「村上春樹とその世界について考える」

村上春樹クロニクル
「風の歌を聴け」の意味
  「1973年のピンボール」
「羊をめぐる冒険」
 「ダンス・ダンス・ダンス」
     「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」NEW
村上春樹とその世界について書かれた本

 「その他 小説、映画、旅などについて・・・」のページで、若干、村上春樹については触れたが、ここではもう少し深く触れてみたいと思う。

 とは言え、ここで「村上春樹の小説の分析本」のようなものを目指しているわけではない。現に、村上春樹とその小説を分析した書籍は何冊も出版されており、そのいくつかは手にとって少し読んだ事があるし、また買ってしまったこともある。
 そして、それらの本を読んで共通して感じたことがある。

 それは、「村上春樹の小説を、より最適な多くの言葉を駆使して理論的に分析すればするほど、その行為は無意味なものにしかならない。よりリアルにしようとすればするほど混沌の世界に包まれてしまう。どこか壁に描いた餅のように実体性のない、ある種、滑稽な一人相撲のようになってしまう。それよりも、言葉に出来ない「風の歌」のような感触は、その感触のまま受け止めるのが一番である」ということだ。

 「言葉」はある意味で、無意味なものである。
 確かに僕たちを取り巻くこの世界は、多くの「言葉」で意志疎通がなされ、コミュニケーションの手段として不可欠である。しかし、いくら「言葉」を駆使しても伝わらないものがある。それが、僕にとっての「村上春樹の小説の世界」である。「村上春樹の小説でもどんな本でも、「言葉」のつながりであり、その「言葉」によって、あなたは感動を得たんでしょ?」と思われるかもしれない。確かにその通りであるが、村上ワールドの場合、たくさんの「言葉」が作る文章、そしてその文章が作る小説の中には、ひとつひとつの「言葉」が持つ意味とは別の匂いや風、暖かさや心地よさ、という要素が発生するのである。それはどんなものかというのは「僕は具体的かつ理論的には表現できない」。抽象的には表現できるような気がするが。(その表現は、とても僕の個人的なものであるが・・・)

 というわけで、すべての人に理解できる理論的な分析は不可能であるし、したくはない。しごく個人的な意味での表現にはなるが、僕の感じた「風の歌」を僕なりに考えてみたいと思う。

 僕が、村上春樹の小説を初めて読んだのは大学生の頃で、書店で「ノルウェイの森」が売れに売れまくっていた時期からずいぶん経った頃である(僕は、以前読んだことがあったりして、よほど気に入った作家でもない限り、書店に高く積み上げてある新刊を買うことがない)。しかし、多分「ノルウェイの森」という題名には、ずっと気になるものがあったと思う。ビートルズの歌にも同名のものがあるのを知ってたし、実際、「北欧のノルウェイにある森」だとしても、すごく神秘的で、またタブー感のような香り(意味、わかるかなぁ?)を感じたものである。(話はそれるが、本を読む時に、本の題や表紙のイラストなどは意外と重要である。「ノルウェイの森」も「羊をめぐる冒険」も「風の歌を聴け」も、僕的にはすごく魅力的な題名だし、イラストにしても、村上春樹の小説(短編集を除いて)のほとんどをイラストしている佐々木マキさん(絵本作家)はとてもベストマッチであると思う。これ以上のマッチしたイラストはないんじゃないだろうか。)

 そういうわけで、初めて読んだ本は「ノルウェイの森」だった。
 初めて読んだ時は、すごく重たい気分になった事を覚えている。そしてこの時は「ノルウェイの森」をすごく気に入ったわけでもなかった。しかし、この本の中にある、とても純粋な気持(これは年齢とともに風化していくものかもしれない)、そしてどこか疲れた虚脱感、そして「ノルウェイの森」という題から想像できるような(実際、これはビートルズの歌から来ているわけであり、この題名から想像する世界は全く僕の個人的なものであるが)どんよりした重い気持ち、胸を圧迫するような、深い穴に落ちていくような、それでいてどこか出口を探さなければいられないような焦燥感、草原を、そして自分の心を音を立てて吹き抜ける風の音が、まるで不思議な夢を見た後の残余感のように心にこびりついていた。

 それから割とすぐ、「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」を読み、その時になって初めて、僕にとっての「ノルウェイの森」を知ったような気がする。それから2回ほど「ノルウェイの森」を読んだ。もちろん、「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」も読み直した。「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」は、「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」につながっているという以上に、僕の中で大きなつながりを発見した。

