるか死ぬかのセッパ詰まった時の救済である。平素ボンヤリして居るものの眼にこそ、すこぶる危険であれ、最後まで切り詰めたる求道者は、この聖教でなくては、救済の手はとはどかぬ。
いやしくもこの歎異鈔を拝読する人ならば、如何にも極端に悪人の救済といふことを主張してあることに、気の附かぬ人は一人もあるまい。 しかし真実この悪人の救済ということが、他人のことでなく自分のことであると、內心に感ずることは、すこぶる難いのである。
そもそもかく極端に悪人の救済といふことを云わねばならぬ理由は、自分が極端なる悪人であるといふことを、自覚したからである。白分が悪人であるということを自覚もせぬのに、悪人の救済などは、少くとも自分には不必要のことである。言を換えて云えば、この歎異鈔が、真実自分の生命になり、光明になりて下さるには先づ極端なる罪悪観に陷ったものでなければならぬ、といふことである。
成程この聖教には、悪人の救済といふことが極端に書いてあるが、世人が其救済の說き方が極端であることにのみ着眼して、其罪悪それ自身が極端であるが故に、救済がこの如く極端に云ひあらわしてあるのである、と云ふところに気が附かぬ。もっと丁寧に云へば、悪人の救済といふことを極端に云ってあるということは、先づ第一番に、我々の罪悪が極端に達して居るということである。旣にかく極端に達してあることに気がついて、到底自ら救うに由なく、絶体絶命であるといふ場合に、佛は亦極端なる慈愛を以て、極端なる罪悪を救ひ玉う、ということである。
世人がこの歎異鈔を拝読して、誤解し易き点はこの極端なる罪悪観を起さずして、直に極端の救済を目に着けるからである。甚意地のわるい云い方なれども、之を穿って云えば、自分は左程の悪人でもない。然るに佛は極悪の人間を救いたもうと聞て見れば、まだまだもっと悪をしてもよいと、いうような気持であるのである。
それゆえこの歎異鈔を読んで、悪は仕てもよいのじゃなどいう誤解が出来るのである。真実自分自身で、極悪深重煩悩熾盛のものと自覚出来たならば、そのうえに、悪を仕てもよいのであるなどゝ、云って居る余地がある箬がない。どうしてなりともこの苦みを遁れたい、どうしてなりとも、助けて貰いたいの考より外は無い筈である。この如く万尋の断崖に臨んで居る吾人に対して、この歎異鈔は、極端なる救済の力をあらわし下さるのである。
又歎異鈔が、他人の為に危険である、人に道徳を破ってもよいと勧めるかの如く心配する人もあるが、それは無用の心配である。そもそも宗教は、自分自身のことであって、自分に対して救済が下るや否や、と云ふことこそ真の問題であれ、人の為にどうである、こうであるなどゝ云って居るのは、いらざる無駄言である。
この如きことを言ふ人の心持は必こういうことであろう。自分は左程の悪人でもないが、若し他の悪人がこれを見たり、又はこれを見て悪を為したりしてはわるい、といふ心配であろう。よくよく自分の心を押えて見れば解るが他人は兎も角、我々はこの如く極端の救済をいうて貰はねば、自分自身の心が安まらぬのではないか。他人に対して、道徳上有害無害の詮索などを仕て居る余地のあるようなことでは、未だこの聖教の價値は解らぬのであろう。
なおもっと甚しく云えば、この如き人の心持は、自分は左程悪人でないゆえに、この書物はいらぬが、他の悪人がこれを読んだらば、若や平気で悪いことをしまいかという、いらざる心配である。なおもう一步進めて云えば、何人も極端なる罪悪の起らぬ人には、この聖教は無効である。極端なる罪悪の起らぬ人には、危険であるや否やといふまでの効力はないのである。譬えて云はゞ、こゝに火薬がありても、未だ発火点に達するだけの温度がないならば、少しも危険ではない如くで、極端なる罪悪観の点火なきときは、この歎異鈔は决して爆発をせぬのである。
故に歎異鈔の中には、実に偉大なる力は籠って居るが、罪悪観の火の無い人間には、砂も土も同様である。故に歎異鈔を読んだ為に、人は道徳を破る、などゝ云ふ危険は、毫もあるべき筈は無い。もし歎異鈔を読んで、歎異鈔にこう書いてあるからと云うて、平気で道徳を破るものあらば、それは歎異鈔で道徳を破るのではなくして、歎異鈔が無くとも、充分道徳を破るものである。寧ろ道徳を破る口実に、歎異鈔を用いたというので、実際上から云えば、歎異鈔の有無は、其人の道徳を破るということに、何等の関係も無いのである。
之を要するに、歎異鈔の第一の特徵たる、極端に罪悪の救済を説いてあるということは詳に云えば、極端なる罪悪観に対して、極端なる救済の光明が説いてあるということである。即ち親鸞聖人が、極悪最下の機の為に、極善最上の法を說くと云はれたところである。さてこの極端なる罪悪観に対して、極端なる救済の光明を味いたることは、実際実験の事実によりて、御話し仕なければ、到底諸君の御心に、感じて戴くことは、出来ぬことゝ考える。
それゆえに私は、私自身が極端なる罪悪観に陥りて、救済の至極を戴いた実験を述べ、又他の人が、極端の罪悪観に陥った時に、私の経験を聞て、同じく救済の至極を戴かれた御話を致し、猶溯って佛在世の時に、弥陀の本願を戴いた最初の人は、亦あたかも我々同様の実験を経て初めて救済を感ぜられたる事実を述べ、結局親鸞聖人は、古今東西この動かすベからざる、佛陀の大なる力を、自ら実験して、之をこの歎異鈔の上に示されたることを、御話仕ようと思う。それゆえ先そろそろ、私自身の懺悔から始めようと思います。
第三章 予が信仰の経過
私は幼い時から佛陀を礼拜し、経典を読み、又宗旨の学問の片端をも窺いました、が、その後帝國大学に入学しました。自分は性来慷槪するのが好きな性質であったから、同じ学生の中で宗教のことを互に語り互に論じなど致したものでありました。從って色々宗教的の催も仕て見ました。
今から十三年前、東京の高等中学に居った時、諸学校の生徒達と相談して、初めて佛教夏期講潛会をしました。これからして青年学生間に、宗教を求むることが始まったように思われる。それ程であるから、自分は隨分熟心に佛教の為にするつもりであった。然るに九年前、即ち二十九年から三十年にかけて、身猶学生でありながら学事を抛擲して宗教の為に奔走することになって、随分心神を労しました。
全体この事件は、着手するとき、ことによると一生涯学問を廃めて仕舞ねばならぬかもしれぬと决心した位であった。そうして三十年二月二十日に帰京して、やれやれと安心したが、それから身体が無暗に疲れて、心が何となく苦しくなって来たが、初めは自分でもその訳が解らなかった。そうして居る中にも、朋友同士がどことなく仲の悪いのが苦になって、どうかして人間が飽まで仲よく仕合うようにしたいと思って、右に善くし、左に順い、彼を慰め之を導き、色々と出来る限りの心配を仕ようと、大奮発でやりかけて見た。ところが世の中は、どうも思ふように行かぬ。一家の人の心持から、社会の上に至るまで、左に聴けば右に背き、甲に善くすれば乙に恨まれる、どうしても皆が一処に心がまとまらん。そこで他人を不足に思うて来た。人は何故かくまで勝手であるか、自分が思うように世界がいかぬ。こう思うて来ると益々世界が悪くなって来た。
生来自分は人に対して隔て心がなかったに、妙に人を疑ふ傾が出来て、自分はこれ程までに人に親切を運ぶのに、先方は何故あのように悪くとるであろうと恨んだり、人々の間柄を調和しようと心掛けた自分が、遂には自分から隔てたり恨んだりすることになった。右に対しても愈善くない、左に向っても益悪くなって、果ては世界中の人を、誰を見てもイヤになって来た。この時の心持をば、今云おうとしても迚も云えぬ位である。しかしこの如き煩悶は私計りでない。かゝることは世の中に、大なり小なりある事柄であるから、何人も自ら省れば解ることである。
彼是して居るうちに、四月八日釋尊の降誕会となった。其前の晩に、人が翌日を楽しんで色々話をして居るのが、私には少しも愉快でなかった。このように初の間は人を善く仕ようとしたのが、終に自分が悪くなって仕舞ったが、それでも自分では、世の中のものどもは如何にも不真面目である、自分は真面目で一寸の隙がないと考えて居った。こんな時には書物を読んでも、教場へ出ても一向面白くない。寧ろ解らない。唯々人生上のことを気にして、考えて計り居った。
こうなると有とあらゆる悪い心は皆起って来る。今まで佛教を喜んだのも何にもならん、佛様も一向有り難くない、友人にも見離される、いかに愛読の書物でも一向味がない。総てのこと何を思うても心を慰めることは出来ない。わずかに食ふたり飮んたりする上に少しばかりの味がある。そこで唯五官上に一時の楽を見出しつゝある物質的の人物になって仕舞った。人間が苦悶にあるの当時に、兎角堕洛し易いのはこの故である。决して無理ではないと思う。酒を飮んでは一時の気をまぎらし、大言壮語しては胸中の欝を散じようとするのは、是非もないことである。
私はその時分には事によると人を殺すことも出来たかしらんと思う位、人を殺すのが恐しくないばかりでない、自分が死ぬことも何とも無い。現に五月二十三日の晚は、自分が死のうかと思うた。この時の心の有様を有り躰に懺悔して見るに、前には身命を賭して宗教の為に尽さんとしたものが、すこぶる小成に安んじ、小さなことを眼につけるようになったか、と悲しみ、又前にこういう風にしたらば善かったと後悔して見たり、前には同情心があったに、何故にこのような無情の人間になったか、と愚痴をこぼし、人が自己を疎んじ、或は侮るように考え、前に東京に出て来たときは、意気天を衝く有り様であったに、今のこの有り様は何事ぞ、と悲しみ、我枕頭に佛あり聖教あり、而して何ぞ心を安んぜざる、と悲しみ、故郷の父母兄弟を思うては、自分の学動がいかにも悠々として居るように思われ、前には我心は天の如く大なりしに、今は何が故にかく井蛙の如くになったか。
