「1973年のピンボール」
〜〜〜〜〜〜 1973年9月、この小説はそこから始まる。それが入り口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。 〜〜〜〜〜〜 ある日、何かが僕たちの心を捉える。なんでもいい、些細なことだ。バラの蕾、失くした帽子、子供の頃に気に入っていたセーター、古いジーン・ピットニーのレコード・・・・、もはやどこにも行き場所のないささやかなものたちの羅列だ。二日か三日ばかり、その何かは僕たちの心を彷徨い、そしてもとの場所に戻っていく。・・・・暗闇。僕たちの心には幾つもの井戸が掘られている。そしてその井戸の上を鳥がよぎる。 〜〜〜〜〜〜 「またどこかで会おう。」と僕は言った。 「またどこかで。」と一人が言った。 「またどこかでね。」ともう一人が言った。 それはまるで゜こだま゜のように僕の心の中がしばらくのあいだ響いていた。 バスのドアがパタンと閉まり、双子が窓から手を振った。何もかもが繰り返される・・・・。僕は一人同じ道を戻り、秋の光が溢れる部屋の中で双子の残していった「ラバー・ソウル」を聴き、コーヒーを立てた。そして一日、窓の外を通り過ぎている11月の日曜日を眺めた。何もかもがすきとおってしまいそうなほどの11月の静かな日曜日だった。 〜「1973年のピンボール」より〜 |
「1973年のピンボール」は、村上春樹氏のデビュー作「風の歌を聴け」(1979年出版、群像新人賞受賞)の翌年に出版された2作目である。 「風の歌を聴け」の続編にあたり、『僕』をはじめ、『鼠』、『ジェイ』といった顔ぶれが登場する。全作と同様、いろんな場面の白黒写真を机の上に無造作にばらまいたような、多くの断片からなる小説であるが、通して一つの事を強く匂わせている。それは、「全てのものは僕を通り過ぎていく」ということである。 「通り過ぎていく」という言い方がふさわしいのかどうかわからない。或いは「去っていく」という表現の方がいいのかもしれない。 『双子の姉妹』が『僕』の前から去っていった。『3フリッパーのスペースシップ』が去っていった。『鼠』がこの街を去っていった。そして『一つの季節』が去っていった。 そして、みんなもとの場所に戻っていく・・・・・ 初めは、どうして「1973年のピンボール」という題なんだろうか?と考えた。 1973年はいい。その時代の『僕』に起こった出来事なんだから。 ピンボール・・・もちろん、小説の中に出てくる。 その秋の日曜日の夕暮れ時に僕の心を捉えたのは実にピンボールだった・・・・・・ そして、ピンボールじゃなければならない何かがあるように思えた。 確かに、ジェイズバーにはピンボールとジュークボックスがよく似合う。しかし、『僕』はどうして、ここまで『ピンボール』に夢中になったのだろうか? 3フリッパーのスペースシップ・・・、僕だけが彼女を理解し、彼女だけが僕を理解した。僕がプレイ・ボタンを押すたびに彼女は小気味の良い音を立ててボードに6個のゼロをはじき出し、それから僕に微笑みかけた。僕は1ミリの狂いもない位置にブランジャーを引き、キラキラと光る銀色のボールをレーンからフィールドにはじき出す。ボールが彼女のフィールドを駆けめぐるあいだ、僕の心はちょうど良質のハッシシを吸う時のようにどこまでも解き放たれた。 『僕』という存在と、この『ピンボール』という存在は、非常によく似ている。あるいは『僕』と同義かもしれない。初めに僕は、「通り過ぎていく」という表現を使ったが、『ピンボール』も哀しいほどに「全てのものは通り過ぎていく」という事を経験する存在ではないだろうか。 コインを入れる。 プレイボール・・・・ひとときの酔狂、ゲームにしばし熱くなる・・・・ ゲームオーバー・・・・静寂・・・・・そしてリプレイ。 ある者は楽しい酔っぱらいであり、ある者は酒の飲み方をしらない者であり、ある者はスコアに自分の価値を探している若者かもしれない。 そして、みんな元の場所に戻っていく。その後には何も残らない。勝利もない、敗北もない。歴史もない。未来もない。そして教訓もない。ただ、一つのゲームに興じた痕跡であるスコア、意味のない数字の羅列だけが、まるで駅の片隅にある連絡掲示板のようにひっそりと存在するだけである。 『僕』についても同じである。 そして、すべては繰り返す。そう、゜そして何もかもが繰り返される゜・・・・リプレイ・・・リプレイ・・・ 『ピンボール』が、ゲームを楽しむ一人の世界によって構成され、またその世界はその一人の世界によってのみ存在する、つまり゜含まれている゜ように、『僕』の世界も同様である。 誰をも巻き込まない自分の世界、そしてマシーン。よく似た者同士が自分の存在を確認しあうかのように求めあう。 ある意味それは神聖なものであり、他人には到底理解されえぬものである。 『僕』が『3フリッパーのスペースシップ』に思わぬ形で再会したとき、『僕』はゲームをすることはなかった。 ゲームはやらないの?と彼女が訪ねる。 やらない、と僕は答える。 何故? 165,000、というのが僕のベスト・スコアだった。覚えてる? 覚えてるわ。私のベスト・スコアでもあったんだもの。 それを汚したくないんだ、と僕はいう。 彼女は黙った。そして10個のボーナス・ライトだけがゆっくりと上下に点滅を続けていた。僕は足もとを眺めながら煙草を吸った。 僕たちの心には幾つもの井戸が掘られている。 そしてその井戸の上を鳥がよぎるように、すべてのものは『僕』を通り過ぎていく。多くのものを失い、そしてまた一つの季節が終わりをつげる。そんなふうにして僕達は歳をとっていく。 井戸から出るにしろ、井戸の底にとどまるにしろ、失うものはたくさんある。もちろん何もなければ失うこともない。救いはあるが出口がない。 ゜『僕』は、一体どこに行こうとしているのだろうか゜ それは、「1973年のピンボール」の中で、『僕』が、この僕自身に問いかけた一つのテーマであり、「風」であった。 僕は一体、どこに行こうとしているんだろうか?どこに向かっているんだろうか? そこには出口があればいいと思う。 |