 「ノルウェーの森」で、一番、印象深いシーンは、草原の風景。

「でも、今でも僕の脳裏に浮かぶのは草原の風景だ。草の匂い、かすかな冷ややかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず最初に浮かびあがってくる。とてもくっきりと。それらはあまりにもくっきりとしているので、手をのばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思う。どうしてこんなことが起こりうるんだろう、と。あれほど大事そうに見えたものは、彼女やそのときの僕や僕の世界は、みんなどこに行ってしまったんだろう、と。そう、僕には直子の顔を今すぐ思いだすことさえできないのだ。僕が手にしているのは人影のない背景だけなのだ。」

 これは、「ノルウェイの森」の中の「僕」が18年後回想しているシーンだが、この草原の風景(もちろん、この場面はより詳しく小説の中で出てくる)は、僕はとてもリアルに描く事ができた。いや、思い描くというよりも自分の忘れ去った記憶の中に非常によく似た体験があったのかもしれない。あるいは一種のデジャ・ヴュかもしれない。つまり、すすきの穂をあちこちとで揺らせる冷ややかな風、まるで別の世界の入り口から聞こえてくるような小さくかすんだ犬の鳴き声といった触覚、聴覚、そして草原を歩く自分の足の感覚までもがリアルに感じる事が出来た。しかしそれが記憶である可能性がある以上(定かではないが)、限りなくリアルでない世界ともいえた。そして、その記憶は、上記の引用のシーンのように、僕にある種の寂しさと苛立ち、焦燥感をも呼び起こす。「時」というのはある意味で本当に残酷なもので、その時は自分にとって本当に忘れられない大事なものであっても、長い年月は確実にその記憶を風化させていく。初恋の人や心底愛していた人であれ、思いもよらず薄らいでいく記憶に自己不審にも陥ることもある。しかし、人間は弱い存在であるが故に自己防衛本能としてそうなるのかも知れない。これは本当に僕個人的な体験であり、それ故、ここで述べる事がふさわしくないかもしれない。が、このシーンに近いものが、不思議なことに「羊をめぐる冒険」の最後の北海道の小高い山の上にも出現する。

 「つながり」というものが、「ノルウェイの森」にも「羊をめぐる冒険」にも「ダンス・ダンス・ダンス」にも、その他の作品にも、そしてそれはこの「僕」の中にも見られる。その一つひとつをファクターと呼ぶなら、それぞれのファクターは今でも強く「僕」の中で輝いているものもあるし、また、輝きを失ってその認識さえ忘れてしまったものさえある。

 「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」は、僕が長い年月の中でばらまいて来た、そして海の底深くでまだ光を失っていない様々なものを思い出させてくれる。その頃は、もちろんばらまいたという感覚もなく、それなりに真剣であったと思うし、またその光をも認識できなかったような気がする。

 一体、何をしてたんだろうか?と思う時期があり、しかし、よく考えたらそういった時期こそ真剣にいろんな事を考えていたような気がする。限りなく不毛で、限りなく幸せな時期であった。一つの事を築くのに3つのムダをつくり、そしてそれが損得関係なしに幸せだった時代。僕をとりまくすべての世界が平和で優しくてそしてクソッタレの時代。そこから何を学んだ?不毛は不毛だということを学んだ。そういう時代だ。
 それを、僕の中でとてもリアルに、そして今でもそこから何かを生み出そうとする「不毛な努力」をさせてくれるこれらの本を、僕は僕にすごく奨励したい。僕にとっては「広辞苑」よりもはるかに有意義な本である。
 
 「僕」のライフスタイル
 村上ワールドの魅力の一つに、「僕」へのあこがれがある。「僕」はどんな存在だろうか?優等生でもなく、社会にそれほど役立っているともいえず、またそれを少しも望んでいない。しかし、自分のライフスタイルを持ち、自分なりの幸せ感をきちんと持っている。もっと説明するべきことはたくさんあるけれど、読んだ事がある人なら言わずともわかってもらえると思う。こんな「僕」に僕はとても憧れる。

 世間の熾烈な競争という世界から遠い所に自分を置いて、「久しぶりに新聞を買ったが、自分の必要としている記事は一つも書かれていなかった・・・」という生活。

 すごく閉鎖的ともいえるが、考え方次第では周りの世界がおかしいかもしれない。固定観念を持つということは、いろんな可能性を埋没させてしまうことになる。

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