以前は一たび立てば人を動かすに足り、又同僚のうちでも至誡の心を以て遇せられたに、今は人が自分を見ること土芥の如くして居るように邪推し、自分は宗教家でありながらこのありさまは何か、と自ら責め、前に安心立命して居るかの如く人に語ったは、人に対して申訳がない、と悲しみ、終には、前には個程までに色々尽力したが、千仞の功を一簣に欠きたるが如く悲しんで見たり。人が親切に慰めてくれゝば、その親切に対して感謝の心が少いと、自ら責め甚しきに至っては、人を感化すべき身分が、他人の感化を受けて、何の面目があるか、と云ふような奇妙な考えを起し、又他人の病気に対して以前ならば疾く往きて看病をすべきに、今は非常に冷淡になったかの如くに考えられ、見るもの聞くもの、皆苦悶の種子ならざるはなく、善きにつけ悪しきにつけ、皆愚痴の材料たらぬはなき有様であった。最後に自ら思ふには、我臨終近づけり、我命は旣に死せり、且つ精神的に人より殺されつゝあるに拘わらず、猶菩提心の起らぬは何事ぞ、汝自殺せんと欲せば、すべからく男らしく之を行え、而して自殺して果して何れの処に往くや、かの善導大師が所謂、徃も亦死せん、還るも亦死せん、住もまた亦死せん、一種として、死を免れずといえる有様であった。最後に、汝は自殺するか、若くは破天荒の事を為すか、二者その一を擇ぶべしと叫んだが、其夜の苦悶の極であった。
昨年彼の藤村操という高等学校の生徒が、「煩悶終に死を決す」と云うたのは、実にひどいことのようであるが、あれも决して無理ならぬことゝ思われる。私がその通り煩悶苦痛の人間であった。和讃に所謂「苦悩の有情」であった。悶へ悶へ苦み苦んでとても宅に居られなくなって、友人の宅へ逃げて往ったが、矢張り苦しくなってたまらんだ。自分の信仰が全く破れた。今まで人に信仰のことを語ったのが申訳がない、自分にどうしても安立の道がないから、時が了度学年試験の前に差し当ったにも拘わらず、学校をやめて座禅に出掛けようと考えた。全体私は、信仰が確かな間は、試に座禅するといふような気かなかった。されど従来の信仰が駄目になるや否や、学校を廃めて座禅を仕ようと思い立った。すると親友の一人が引き留めて、是非共学校の試験を済ませよ、君が学校を廃めるならば、自分も学校を廃めて君と一処に往く、とこう云うて吳れた。自分故に友人にまで学校を廃めさせては相済まんと、思い直して友人の助を得て、学校の試験も済ませた。
そうして國へ帰るまでにも一つ苦しいことに出遇った。それは彼の陸前の松島に開けた佛教夏期講習会に行くべきや否やという一事である。この講習会は前にも云うた通り自分等が発企した会合であるから、これまで一回も欠席したことがないのであるから、この時も欠席するのは非常に罪であると思った。けれどもどうも人中に行くのがいやである。苦しい有様を人に見られるのがいやである。実に世の中はいやであるが、義理的に止むを得ず思いきって行くことにした。東京から仙台に行く汽車の中で、たゞ無暗に煙草ばかり吹いて居て、同行の一友人を苦しめた。
又松島に着ても、例年の講集会と全く気持が別であって、第一多数の人の顔を見るのが何よりも苦しく、天下の美を集めたる松島の風景も更に面白くもなく、諸名家の講義を聞いても一向に解らない、丸で二週間というものは、友人に苦悶を訴えて、人をいぢめ通した。其時に、世の中に真実の朋友がほしい、如何なるときにも我を見限らす、満腹の同情を以て我を慰め我を導く友人をほしいと、浸みじみ思うた。
而して尋常中学時代の友人で、極く親しき人があった、これは尾張の人である。自分はこの友人の処へ往って遇いたい、遇て自分の苦痛を告げたいという考であった。後に聞けば其友人が夢を見たということである。其人の寺の玄関の前に一つの大きな蘇鐡がある。或晚に空中から黄色を帯びた火の玉が飛んで来て、其蘇鐡の囲りを非常の速力を以てグルグルグルと回わったが、やがてボカット消えたと思うと、私が苦しい顔をして突然とあらはれて来て、疾風の如く其友人の肩を攫んで、伺とも訳の分らぬことをいうて訴えた。そこで友人は近角君ではないか、君その有様は何事だというて慰めんとしたら直に夢が醒めたということであった。それが丁度私が松島にあって苦悶の最中であった。
さて私は松島の講習会を了えるや否や皈路に就いたが、其時は怡も黒雲の中を押し分けて行くような気持であった。それから東京へ帰って一晩泊まって、翌日直に尾張へ向かった。そして友人の家を尋ねたら、友人が私の顔を見るなりアヽ是であったと、無言の間に深き同情を注ぎて、大層慰めて吳れた。然るに私は夢の中で遇ったと同じやうに、訳の解らぬことをいうて、丸で気逄いであったと申すことです。
そこに二晚泊まって自分の家へ戾ったが、イツでも喜色満面で帰家するのとは大に趣を異にして居た。物を食うても黙って居る。何を話しかけてもしっかり挨接もせん。そこで親が叱って見たり慰めて見たりして吳れたが、一向に効がない。八月に及んでは苦悶の頂上であった。一ツの小座敷の中を足を瓜ま立てゝキリキリ舞うて居った。
この時『大無量寿経』の五悪段の一言一言が、皆私のことを書いてある如く感じた。「徙倚懈惰にして、肯て善を為し身を治め業を修めず、家室眷屬飢寒困苦す、父母教誨すれば、目をいからして怒譬ふ。言令和かず。違戾反逆す。譬へば怨家の如し、子無きにには如かず。」これらの経說が、一つも他人の事とは思はれなんだ。しかしそれでも、どうしても佛様を、有り難く拜むことは出来ぬ。日夜に泣き悲しんで、一心不乱に佛に祈りて救はれんことを求めたが、少しも何の感じもなく、泣きて涙出でぬ様な心持であった。
九月になっては、どうも腰部が痛くて帯が出来ん。終に「ルチユー」といふ病気になった。この病気は肉の下が濃むので、非常の痛みを起す難病でありました、それでも昼の中は、考えて計り居たから、左程にも感じなかったが、夜寢ると七顛八倒の苦しみをした。私の弟が介抱をして居て吳れましたが、私が眠ると知らず識らずヒーヒー泣き叫ぶのが、腹にこたへてあたかものこぎりで曳かれるようであった。そうして、今でもそのこと思うとゾッとずると申します。それから長浜病院で切開して貫うことになり、二週間入院しました。
それ程の病気になって苦しんで居て、一命も或は難しかろうと、医者も申しましたが、それでも自分は死ぬるといふことを、更に気に掛なんだ。唯自分の浅間しく罪の深いことのみを苦に病んで、どうか善い友人をほしいと許り思って居た。病気が少しく快くなって病院を出たときは九月の十五日である。其後十七日に、初めて病院へ切り口を洗ひに行く途中、車の上で、自分は罪の塊である、実に極悪である。自分は生きて居るといふのは、名前計りで、実はこの途中の石塊と余りかわりはないと思うて、淋しく味気のうて堪らなかった。
それから病院から帰り途に、車上ながら虛空を望み見た時、にわかに気が晴れて来た。これまでは心が豆粒の如く小さであったのが、この時胸が大に開けて、白雲の間、靑空の中に、吸ひ込まれる如く思われた。何だか嬉れしくてならんで家へ帰ったが、叔父が私の顔を見て、どうしたのか一時に顔が変ったと、大層喜んで吳れた。
それから私は、つくずくと考へて、大に自分の心に解って来た。永い間自分は真の朋友を求めて居ったが、其理想的の朋友は佛陀であると云ふことが解った。人間の世の中に向って、真の朋友を求めたのは、誤りであった。実に世の中と云ふものは、この方から一寸隔てれば、先方も一寸隔てる、二寸疑へば、向うも二寸疑う。たとえ表面には少しも様子をあらわさずとも、心の中に於て、この方より隔つれば、この方より隔てただけそれだけ、向の方からも隔てゝ来る。この如く人の心というものは、感応するものである。
而して善い人間と、悪い人間と交際て居るときは、善い方に引き附けるか、悪い方に引附けるかどちらかである。然るに善い方は悪い方に必ずまけて仕舞ふ。初め一度二度は我慢して、人を善くせんと考えても、凡夫同志では、自分が他人を善くすることも出来ねば、他人がこの方を善くすることも出来ぬ。唯互に悪い方へ悪い方へと引き落し合うて居る計りである。
然るに佛陀は、この方が悪るければ悪いほど、いぢらしく思うて下さる。この方が隔てれば隔てるほど、佛陀は胸を開いて迎えて下さる。この方が悪く思えば思うほど、いよいよ善く遇して下さる。こうい御方が在しますということを知らずに、今まで心を苦しめて居たのは浅間しい。佛陀々々と云うて居りはしたが、佛陀は我が為の真の朋友であるということは、一向気附かなんだ。然るにかように、我が真の朋友は佛陀であるとを、ひしと我胸に感じ来ってからは、日に増し有り難く感ぜられて、十月に入っては、人に対して懺悔話をして、佛の慈悲を有り難く喜ばせて貫ふことになりました。この時の感じを三十二年の始めに「静観録」に表白したのが、彼の「信仰の餘瀝」の最初の、宗教的同朋の一章であります。
第四章 信仰を得たる人の実例
この章に於て私の信仰の有り様を聞て、同じ信仰を得て、世の中を楽しく日送りして居る人が、少なくないが、その中で著るしい例を一つ申しましょう。
一昨々年の暮、彼の教科書事件が持ち上った時に、某君は山陽道を旅行中であったが、汽車の中で何気なしに新聞を見ると、「其人が縛に就く」云云の記事が截せてあった。そこで自分の身の上にも、圖らず疑の雲がかゝって、自分を探がして居るに相違ないと思ったから、直に𢮦事へ電報を以て、「当地の警察署へ出ようか、但しは東京の方へ出ましょうか」と問い合せたところ が東京の方へ出よとの命令であったから、早々警視庁へ出頭したら、直様鍛治橋の監獄へ送られた。
この時此君の眼中、世界は道理で行けるものであると思ったで、自分は內に省みてやましいところがない、すこぶる潔白である、無罪となるは勿論である、と期して居った。然るに他の人は段々有罪の宣告を受ける。此君自身も、多分は有罪になろうといふ形勢である。而して其実は少しも有罪となるべき事実は無かったのである。
この君は、法理の上から色々と考えて見たが、何分にも裁判官が一方の証言を信じた以上は、容易にそれを打ち消すことが出来ぬ。友人から種々と法律書を差入れて吳れたけれども、それらは少しも用を為さぬ。是非なく無念の涙を飲んで、無実の罪に墮ちねばならぬことかと、心配でたまらん。加之妻子を任地に置いてあったが、この如き場合には、唯心配させる計り、又自分の為には苦痛を増すのみであった。実に惨たらしい情ないことに立ち至った。そこでこの君も、すこぶる人間界の浅間しく味気ないことを、悟ることになった。
その上に、未决監では、本来地位身分の在る人は、それ相応に待遇が違ふ筈であるのに、いよいよ入監して見ると一向そんな訳でなく、自分も賭博や强盗の犯人と同じ取扱である。もとより待遇のよいのを望む訳でもないが、さりとて情ないことである。こうなって見ると、從来の学問も官位も、朋友妻子の親切も一つも我身を慰めるに足るものとてはなく、唯欝々快々として、殆ど昼夜の区別がない。こゝに至って、国家の法律は、譬へば大磐石の如く、個人が之に向っては、手を以て大磐石を叩くようなもので、如何とも仕様の無いものである、絕体絕命、実に自分は不運であると覚悟した。かく覚悟はしたものゝ、それのみでは心の中が益不平でたまらん、迚も安心が出来ぬ。思えば思ふほど益不安に陷る。後には立っても居てもたまらない、唯悶へ苦しむ計りであった。
私はこの時、教科書事件の為に入監して居る人達に、私の「信仰之餘瀝」百五十部を差入して進呈した。此君が煩悶苦痛の最中へそれが屈いた。そこでそれを初めから読んで下された。
前にも申す通、「信仰の餘瀝」の第一章は私が苦んだ当時、忽然佛陀の慈悲を感じて、初めて其苦みの中から解脱することになった経験を、其侭写したので、其大要は、「人は如何に苦しむとも、如何なる境遇にあるとも、それには搆はずに、只満身同情の涙を以て、我身をながめ、我心の中の隅々までも能く知りぬいて、而も我等の咎過を問い玉はず、只管憐れみ救ふて下さる真実の朋友は、唯佛陀ばかりである。我等は、この佛陀の慈悲に鎚り救ひに預るより外、安心の道はない」というのであります。
この君は、これを初めは何心なく読んで行かれたが、読み行くに従って、何だか妙な気持が仕た。日頃苦しんで苦しんで居る間に、心の中に何か出来てあったが、それを云ひ表はす言葉を持って居なかったのを、怡も釣針を腹の中へ入れて、我が思うて居たことを次第に引き出されるやうな心地であった。いかにも、この人生の上に於て、人を目当にしては何時までも駄目である、真の同情あるものは佛陀計りである。常に我等の身に添ふて、如何なる時如何なる塲合にも、我が為に真情を注いで下さる真実の朋友は、佛陀計りであると深く心に感じ来りて、一枚読んでは泣き、二枚読んでは泣いて居った。
其時徬に一処に這入って居った一人、是は賭博犯のもので、その人がこの君の今の様子を見て、不審に思うて、あなたはを読んで、何故そんなに泣くのか、には何が書いてあるかと尋ねた。この君が答うに、この本には自分が云おうとすることが皆書いてあるから、思はず涙に咽んだのである。自分が思うには、犯した罪が無くて入監してさえ不運であるのに、そのうえに心配をして、我と我が身体を傷うまでに自分を苦しめるのは、実に愚な話である。今までは身に覚えのないのに罪に陷るのは、実に残念であると、色々に世を很み人をも恨みて苦しんだが、これは全体我々の目当が間違って居たからである。
我々は人間を力にすべきでない、我々の力となって下さるものは佛陀計りである。法律に対しては無罪であるが、佛陀に向っては自分はとても無罪とは云いきれない。人間同士ならば、或は無罪である潔白である、决して賄賂を受ける約束も為さぬといふことが出来るが、去り乍ら心の中はなかなか汚れてある。種々さまざまの罪を懐いて屋る、佛陀冥鑒の前には、実に仰山な罪を持って居る。形の上では兎に角、精神の上では、自分は正に罪の塊である。佛陀の前と思えば、とても無罪を云ひ張る勇気はない、もう弁解も弁護もあったものでない。又旣に満身同情の涙でながめて下さる佛陀のまします以上は、佛陀の御導きに任かせて、結果を気遣ふには及ばぬ。して見れば今日よりは、唯自分の為すべきことを為し行くべきである、とこう云ふて語った。この君の信仰は実に立派である。けれども未だ御緑が至らぬと見えて、この立派な信仰の話も、相手の人には左程深い感じを与えなかった。
この君が信仰に入りてより後は、一筋に佛陀の慈悲を喜びつゝ、一層真摯に立働かれた。獄中では兎角下のものに掃除抔させるに拘らず、この君は毎日厳重に自ら掃除をせられた。便所は數日に一度といふ規則なれど、前日に殊に淸潔に掃除せられた。かく及ぶたけは他のものゝすることまでも自ら為し、力を尽して人の世話をもする。他の者も喜んで、この君をば兄の如く親の如くに、親しみ敬ふように成った。
此君は、自分の胸中の煩悶が去って、洗うたようにスガスガとなって来ので、サアどうも他の身の上が気の毒に思はれて仕方がない。自分と一処に居る賭博者が、殊更らに不便である、乃でいろいろと語り聞かせた。このものは或る処で賭博をして居た所へ偶然立ち寄った其所へ巡査が踏み込んで来たので、驚いて燈火を消した時に其中の或るものは、黒暗を幸に巡査を撲った、この男は運わるく其時捕へられた中の一人であったが、裁判所で調べられる時に裁判官が巡査に、「ドンな者が君を殴ったのか」と尋ねたら、「顔にアバタのある者」と答へた。「然らば彼の者か」というて今の男を巡査に引合せたら、「彼の者であります」というたので、この人は事実上撲ったのではないが、據なく入獄することになった。
この人はなかなか元気のもので、獄中に居っても、一向平気であったが、其後或る日妻が子供を連れて面会に来た、あたかも其日どういふ訳か、七ヶ年の禁獄に処せらるゝことになるだろうといふので、ガツキリと力を落して大層に苦しみだした。其晚この君に向って懺悔して云うには、「これは私が悪るかった、あの時は巡査を打ちはせなんだが、場合によっては打つようなことになったかも知れぬ。唯その時は機会が無かったから手を下さなかったのである。本来この如き場所へ近いたのが悪かった。是は慥に御戒めである、私も是から改心致しますと、涙ながらに懺悔をした。
是を聞いて、この君は、嗚呼、人間には階級差別の無いものである。この人が思いがけなく官吏殴打の刑に陷るも、我身が覚なくして收賄の罪に墮つるも、少しも異りはない。又彼れの苦むも我の苦しんだも同様である。是等の点に至っては、学問置位の有無も何も有ったものではない。佛陀の御前に於ては有罪も無罪もない。同じ急所を衝けば同様に痛みを感ずるのである。人間という人間は一同に皆、唯佛陀の慈悲に浴するより外に、安心の道はないと、深く感じたので、默って居られないで、更にその人に如来の慈悲の有り難いことを話した。そうするとこの度は、彼れも大に喜んでくれた。向きが喜ぶ程、いよいよこの君の胸中に満足の感じが溢れた、人生この上に出づる幸福はない。監獄に這入りたればこそ、この妙味を知ることが出来たと、大に喜んで見ると、獄中に居ながら非常に偷快である。丸で獄中といふことを忘れたかの如く、何の苦もなく日を送って居られた。
彼是して居らるゝ中に、胙年(卅六年)の四月になった、突然此君の無罪といふことが知れて、出獄を命ぜられ、同時に文部省からは、本官に復して直に任地に赴けとの命令であった。出獄の時に、自分の信仰を、典獄の藤澤正啓氏に話された。其時の此君の態度が、如何にも気高く美くしかったので、見るものが皆感じ入った。この時体重を計ったところが、獄中に在って而も麦飯を食うて居たにも拘らず、入獄の当時よりも、大分に重量が増してあったということである。
藤澤典獄が小河監獄事務官にこの事を話された。小河氏は御存じの通り日本の司獄官の中心であって、殊に不思議の佛緑により、常に共々に佛陀の慈悲を喜ばして貰ふて居ることゆえ、其事柄を私の方へ伝えられて、且つ私の方より此君に沙汰をしたれば、直接に一度心中を披𤁋したいとの事であった。其時私は、教科書事件に関係して入監された人達から、沢山な手紙を頂いて置いたが、それを取調べたに、此君よりは三通まで頂戴して居った。そこで私は飛立つ計りに喜んで、見舞やら喜びやら感謝やら、自分の心に溢れてあるものを、其侭書いて差上げた。然るにこの君は、急いで任地へ赴かねばならんので、忙しくて寸暇も無いのに、態々私の求道学舍へ尋ねて見えて喜を述べ、翌日の日曜講話を聞いて、其足で任地へ帰って行かれた。
それから又其年の夏に、この君と監獄に一処に居ったという人が求道学舍へ来た。何事かと思うたら、この人が裁判所で愈判決といふ場になって、裁判官がその撲たれたといふ巡査に慥にこの者が打ったに相違ないかと尋ねられたら、「多分その男かと思われます」と答えた。「かと思はれる」では有罪の証拠にならぬ。この者であるか無いか明了に答えよ」との事であったが、そこで巡査が暫く首を傾けながら「この人でない」と答えたので、無罪放免の宣告となったという、其喜びの知らせであった。今まで佛陀を拝むことの無かった人が監獄の中まで追ひつめられて、とうとう佛陀の光に接することになる、実に不思議の至りであります。
此君出獄の当時に、私は、求道学舍の静観室にありて、観音経を拝読しつゝあった時に何気なく 、「設復有人、若有罪、若無罪、杻械枷鎖検繫其身、称観世音菩薩名者、皆悉断壞、即得解脫」と云ふところまで読んで行くと、アヽ是であったと、一種云うべからざる神聖なる霊感が、胸を衡き来って、思わず知らず感淚に咽んだことであった。観音の力とは畢竟佛陀の慈悲の力である。是実に私が実験の信仰と名くる点である。而してこの実験の信仰なることは、私の懺悔と、又私の書いた書物によりて同じく佛陀の光に接せられた此君の話によりて、明瞭であると考えます。
然るにこの実験の信仰なることは、私や此君によりて初めて起ったことではなくて、本来佛教それ自身の起源が、佛陀の実験にして、殊に淨土他力の信仰は、此君の如く不幸にして獄中に繫がれ私の如く罪悪を観じて煩悶に陷った悪人が、佛陀の光に接して救済せられた事実、即ち佛在世の時王舍城中に起りたる一大悲劇がそれであって、彼の観無量壽経に顕はれたる韋提希夫人の獄中の得忍、涅槃経に顕はれたる阿闍世王の無根信を生じたる、これ実に実験の信仰の濫觴であります。
第五章 王舍城の悲劇
そもそも王舍城の悲劇は、從来浄土教の起源としては、何人も知らぬことなき事実なれども、未だ知らさる人の為に、一応御話をして見ようと思います。
佛在世の印度諸国の中で、摩訶陀国というは最も大国であって、其当時の王頻婆沙羅は非常なる有徳の君主であった。現に釋尊が悉達太子として、十九歲の時迦毘羅城を遁れ、道を求めんが為に山に入らんとして、摩訶陀国を過ぎたまいし時、頻婆沙羅王は平素非常に太子を慕ひしゆえ、之を止めて、若し迦毘羅城が小にして不満足であるならば、我国の一半を讓りませう。若しそれでも不足ならば全体でも讓るから、之を治め玉へとまで云はれた人である。この時太子は、我はこの如き俗的の王国を望むのではない、安心の道を求むるのであると云うたので、頻婆沙羅王は、然れば太子若し道を得たまいたならば、先づ来って私に之を授け玉へと云われたとの事である。
かく有徳なる君主なるにも拘らず、宿世の因縁によりて、実に不孝極まる太子を持たれた、即ち阿闍世王がそれである。佛が成道の後、故鄕へ帰られた時、釋種の一族は学て出家して佛の教団に入ったが、其一人なる佛の従兄弟に当る提婆と云える人は、余程峻刻嚴厲なる性質の人であったと見えて、佛の教団中に於て佛陀の弟子に対する態度が、寬容であることを甚もどかしく思うて、手嚴しく弟子を訓練したいと申し出でたが、佛が之を許したまわぬので、大に不平であったと云うことである。
是に於て彼は、自己は佛陀に代りて、思う存分自分の思う通りにやって見たいと考え、就ては一大帰依者を見出さねばならぬというので、この阿闍世太子を教唆して、其父の王頻婆沙羅を殺して位を奪わしめ、彼の助によりて自らも亦其隱謀を実行しようと企てた。是に於て王舍城中、大なる悲劇が起って来た。
阿闍世は提婆の教唆に従て、父の王頻婆娑羅を收執して、七重の室內に幽閉した。頻婆沙羅王の夫人韋提希は、すこぶる愛情の深き人で如何にもして頻婆娑羅王を慰めたてまつらんと思い、色々工夫の末に、先づ我身を清浄に洗いて、善く製したる麥粉を蜜で練って、それを自分の肌に塗り、浄き衣服を以て其上を覆ひかくし、又その上に飾るところの珱珞の一々に、葡桃の漿を盛りて、蝋を以て之を封じ、出来上って後に、常の如く之を纏ひ飾りて、そうして頻婆沙羅王の牢獄の中に行き、密かに食物を進めた。
頻婆沙羅王は、夫人の進むる食物を喫し竟りて、淸らかなる水を求めて口を嗽ぎ、合掌恭敬して、遥に佛陀を礼して願って云うには、大目犍連は我が親友であります、何卒世尊慈悲を起して彼を遣はして、私に八斉戒を授けしめたまえと。よりて目連は、あたかも鷹の飛ぶが如く、疾く王の所に到りて戒を授けられた。毎日この通りに目連が戒を授ける上に、なほ佛陀は、能弁の譽れある富楼那尊者を遣はして、王の為に說法せしめられた。この如く一方には肉体上の食物を得、又精神上の糧をも得て居るが為に、頻婆沙羅王は、顔色和悦にして、三七日を経るも何等の変りもなかった。
於是、阿闍世王は不審に思いつゝ、自ら往て取り糾さんとて、先づ牢の門に至って門番に向って、父の王は未だ生きて居られるか如何と巧に問いかけた。門番は事情を有りの侭に話した。阿闍世は聞くなり火の如く怒って、我母は是賊なり、「賊たる父の王と伴なればなり、又沙門は悪人なり、種々の幻術を以てこの悪王の命を延ばす」 と罵り叫ひつゝ左手を伸べて母の髪を掴み、右手に利剣を執って毋の胸に擬し、あはや一息に衝き剌さんとした。
母は驚き合掌して、身を曲げ頭を垂れて我子の手に縋り、全身熱き汗を流して、身心悶絕した。この時大臣の月光なるものと、耆婆なるものが、慌てゝ之を遮りて云うには、大王、臣等が聞くところに依れば、吠陀に書いてあるには、昔より諸の悪王ありて、国位を奪わんが為に、其父を殺害せるものは、すこぶる多数のことである。されどまた無道に毋を害せるものあるを聞かず、王にしてもしこの如きことを為さば、是刹帝利種の恥なり、汚れなり、臣等之を聞くに忍びず、是旃陀羅の行なりと、大に之を苦諌した。阿闍世もこの言葉を聞て剣を捨て、母を害すること丈は思い止まったが、忽ち侍従に云ひ跗けて、また深宮に幽閉して、一步も出さなかった。
夫人韋提希は獄中に幽閉せられ、心神愁憂し顔色憔忰して、見るかげもなき有様になった。遙に耆闍崛山に向って、佛を拝して祈念して云うよう、如来世尊、昔日常に阿難を遣はして、我を慰問し玉へり、然るに我今不幸にしてこの如く悲境に陷りました、世尊は勿体なくして御目に懸ることは恐れ入りまする、願くは目連と阿難とを遺はして、我を慰めたまへと。かく云ひ終りて悲泣して淚雨の如く下り、容易に頭を挙げることが出来なんだ。佛は遙にこれを聞き給うて、親から目連阿難を從えて韋提希の獄中に臨み玉いた。
時に韋提希、頭を挙げて佛を見たてまつるや否や、自ら身の飾を引きちぎって、身を挙げて地にひれふし、号泣して佛に向って日く、世尊我身夙世何の罪ありて、この如き悪しき子を生みしか。又世尊は如何なる因縁によりて、提婆如き悪人と御親類にてましますか。唯願くは世尊、我が為に憂悩なきところを説きたまへ、私はそこへ生れたく思ひます。私はこの濁悪の世界に懲り果てました、この世の中は苦を以て充され、悪人計りであります。願くは未来に於ては、再かゝる憂き目を見たくありませぬと云ひつゝ、五体を地に投じて求哀懺悔して、切り詰めて願って日く「願くは佛日、我に淸浄業処を観ぜんことを教えたまえと。
佛はこゝに於て眉間の光を放って十方諸佛の国土を見せしめられしに、韋提希は之を見畢りて、この諸の佛土、何れも清浄にして皆光明あり。されど私は今、極楽世界の阿弥陀佛の御許に生れんとを望む、唯願くは世尊、我を導きたまへと申し上げた。佛陀は之を聞こしめして微笑し玉ひしに、慈悲の光、佛の口元より溢れて、遙に頻婆沙羅王の頂を照らした。大王心眼障りなく世尊を見たてまつりて、漸々佛道を進め玉ひた。
佛陀はこの如く満足なる御貌を以て韋提希に告げてのたまはく 「汝今知るや^や、阿弥陀佛こゝを去ること遠からず。汝まさに念をかけて諦に彼国の浄業成じたまへる者を観すべし」と実にこの一言は韋提希の心中に徹到して、生ける佛陀の慈悲を感受せられたる根本である。観経一部の要点はこの一語の中に結晶されてある。
王舍城中の暗澹たる獄中、煩悶苦痛の極度に達したる韋提希。温顔微笑、「阿弥陀佛こゝを去ること遠からず」と教を垂れたまひし釋尊。蓋し宗教的舞台として、実に壮大を極めてある。是れ観経の説法の初めにして、又その要点である。韋提希は佛陀の御慰を受け、心に歡喜を生じ、廓然として心中大に開け、偉大なる信仰を生じ、五百の侍女亦求道の心を起した。実に是弥陀の本願力を実験せられたる初めての事実である。
而してこの事実は、千古人生に於て常に起りつゝある事実でありて、苟も人生のあらん限り、この佛陀の慈悲ならでは、安慰を得ることは出来ぬ。上に挙げたる某君が、信仰を獄中に得られたる場合と、韋提希夫人が、幽閉の中に於て光明に摂取せられたる場合とは、実に符節を合はするが如くである。年相隔つること貳千余年、地相距ること数千里、而して味うところは同一佛陀の慈悲である。
私は、不幸にも監獄にあるの人は、あたかも信仰を得るに最も適切なる境遇であって、我々信仰の眼より見れば、佛陀の慈愛を感ずべくこの如き境遇に追いつめられたものである。然るに若し徒らに其機会を失して、却て罪悪の深みに陷るが如きは、甚遺憾な次第であると考える。されど一般世上の人といえども、予は監獄に居らぬゆえに、以上の事は自分等の境遇でないと考えて居るならば、それは大なる誤りである。
首を回らして見れば、人生は実は一大監獄である、到るところに煩悶苦悩の叫びが聞こえて居る。私の「信仰の餘瀝」にある、「信界に於ける監獄」といえる一章を熟讚して下さったならば、この意味は明瞭である。又人生問題に苦しみつゝある人は、上に挙ぐる韋提希及びこの君の場合をよく理解することが出来るに相違ない。而して殊に韋提希といえる女性の人が、初めて佛陀の慈悲に接したということが、最も注意すべきことである。女性の人は兎角煩悶が多いのであるが、其人に対して最も適切なる救済は、佛陀の光明である。是れ親鸞聖人がこの事実を以って、苦悩の群萠を救済するが為なりと、喝破せられたる点である。
かくの如く韋提希夫人が信仰を得られた事実が、観無量壽経の要点である。而してこの観無量壽経の要とも申すべきものが、即ち涅槃経に於ける。阿闍世王の無根信を生じたる事実である。この事実はすこぶる長き説話なれども、悪人の救済といえる親鸞聖人の信仰を説くには、省くべからざる点である。而して韋提希の事実があたかもこの君の場合と同じきが如く、阿闍世王の煩悶と罪悪観は、実に私自身が陷りた境遇も全く同等と考えて居る。
私は涅槃経を繙くごとに、决して他人の事を書いてあるのとは思えぬ。加之涅槃経の文が、当時印度に行われつゝあった六派哲学の議論では、何等の安心をも与えなんだが、佛陀の慈愛によりてのみ、初めて安心が出来たぞいうことを、詳に書いてあるので、今日信仰を求むる人が、初は哲学や理論で安心を為さんと試みて、終に之に疲れ果てゝ、最後に仏陀の慈悲に帰して大安心を得るに至る事実と能く符合して居る。極言せば、阿闍世王の得信は、実に現時信仰問題の標本とでも云うべきものである。それゆえ煩はしきを厭わず、次の章に於て涅槃経の文句通りを、大略叙述しとうと思う。
第六章 阿闍世王の懺悔
彼の阿闍世太子は、国王となりて飽まで五欲の楽しみを恣にしようと思う心より、父を殺して王位に陛った。然るに後に至りて、心に深い後悔を為し、胸中頻りに熱し悩みて、全身に悪瘡を生じ、臭気甚だしくて近くことが出来ぬ。王自ら謂えらく。この如くに悪事の報が覿面であるから、唯今にも地獄に墮つるであろうと、大に苦しむに至った。父を殺す程の者なれど、流石に頻婆娑羅王の子であるから、父の御蔭で、自然と佛陀の御手廻わしで、かゝる心が起ったのであろう。
いよいよ目が醒て見ると堪らない、夜となく昼と無く苦るしむ。母の韋提希夫人は、見兼ねて色々と薬をつけて遺るに、薬を塗れば塗る程、いよいよ其痛みが増すばかりで、少しも効がない。そこで阿闍世王が、母上に申すには、「これは私の心から起った病気であります、肉体丈の尋常の病気とは違います、それゆえ、とても人間の手では愈るものではありますまい」と、如何にも失望悲哀の頂点である。かく身も心も悩乱して、現在未来の苦痛煩悶が、一時に大山の崩るゝが如くに迫り来るところへ、六人の臣下がかわるがわる伺候致した。この六人は印度の六派の哲学を奉ずるものである。
それらの人達が如何なることを申し述るかといふに。先づ第一が日月称を云う人である。この人が王の御前へ出て云うよう。「大王、何故其ように萎れてましますか、御身体の御痛でありますか、御心の御痛みでありますか」。大王答へて云うよう。「余は今身心共に痛ますには居られぬ、我父何の辜もなきに、無法にも逆害を加へ奉ったことは、実に申訳がない。佘智者よりこの如きことを聞いて居る。世の中に五人のものあって、この者は地獄を遁れることが出来ぬ、それは五逆の罪人であるということである。余は今天地も容れぬ大罪を犯した、如何にして身心共に痛まざるを得んや。如何なる名医といえども、この苦みを治し吳るゝものはあるまいといわれた。
この時日月称の申し上るよう「大王、何も其様に御心配なさるには及びますまい、くよくよとそのようなことを、御心配遊ばすから、いよいよ心配になるのであります。そのような御心配は、决して為さらぬがよろしい。眠れば眠る程、どれだけでも眠たいようなものであります。酒を飮みつけるといよいよ飲みたいようなものであります。大王は、五逆罪を造りたるものは、地獄に墮つるとの仰でありますが、誰が実地に往って見て来て、そう申したのでありますか、世の中には、隨分利発ものがありまして、大王の今の仰の如く地獄があるなどゝ、見て来たかの如く説くのであります。また大王は、世間に大王の御病気を瘉やすものがないと仰せられましたが、如何にも無いでありましょう、外には决してありますまい。がこの処に至極の名医冨蘭那と申す人が、御いでであります。この人は、一切何事も知らぬこととてはなく、其徳行も、実に一点の汚れの無い方で、常に一切の人の為に、無上の教を垂れて下されます。この人の説には、善と云ひ悪と云ふ如きことは、有るものでない、故に善悪の応報などが、あろう箸がない。従て人の行為にも、勝れた行、劣った行と云ふ如き区別を立てるものでない、一切の事は皆空無であると、かように教えられまする。この人は唯今この王舍城の市中に住して居りまする。願くは大王、兎も角も御出かけ遊ばして、この人に治療を御命じなさるゝように」と。そこで大王が、「実に汝の言の如く、余が罪を滅ぼし吳るゝならは、余も深く帰依することであろう」というて、御挨拶を為された。
この日月称大臣の云うところはどうであるか、心配するから益心配になるのである。そんな心配をせすに置けというのであるが、かく忠告したとて、何の効があろうか、深く我心に悪しきことを知って、心配で心配でならぬ時に、かくの如きことを云えばとて、少しも慰めにはならぬ。心配せずに置かれるものならば、誰が好んで心配を為すべきや、心配せずに居ようと思うても、心配せずには居られぬゆえ、心配するのである。之を察せずに、心配せずに置けというは、何たる情の無い言葉であるか、けれども世には、この如き慰め方をするものが、隨分あるものです。
さてこの日月称といふは、空見外道とて、過去世もなく、未来世も無し、唯命のある間こそ生きて居ると云うけれども、死ぬれば大風に灰を撒いたようなもので、二度と生れて来るものでないと、こういふ説をもって居るのだから、自然前のようなことを云うて慰めようとしたのである。今日とても、この種の意見を有して、宗教に対するものが少なくない。一時評判の高かった彼の中江兆民居士の「無神無霊魂論」もこれと似て居る。又是の反対で黒岩氏の「天人論」これも一時は余程評判のものであったが、これの方は或る意味に於て霊魂の存在を主張する。しかしたとえ霊魂があると道理の上できめたからとてそれで人間が実際安心の出来るものでもない。又霊魂が無いと云うたからとて、罪悪の感じが深くなって苦痛に陷りて居るものを慰め得るものでもない。つまり学問の理屈でどう柙附けて見たところが、それで生老病死憂悲苦悩を抱きて居る人間に満足を与えられるものでもない。真の安立は実験の宗教より外に達し得らるゝ道は無い。
次にまた一人の臣下藏徳と云ふが御伺ひ致して、申上けるようは「大王、何でその様に御やつれ遊ばすか、御唇もおかはきの塩梅、音声も細って聞えます、御身体が御悪いのですか御心配が御ありので御座りますかと。王がそこで仰せらるゝには、この方はどうして身心共に痛まずに在られようぞ、自分が愚で人の見分けが附かぬからつい多くの悪人共と近附になって父の王と疎ましくなり、とうとう提婆達多と云ふ悪ものの云ふ侭になって、政道正しき父の王を失ない奉ったのであるもの、この方が前から聞て居った、父母及び佛弟子に対して、善からぬ心を以て当るならば、その報で無間地獄に墮ちるということである。たった今堕つるのだ、起っても居ても居られん助けて吳るものはない、あゝ悲しいことである」と。
大臣がそこで申上るには「大王あなた暫く御気をシッカリと御持ち遊ばしませ。凡そ道には二通りありまして、一には出家の道、二には王者の道であります。王者の法で申すならば其父を殺して代って国王となることは差支がありません。それは逆と云うて云はれぬではなけれども、決して罪にはなりません。譬えば迦羅々蟲といふ虫は、其生れるときに必ず母の腹を噛み破って生れ出づるようなもので、それが其虫の生れる法であります。其等のものゝ法とあればたとえ母の身を破っても罪とは申されません。そう云ふ理屈で王者の法では、王位を得るには之を殺さなければ取って代ることが出来んとして見れは、王位を取る為に、縱令父や兄を殺してもそれが王者の法と云うべく、何とて罪となりましょう。尤も出家ならば蚊一疋蟻一つ殺しても皆罪になるのであります。
こう云う譯でありますから、どうか其ように御苦慮遊はさずともよろしう御座いませう。成る程仰の通りよい塩梅に御治療を申し上るものは無いで御座いましょう、しかし大師末伽梨狗賒梨子と申す方が御いで遊します。この方は一切智慧を具えてあって、そうして一切の人を憐れむこと殆も赤子を母が扱うようにして吳ます。唯今この方はこの王舍大城市中に住居うて御いであります、どうか大王かしこへ御出向き下されば大慶至極に存じ奉ります。御面会になればきっと一切の罪が消へて御心が安まります」と。大王の御返事は前の通り「真にそうであるならば帰依を致そう」と。
其次に又一人の臣下が参った。其名は実徳といふて、これも亦大王の御側へ出て申上るようは「大王には、どうしてそのように御首髮も蓬の花の飛ぶが如くに取り乱して遊ばしますか、御病気であるか、御心配が御ありですか。大王の御返事に「我が父の王は慈悲深い方でこの身を深く愛して下さった、実に父の王には少しの御悪るいこともなかった。我が身がまた胎內に在るときに相者が申上るには、この御兒さまは御生れになっても大王には仇敵であります、大王の御生命を奪ひ奉るは必定です、生かして御置遊ばしても御為にはなりませんと云った。そう云うことを御聞なされて猶取り上げて御側を離さずに御養育下さったのである。故に前からこの方が、五逆罪のものは阿鼻大地獄に堕在すると聞て居た。しかるにこの方は大恩ある父王を殺したからはどうして怖ろしく思はずに居られよう」。
そこで大臣は、「一切衆生が、皆過去の昔より持ち来れる種子によって、この世へ生れ来って、種々の運命が分れて居るのである。前王は盛徳にましまして、少しの罪もなかったとの仰は、いかにも御尤であります。志かれども其罪なしと云ふのは、川の水の少なきを、水無しと云ひ、鹽味の足らぬを、塩気なしと云ふ如き例で、前王は、この世に於ての那は無くとも、前生の罪の種子が残りであったから、彼の如き最期を遂げたまいたので。要するに、前王は、自分の罪の余報によって、御果てなされたのであります。しかる以上は大王、何もあなたの罪ではありませぬ。それ故そのようにいつまでも御心配遊はさずに、何卒気を大きく持っていられますように、御願申すことであります。しかし私の申すところでは、御安心もなりますまいから、どうかこの王舍城中に住む、「刪闍耶毘羅肱」子といふ大徳に就て御尋ね遊はすように、御願申ます」と。
そこへ又、悉知義といふものが罷り出て、御見舞を申上けたところ。大王は、「この通り苦しんで居るのは知りての通り大逆罪を犯したからである。ア丨この方は今直に阿鼻大地獄に墮ちて無量永却大苦悩を受けねばならぬ、誰も助けて吳れるものはない、悲しい怖ろしい」と。
この叫びを聞て悉知義は、「マアどうか大王少時御気をシッカと持って給まはらば如何計り嬉しく存じます。大王には御承知は御座いませんか、昔は国王羅摩と申す方が其父王を殺して自ら王位を御紹ぎになりましたことを。其外跋提王、毘楼真王、那腰沙王、迦帝迦王、毘舍佉王、月光明王、日光明王、愛王、持多人王、これ等の王様方は皆其父を殺害して王位に登られました。それでも御一人として地獄へ入られた方はありません。又現在でも毘瑠璃王、優陀那王、悪性王、鼠王、蓮華王、何れも誰一人として其王様方の中で親を殺したことを気にして御苦みの方は御座いますまい。地獄だの餓鬼道だの或は天上世界だの、そのような所を誰れ一人見たものはありますまい。大王よ唯二つの境界があるばかりであります。一には人間界、二には畜生界。それ等とても何も善悪の所作の因縁によりて、境界が別れたのではありません。烏は染めざるに黒く、鷺は晒さざるに白しで、何れも唯天然であります、自然であります、善もなく、悪もなく、又善悪の報もありません。して見ますれば大王、御安心下さるゝよう、御心配を遊ばすと際限が御座いません。そうしてどうか、かような道理をば彼の有名なる「阿耆多翅金欽婆羅」と申す人に御尋ね下されば、委細明了に申上げ必ず大王の御心を安んじ奉ることで御座りましやう」と。
第五番目に吉徳と云ふ大臣か御伺候いたして「大王には地獄に堕つるとの仰で御座るから、私は唯今地獄と云う言葉の詮義を致しましょう。倩々地獄と云ふ字を考えまするに、地と云うはこの足で踏む大地のとで御座る。獄と云う字は破ると云ふ義がございますから、親を殺すものは地獄に落つるを云うも、旣に地獄といふ言葉が地獄が破れて仕舞うというとになるでありましょう。それならば罪も報も有りますまい。又地といふ文字には人間という訓があり、獄と云う字には天と云う訓があります。して見ると父を殺すと人間若くは天上界に生れると云うことにでもなりましょうか。道理こそあれ、婆蘇仙人の説には、羊を殺すと人間若くは天上界の楽を受ける、其ことを地獄と云うと申して居りまする。又地の字には命と云う訓があり、獄の字には長いと云う訓が御座る。して見るとこのことは、人を殺すと自分が長命すると云うことでありましょう。かように文字の訓義を調べて見ますと、どうしても恐ろしい地獄世界などと名ける「ケチ」な場所は無いのでありましょう。たとえて見ると了度あの麥を種えると麥が生へ、稲を蒔くと稲が取れるようなもので、人を殺しますと還って人に生れましょうが、人を殺したからとて地獄へ堕ちる抔の心配は入らぬことであります。
大王まず私の説を御聞き下さい。実は殺すの殺されるのと云うことは决して無い訳であります。何故なればもし仮りに人間に魂があるとしても人殺は罪になりません。魂が実にあるものならばそれは死なぬものでありましよう。死なぬものならば殺そうとしても殺しようがないではありませんか、何処に罪と云はるべき訳がありますか。又魂が無いならば草木や石瓦の如きものであるから、尚以て殺したくても殺すべきものが無いではありませんか、どうして罪となりましょう。何れから考えても人殺しが罪となると云う道理は立たないことであります。譬えば火が木を燒いたからとて火には何の罪もない。斧が木を切りましても、斧に罪があるとは申されません。刀で人を殺しても同し道理で刀に魂があるでもないから、刀に罪がある筈もない。一切万物皆この通りで、殺すも殺されるものも無い。どうか大王御心配を御止め下さるよう願ます。物を気にしては果てしがありません、唯心配が募るばかりであります。こう云う道理を充分に説き明かす智者は「迦羅鳩駄迦旃延」と云う人であります。何卒あの人に就て早く御安心遊ばすように」と。
第六番目に無所畏と云う人が出て、是も自分の意見を述べて例の通り矢張り自分の師とする所の「尼乾陀若犍」子と云う人を推挙致しました。かように六人の臣下が御前へ出て各々自分の意見を述べて御慰め申上けたが、大王には一向に安心の様子がなかった。
然るところへ彼の有名な耆婆大臣が御伺い申して、色々と慰めて遂に佛教に帰して真実の安立を得させられた。其ことは是から申し述べますから、よく心を留めて味うて戴きたい。耆婆大臣は先づ優しい親切な言葉を以て御尋ね申すよう「大王、如何です、御眼り遊ばすことが出来まするか」と。この耆婆の見舞に答えて阿闍世王の云はれるには「耆婆よ、佘は今まことに重病である。正法の王に対して悪心を以て暴逆を加え奉ったのだから、これはどんな良薬でも御祈祷でもどのような看護人があってもとても愈るものでない。余以前に智者の教に聞いたことである。身も意も口もこの三もし清浄でないならば、この人は必ず地獄より外に行き場がないと思えと。余は今正しくそれである。どうして安穏に眼ることが出来るものか、今余が為に無上の医者がない、何とかして余が病を愈す良い薬があるまいか、この苦みを救うて吳れる道はないだろうか」と。如何にも法を求めるところの真ごゝろが言葉の上に溢れて見える。
是を聞いた耆婆大臣は腹一杯の同情を以て王を讃めて、「それは如何にも結搆な御心で御座る。大王には罪を御造りなされても御心に其通理に深く後侮を遊ばして慙愧なされてまします、如何にも結構なことで御座る。大王諸佛世尊の常の御教化には、二つの善きことがあって、能く衆生を救うことである。
先づ一には慙、二には愧でわる。慙といふも愧というもどちらも「ハヂ」と云ふ字ではあるが、慙の字の方は自分で罪を造らぬこと、愧の字の方は他に罪を造らせぬこと、又慙とは自分の心に恥ぢることで愧は打明けて他に訴えること。又慙とは他の手前を思うて慎むこと、愧とは神佛の冥見に恐れ入ること。この慙愧の念の無いものは人とは云はれぬそれは畜生であります。慙愧の心があるので能く父母もしくは師匠其ほか目上の人を尊び敬うのである。慙愧の心があるので父毋の有難さも分かり兄弟の親しみも心に浸み渡るのである。今大王は心から慙愧してまします、実に結搆なことで御座いますが如何にも仰の通り其病を愈すものは外にはありますまい。唯迦昆羅城浄飯王の子悉達多太子は、別に師匠とてはなく独りで御悟りなされて無上苦提を得たまいた佛陀であります。世界中に比びのない勝れた方であります。金剛の如き智慧を以て能く衆生一切の罪悪を打ち碎いて下されます。苦が治らぬなどゝいう心配は少しもいりません」と。
かように話して居る中に虛空の中に何者とも知れず聲計りあって大王に告げて云うよう、「世尊は久しからずして涅槃に入り玉ふから、早々佛陀世尊の所に往って御救いを蒙れ、佛陀世尊の外には助けて下さる方はない、我は今其方を不便と思うゆへ勧め導くのじゃ」と。大王この語を聞て恐ろしく感じて五体振動して芭蕉樹の如く、震え上って天に向って尋ねた。「雲の上でそう仰せあるはどなたで御座る。御姿も見えず、御声計りであるとは」と申すと、「我はこれ汝が父頻婆沙羅じゃ、其方は疾くも耆婆の言葉に従え、邪見の輩六臣の勸めに附いてはならん」。この父の親切の言葉を聞て阿闍世は愈心苦しくてたまらなくなって、気絕して倒れて仕舞ったが、体中の瘡が一層劇しく熟し痛みその臭いこと非常である。冷やし薬をばどのように塗っても、唯ますますひどくなる計りであった。
この時佛世尊は耆闍崛山に在しまして、月愛三眛と云う定に入らせられて定中から大光明を御放ち遊ばしたその御光りが、如何にも清らかに凉しくあるのが、遙に阿闍王の身体を御照らしになると、その通りの劇しい全身の瘡が一時にスッカリと癒って仕舞った。そこで耆婆が王に「あの方は天中の天であります」と申すと王は、「どうしたことでかような御光明を御放ちなさるのであるか」と尋ねられたので耆婆が申すには「されば今この瑞相は恐くは大王の為にわざわざ御放ちなされたかとぞんじます。大王には先刻、世の中に我病を癒して吳れる名医がないと御歎きでありましたが、佛世尊がこの光明を以てまづ大王の御身体を療治し奉って、御身体の御平愈になった上で御心の方に及ばうと思名すのでありましょうと申した。是を聞て大王が余程御心が動き出して、「そんなら如来世尊にもこの我が身に遇ふて遣ろうと思召すであろうか」との仰であるから耆婆は、「如何にも左様であります。世間の親でも多勢の子供を愛するに何れに疎はないが、其中でも病気で苦しんで居る子の方に心が重く掛るようなもので、大王よ如来も亦左様であります一切の衆生の上に依估も負贔も無けれども罪あるものを殊に御案じなされて身のおさまりのついてある者よりは、放逸のものをば束の間も御忘れ下さりません。大王この瑞相はこれは如来世尊が月愛三昧に入って御放ちなされる御光であります」。
その時、「月愛三味とはどういうことぞ」と尋ねしかば、耆婆が申すには「譬えば彼の月輪の光は能く一切の優婆羅華を見事に開かしむる如く、月愛三味も亦能く衆生の信心の花を開かしむ。又月東山に昇るときは、旅行のもの、心甚だ喜ぶが如く、月愛三昧は、信仰の路を辿るものに、大歓喜を生ぜしむる故に、月愛三昧と名づくるのであります」と、申上げた。
実に阿闍世王が、佛の御力で、スッカリ病気を療して頂いたと云うことは、徒に聞き流してはならぬ。前に私自身が懺悔を致した通り、私は煩悶の極、遂に身体に非常の痛みを生じて、終日終夜大悩乱に陥りました。然るに不思議にも、僅か二週間のうちに、あたかも搔き消す如く病気が本復致したのは、决して偶然ではなかった。私は病気が本復して後、数日を経て、終に偉大なる佛陀慈悲の光明は摂取さるゝに至った。耆婆が、如来は大王の身を療治して、而して心に及ぼす思召であると、云はれた言葉は、実に私の境遇を、其まゝ直写されたような心持がする。世の中には、甚しき病気に罹りて、幸に本復した人も少なくないであろう。勿論人生の方面より云へば、医薬その効を奏したとも云はれようが、之を霊界の方面より眺めて見れば、慈愛の佛陀が、心を救はんとて、先ず肉体から救うて下さったのである、といふことを忘れてはならぬ。実にこの月愛三味の光なるものは、身心を歓喜せしむる慈悲の光明である。
かく佛陀の光明の導と、耆婆の忠告とによりて、阿闍世王が、初めて佛を慕いたてまつる心を起した時、佛陀は遙にこの様子を御覧遊ばして、大衆に告げて仰せらるゝには、「一切の衆生、無上大道に進む因緣の為には善き友人に越したるものはない。なぜならば阿闍世王がもし耆婆の言葉に従はなかったならば来月の七日には必定命が終って無間地獄に堕つる、もうその日が迫って居る。して見ると誰人も早く善知識に従うにしくはないぞ」と。求道に善知識の大切なることを御諭しあらせられた。
さて阿闇世王はいよいよ佛世尊の御許に參らんとて出掛けられた途中に誰ともなしに語ることを聞くに、舍婆提国の搵瑠璃王は、如来世尊が不便や彼は逆罪を造ったでやがて火の為に燒かれて死して地獄に堕つると仰せられたと聞て、恐ろしくなって、火の難を遁れるには水に若くはないとて、船に乘って海に浮かんだが、さて其日になると船火事に逢うて死して無間地獄に堕ちた。又提婆の弟子俱伽利比丘は生き乍ら大地が裂けて無間地獄に墮ちた。しかるに須那刹多は様々多くの大罪を造ったが、佛の御許へ参って、罪を消して戴いて地獄を免かれたと、こう云ふ話を聞て、思案が定まるべきであるにそうは行かなんだと見えて、耆婆に云うよう、「余今彼等の話を聞てもどうも安心か出来ない、余は、汝と一処に一つ象に載せて吳れよ、毘瑠璃や俱伽利のことを聞て、いよいよ怖くなった、佛の御許まで行く間に、もしも地獄に堕ちかゝったら、汝が抱き抑へて墮さぬようにして吳れよ、汝は信仰ある人だから地獄には堕ちぬイヤイヤいくら余と一処でも汝は堕ちる気遣のない人だから、是非共そうして吳れ」と只管頼んで一つ象に乘って往かれた。
こうしていよいよ佛の御許に参った。さあ佛世尊は阿闍世王に対して如何なる御教化があるか、しっかり心を留めて味い奉らねばならぬ、極大切の点はこゝである。これからの佛の御説法は外の事はない。唯阿闍世王の心には罪の無い父を殺したので、必定地獄に堕ちると思いつめて、如何に佛世尊でも我身計りは御救い下さることは叶うまいと疑いきって居るから、其執心を打摧いて信仰を起させる御諭しである。
それであるから佛は実に温厚な御顔を以て、慈悲の溢るゝ御言葉を以て大王に御告げ遊ばすよう。「一切衆生の造るところの罪に、凡そ二種あって、一つには軽い方、二には重い方である。もし心と口とて作るならばそれは軽い方であるし、心と口との上に更に身の所作が加はるならばそれは重い罪である。大王は心で思い口で云附けただけで、我身で手を下だしのではないゆえ、其報も軽いことは勿論である。そうでありましょう大王、大王は口で殺せと命じたのではありますまい、たゞ足を削れと云うたまででありましょう。大王たとい御自身に、唯今父の王の首を斬れと御命じなさるや否や、父の王の首が前へ飛んだ程の罪を犯したものでも佛は决して見捨て玉はぬ。况や大王には殺せと御命じさなったのでないものどうして罪がありましようぞ。全体が気違のした事は罪にならんのです。気違にも四通りあって一には貪慾煩悩が本気の違うたもの、二には性に合はぬ薬を呑んて気違になったもの、三には色々と呪詛はれて気違になったもの、四には過去よりの業因によって気の違うたもの。この通りであるが我弟子の中にも色々の気違があって隨分悪業を働きますけれども、我はそれを戒律を破ったものとて咎めは致さぬ。そう云ふものゝ所作は、悪道に堕つるものでない。今大王も、国と王位とはほしいと云う貪慾狂の上からして為されたのであるから、罪にはなりません。酒に酔い狂うて覚えなしに仕たことを、醒めた後に気附いて心底から後悔したならば、誰も是を罪に行う筈は無いではありませんか。大王も其通りで貪慾の酒に酔い狂うての所作であって、本気の沙汰でないもの、どうして罪ありと云うことが出来ましょうぞ」と。
かように、いろいろ言葉静に御慰め遊ばして最後に慰の頂上に達して厳かに仰せらるゝよう。「大王が父王を殺して罪があると云うときは、諸佛世尊も矢張り同様に罪がある訳である。何故ならば父王頻婆沙羅は、常に諸佛に供養してその善根によって、今世に王の位に登られたのである。もし諸佛が父王の供養を受けずば、父王も国王の家には生れぬであろうし、従て大王も国と位との為に父王を殺す心も起りますまい。三世を見通しています佛陀が、大王が王位の為めに父を殺すべしということを知り乍ら、父王の供養を受けて、父王に王位に登るべき果報を得べき因綠を与えた以上は、大王が父王を殺したとて、それを大王計りの罪とは云うことが出来ぬ。大王が地獄へ堕つるときは、諸佛も共に堕ちねばならぬ、諸佛が罪を得ぬならば、大王独り罪を得る筈がない。よって大王の地獄に堕つるをば、佛陀は必ず救はねばならん。人の供養を受ける佛陀が、大王の地獄に堕つるをば、黙って見て居ることが、どうしても出来ぬことである」と、細々と御諭し遊ばし、ことごとく大王を御慰めになった。実に実に御慈悲の極点である。是程までに罪悪のものに同情を寄せて頂いて、どうして默って居られよう、ただかたじけない、有難いと寄り鎚るより外はありますまい。この慈悲の塊りの御言葉によりて、阿闍世王の結いつめた真闇な胸が一時に開けて、丸で長い長い墜道の中を辿り辿って、急に広い海辺へ出たような心地であった。日夜苦み抜いた大王が、一時に安心か出来たので、こゝに自から信仰を述べて、大に喜ばれた。其言葉は個様である。
「佛世尊よ。私が世間を見ますに伊蘭樹と申すあの至極臭い厭やな樹の種子からは、必ず伊蘭樹の生え出づるは当然であるが、决して伊蘭の種子から、あの結搆な栴檀香木の生える例はありません。然るに不思議ではありませんか、唯今は伊蘭の種子から栴檀が生えました。伊蘭と申したは我身であります。栴檀とは私の今得たところの信心であります。して見ますればこの信心は、無根信と申してよかろうと存じます。私は始の間は佛陀を信ずることは出来ませんのでありました。若も私が佛陀に遇い奉らなんだらば、無量永劫無限地獄に沈んで無限の苦みを受けるのであったのに、今幸に佛陀を信ずることを得て、未来永却の大幸福の基が出来ました。実に不思議の中の不思議で御座います。今かく私が佛陀の慈悲に遇いたてまつりて、私の胸の中に与えられたる大善大功徳の佛の御力は、罪悪深重煩悩熾盛の一切の衆生の、悪しき心を破壊して下さるゝと」、感涙に咽ばれた。
佛之を聞き玉ひて誉て日く 。「善いかな、善いかな。実に今汝は、佛陀の大慈大悲の御力は、罪悪深重煩悩熾盛の大罪人大悪人の悪しき心を破壤して下さるということを、深く味ははれた。能う実験された、これは决して大王ばかりの罪が滅びたのではない、尽未来際の一切衆生の悪心を破壤されたのである。大王が助かったのは大王ばかり助かったのではない、一切衆生が助かったのである。大王が逆罪を犯して、助けて貰うたのは、永却の間、五逆罪を犯したる罪人が肋かるという、先達をせられたのである。大王の頂かれたる佛の御慈悲は、一切衆生の悪心が滅されたのであると申された。阿闍世王はこの語を聞て、「ア、有り難いかな、辱い哉。若しかく一切衆生の悪心が破壞せられるならば、私はたとい阿鼻地獄に墮在して無量却の間諸の衆生の為に大苦悩を受けても、苦とは致しません」と云はれた、実にこゝが信仰の極処である。
歎異鈔の眼目は、実にこの処を顕されたのである。即ち第一章には、「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生を、たすけんが為の願にてまします」と云い、第二章には、「たとえ法然聖人にすかされまいらせて、念佛して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさうろう。そのゆえは、自余の行を励みて佛になるべかりける身が、念佛をまうして地獄に堕ちてさうろうとこそ、すかされたてまつりてという後悔もさうらはめ。いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」というが如きは、この阿闍世王の如き罪悪観を起こし来って、絕対の佛の慈愛を蒙りたるものに非ずんば、决して云えぬところである。
私の求道学舍に在りて信仰を得た人が、阿闍世王が、地獄に墮ちて苦しんでも苦とせぬといえる一言を、非常に喜ばれた。実に前には地獄に随つることを愁いて、身心悩乱せる阿闍世王が、佛陀の慈悲を蒙られて後は、地獄に堕ちても苦とせぬとは、如何にも精神状態の大変化である。
度々繰りかえす如く私はこの阿闍世王の苦悶と安心の様子を見て、どうしても他の事とは思えぬ。甚恐多いことであるが、親鸞聖人は、慥にこの阿闍世の告白を以て、直に自己の内心を、如何にも能く描いたものと、考えられたものらしい。実にこの阿闍世の告白は「法然聖人にすかされまいらせて、地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさうろう」といえる信仰と、符節を合はせたるが如くである。私はかつて病気に罹りた時に、実に阿闍世王以上の悪人たることを自覚した。この頃我親友の一人が、偶然の出来事により一大悲観に陥りて、其瞬間に、自己は是阿闍世なりと、確信したと云われたが、親鸞聖人の信仰は、青草人のあらん限りは、つきざる信仰である。
しかるに私、幸に聖人の化導によりて、七年以前に佛の慈愛に接して以来、まことに安心の身にして貰い、殊に彼の「法然聖人にすかされまいらせて、念佛して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」の一言は、私の生命となって下されて、人生如何なる出来事に出遇うても、不幸なる境遇に処するとも、この一言は光を放って、私の生命となって下さるゝ。譬えば日が暮るれば暮るゝ程、明星はいよいよ輝く如く、世の中が暗黒になればなるほど、この一言は益々光を放って永久希望の生命を与えたまふことである。
而してこの永久の生命たるや其時佛が阿闍世にのたまいし如く、一切衆生の平等に授かるべき生命である。果して其時、摩訶陀国の無量の人民、悉く菩提心を発し、阿闍世王及夫人、後宮采女に至るまで、みな菩提心を起したりき。是に於て阿闍世は感謝の涙に咽びつゝ、耆婆に云うて曰く。「耆婆、我れ未だ死せずして天の身を得たり、短命をすてゝ長命を得たり、無常の身をすてゝ常住の身を得たり、諸の衆生をして、無上菩提心を起さしめたり。即ち是れ天の身なり長命なり、常住の身なり、即是一切諸佛の弟子なり」と。
かく語り畢りて阿闍世は、佛陀の御許に、諸の香りある花をさゝげ、妙なる音楽を奏し、偈を説いて感謝の状を披瀝し、佛陀の御徳を讃嘆したてまつりぬ。その偈文に次の如き言葉があった。
如来は一切の為めに、常に慈父母となりたまえり。当に知るべし、諸の衆生は、皆これ如来の御子なり、如来大慈父、衆の為めに苦行を修す。人の鬼魅に著はされて、狂乱して所以おおきがごとし。
実にこの言葉は、何ともいうて見ようのない、有り難い言葉である。如来は一切の衆生の為めに、常に慈悲の父、慈悲の母になりたまう。まさに知るべし、諸の衆生は、皆これ如来の子なり、こゝに至りて佛陀の慈悲は、言語に絕してある。無始曠却より尽未来際の末に至るまで、苟も生きとし生けるもの、男となく女となく、尊となく卑となく、階級の上下に拘らす、智識の有無に関せず、人種の如何を問はず、古今東西、一切の衆生は、皆是れ如来の愛子である。悉くこれ兄弟姉妹である。而して如来は、我々子供の為に、種々の苦労をせられて、信仰に引きつけて下さるゝことは、実に一通りの骨折でない。
私は釋尊の本生譚を見るごとに、如何に佛陀が、菩薩として修行したまえるときに、御苦労下されたかと云うことを思うて、遠き遠き昔より、かくも憐みを垂れたまいたかと胸が塞がることがある。親鸞聖人が、「久遠劫よりこの世まで、あはれみかいれるしるしには、佛智不思議につけしめて、善悪浄穢もなかりけり」と感謝せられたるは、実にこのところである。又法藏菩薩の修行を見るに、「或は長者居士、豪姓尊貴、刹利国君、転輪聖帝となり」とのたまいたるも実にこゝのところである。歎異鈔の結文に、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」とのたまいたも、如来大慈父の御苦労を、親鸞聖人一人に、引受けられたる吿白である。
其大慈父の如来が、衆生を信仰に導くが為に、非常に御苦労下さることは、あたかもこの俗界に於て、慈父が自分の子供の為に、色々と心配をして、撫育して吳れることは、到底尋常一様の他人の心で、推察することは出来ぬ。他人から云えば、すこぶる撞着の行もあろう。他人から云えば、理屈の合はぬこともあろう。他人から云えば、甘やかし過ぎるということもあろう。他人から云えば、却て子の為にならぬとも云うだらう。何の事はない、あたかも人が狐狸につかまれて、釋の解らぬように狂ひ回はると同様に、佛陀の大慈父は、衆生の為めに、出来得るかぎりの善功方便を以て、信仰に導いて下さるのである。実に佛陀が、阿闍世王に対して下したまいたる、大慈悲の徳音は、道理理窟を離れて、唯々満身同情の塊というより外はない。こゝに於てこそ枯木再び花開き、いり豆が再び芽を出した所以である。実にこれ極端なる罪悪観に対して、救済の至極を垂れたまいたる点である。歎異鈔の特徵の第一たる、悪人救済といえることは、以上段々告白懺悔し来りたる事実によりて、私は充分に味はゝして頂きましたゆえ、飾りなく有り体に披瀝したのであります。
第七章 結論
最後に至りて、特に諸君の注意を促がすベき事がある。そもそも以上叙述し来りたる、阿闍世王が無根の信を生ずるに至りたる涅槃経の所説は、いかにも生ける懺悔の標本とも云いつべきものである。而して何人がこの如きの文字に着眼したかを注意せねばならぬ。この文字は、親鸞聖人が、自己の信仰を以て真宗と名け、其根本の書として選述されたる「教行信證」六卷の內、殊に其中心とも称すべき「信」之卷の最後に於て、永々と引用されたる次第である。先づ初めに、聖人自己の胸中を披瀝して、熟誠なる懺悔をさゝげて曰く、
誠に知ぬ、悲しいかな愚禿釋の鸞 愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真證の證に近づくことを快しまざることを、恥ずべし傷むべし、と。
かく簡潔なる文字に、奥深き意義のこもりたる文字を冠らせて、直に引用したまいたるが、即この涅槃経の文字である。私は窃に考ふるに、如何にもこの語気が、阿闍世王の懺悔を以て、聖人自己の懺悔に代えられたるが如く、感ぜざるを得んのである。全体西洋などに於ては、懺悔とか告白とか称して、自己の信仰経歷を写し出すことがあるが、佛教に於てはこの種のものは無いかと考えて居たが、実に親鸞聖人の為され方は、かくの如く不言の間に、自己心中を披瀝されたるものらしい。
かくの如く実験の事実に依らずんば、また救済の利益は顕れぬ、病ありて初めて薬の力を顕はすが如し。故にこの涅槃経の文字を引用し畢りて、其結文に曰く、
こゝを以て今大聖の真説に拠るに、難化の三機難治の三病は、
大悲の弘誓をたのみ利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す。これを憐愍したまう。喩
えば醍醐の妙薬の一切の病を療するが如し。濁世の庶類穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念
すべし。本願醍醐の妙楽を執持すベきなりと。知るべし。
実にこれ実験的信仰を顕はされたる、生ける如き文字である。本願醍醐の妙薬とは、如何にも適切なる言葉である。そもそも醍醐なる語は、涅槃経に於ける五味の譬喩より出でゝ居る、五味の譬と云うは、
牛より乳を出だす、乳より酪を出だす、酪より生蘇を出だす、生蘇より熟蘇を出だす、熟蘇より醍醐を出だす、醍醐最上なり。若服することあるものは、衆病みな除こる、あらゆるもろもろの薬は、悉く其中に入るが如し、善男子、佛も亦かくの如し。佛より十二部経を出だす、十二部経より修多羅を出だす、修多羅より方等経を出だす、方等経より般若波羅蜜を出だす、般若波羅蜜より大涅槃を出だす、なをし醍醐の如し、醍醐というは、佛性にたとう。佛性は即これ如来なり、善男子、かくのごときの義のゆゑに、説きて如来所有の功徳、無量無辺、不可称計とのたまえり。
といえる経説である。古来天台家等に於ては、之を五時八教の教判抔に、あてはめて、解釋することなれども、これは其ように理窟的に解釋しては味がない、明らかに譬にあらはせる如く、佛の直接に説法したまいたる御説話は、牛の乳のようなものである。其十二部経より、後代の文字にあらはれたる契経を生じたのである、これあたかも乳をかためて酪とした如きである。しかるに其契経を味いて、諸佛浄土の広大なる霊界を描き出だしたるは、あたかも酪を煮て生酥を造り出したようなものである。而して其霊界の中より、般若の空智を練り出したるは、あたかも生酥を煮込んで熟蘇を生じたようなものである。しかるにその絕待の真智を結晶せしめて涅槃寂静の歓喜愛楽の境界の味を与えて下さるのは、あたかも熟蘇を遂に精製完成して、醍醐の妙味を造り出だしたるが如くであるという譬喩である。
この如く実に一代佛教の精髓が、結晶され、凝結して、涅槃寂靜歡喜愛楽の醒醐を生じたという、至極実験の味をあらはしたる喩である。而して親鸞聖人の見地よりして見れば涅槃経一部に説きあらはしてある、涅槃寂静歡喜愛楽の醍醐の妙薬は、即ちこれ阿闍世が親り味いたる、金剛不壤の真信、弥陀本願の慈愛の塊りなりといえる御考である。この如く思い切ったる断言は、之を実験したる聖人に非ずんば、到底能はぬことゝ、鑚仰するの外はない。
この如く叙述し来れば、観経に於ける韋提希夫人の得忍、涅槃経に於ける阿闍世王の獲信は、実に実験の信仰の濫觴である。而も煩悶を極めたる女性、逆悪を極めたる罪人の、救済を得たる起源である。故に実験の見地に立てる親鸞聖人は、この事実を以て実に深き意味あるものと為し、佛法の大なる願力も、この王舍城の悲劇ありて、初めて其救済力を実現し来りたるものと感歎せらるゝ。而して王舍城に於ける悲劇は、即ち人生に於ける悲劇にして、苟も人間のあらん限り、必す常に反覆さるべき事実である。假令吾人は、歷史的に之を実現せずといへども、內心の実験としては念々刻々、常にかくの如き悲劇を、人生の上に演じつゝある次第である。この如きの人生、この如きの吾人が、無根信を生じて大安心を得らるゝ所以のもの、実に佛在世に於ける王舍城の悲劇によりて示されたものである。故に親鸞聖人の眼中に映ずる王舍城の悲劇は、唯一時の渺たる歴史上の一事実に非ずして、心霊上の一大事実である。
故に親鸞聖人は、「教行信證」の総序に於て、先づ噶破して、「竊に以れば、難思の弘誓は、難度海を度するの大船無碍の光明は、無明の闇を破するの慧日なり」と、劈頭に於て弘誓の大船、無碍の慧日を揭げ、直に其船に乘じ其日を仰ぎたる実験の事実を挙ぐる為に、「然ればすなはち、淨邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を與ぜしめ、浄業機あらはれて、釋迦、韋提をして安養を欣ばしめたまえり、これすなはち権化の仁、ひとしく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、あまねく謗法闡提を恵まんと欲してなり」と云われたるを見れは、聖人が如何にこの実験的事実に、重きを置かれたるかを知るべきである。この如くこの事実を重く見るときは、この事実の下に、深き意義の横はりてあることを、感ぜずには居られぬ。
即ち親鸞聖人は、この事実に関係して居る善人も悪人も男性も女性も、大王も太子も、臣下も乃至守門者に至るまでも、皆大聖佛陀の権化にして、吾人罪悪深重、煩悩熾盛の衆生を、救済せんが為に、人生の上に演ぜられたる一大活劇であると、信ぜざるを得ぬのである。而してこの奧深き親鸞聖人の観察は、亦吾人が現世に対する、深遠なる人生観を、生じ来る所以である。吾人倩人生を鑒るに、其行路崎嶇として、屈曲複雜を極むといへども、終には萬峰過ぎ来りて茫々たる平地に達し、流水滔々として右に折れ左にめぐり、迂回を極むといへども、終には洋々として大海に注くが如く、人生は畢竟、或は煩悶、或は罪悪、幾多の実験を経来りて、最後に尽十方無碍の光明海中に帰入せしむる活劇たらざるものはない。これ等の深奥なる我が人生上の実験をば「人生問題」の名の下に披瀝する考である。吾人はこの篇の結末として親鸞聖人が、この王舍城の悲劇を詠じ玉いし和讃を拝読して意味深長なるを味ひ奉る次第である。曰く。
弥陀釋迦方便して、
阿難、目連、富樓那、韋提、
達多、闍王、頻婆沙羅、
耆婆、月光、行雨等。」
大聖おのおのもろともに、
凡愚底下の罪人を、
逆悪もらさぬ誓願に、
方便引入したまへり」
懺侮錄 終