「風の歌を聴け」の意味は・・・

 今、僕は語ろうと思う。
 もちろん問題は何ひとつ解決していないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
                             〜「風の歌を聴け」より〜

 「風の歌を聴け」の表題の意味・・・・それは、僕にとって、まるで宙に浮かぶ細かい光の塵のように、言葉にならない漠然としたイメージを形作っていた。ある評論を読むまでは。
 ここで、ある1冊の本から僕が非常に共感できる部分を紹介したいと思う。それまで、僕が思い描いていたイメージは大きく間違っていなかったものの、この評論により、『漠然とした「もや」でしかなかったものが、もう少し明瞭に輪郭を現せた』・・・そんな感覚を受けた。   (コージ)

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「作品構造から作家論へ 村上春樹 著:柘植光彦 
              『村上春樹スタディーズ01  : 若草書房』より
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 『風の歌を聴け』には、作品世界を読み解くためのヒントが、さまざまなかたちでちりばめられていた。この作品が一人の人間の無意識あるいは深層心理を扱ったものだという、いわば種明かしにあたる表現である。

 ハートフィールドの作品の一つに「火星の井戸」という彼の作品群の中でも異色な、まるでレイ・ブラドベリの出現を暗示するような短編がある。
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 ある日、宇宙を彷徨う一人の青年が井戸に潜った。彼は宇宙の広大さに倦み、人知れぬ死を望んでいたのだ。下に降りるにつれ、井戸は少しずつ心地よく感じられるようになり、奇妙な力が優しく彼の体を包み始めた。
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 風が彼に向かってそう囁いた。
「私のことは気にしなくていい。ただの風さ。もし君がそう呼びたければ火星人と呼んでもいい。悪い響きじゃないよ。もっとも、言葉なんて私には意味はないがね。」
「でも、しゃべってる。」
「私が? しゃべってるのは君さ。私は君の心にヒントを与えているだけだよ。」

 このエピソードには、「井戸」と「風」という2つのキーワードが登場する。そしてこの2つの語は対立的に扱われている。
 このうち「井戸」のほうは、明らかにフロイトのいう「イド」つまり精神分析的に想定された自我のことである。「下に降りるにつれ・・・・・」という一文は、無意識の世界に降りていくときの安らぎの気分を表している。一方、青年が井戸からふたたび地上に出たときに、語りかけてきた「風」とは、いわばユングのいう集合的無意識の声であるといっていい。「しゃべってるのは君さ。私は君の心にヒントを与えているだけだよ」という表現は、その仕掛けに注目させるための、まさにヒントである。
 この小説のなかで、タイトルの『風の歌を聴け』に関する具体的な説明がおこなわれているのは、この部分だけである。そしてここからは、「風の歌を聴くこと」とは集合的無意識の声に耳を傾けることだ、という定義が導き出される。
 作品世界を読み解くためのヒントはほかにもさまざまにある。たとえば、無口な少年であった「僕」が医者の家にかようというエピソードもその一つだ。ここには次のようなマニフェストがある。

 文明とは伝達である、と彼は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。
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 医者の言ったことは正しい。文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことが失くなった時、文明は終わる。パチン・・・・・OFF。


 この医者は「精神科医」であって、少年を治療しているのだ。少年は言語によって外界と接触し、それを理解し受容することはできてが、外界に対してこちらから働きかけることができない。この閉ざされた状態がここでいう「OFF」の世界である。ということは、「ON」の世界とは、この逆の開かれた状態を意味することになるわけだ。
 作品中に何度も繰り返される、おしゃべりなDJの「ON」と「OFF」の世界も、これに近い意味内容をもっているのだが、それは単に「開かれている」「閉じられている」というだけの比喩なのではなく、あくまでも外部の言語と内部の言語という、意識と無意識との対立につながる構図として提出されているのである。
 『風の歌を聴け』の作品構造は、こうした意識世界と無意識世界との対立にあった。人物の構図でいうと、「鼠」は「僕」の故郷の街にとどまることによって、「僕」の無意識、いわば「古い僕」の役割を与えられ、ジェイズ・バーの「ジェイ」は、その両者を引き合わせる役割を与えられた。
 しかし注意すべきことは、この小説ではつねに意識と無意識との交流が図られていることだ。対立しあう断章の交錯も、DJの語りでのONとOFFの急速な転換も、そうした意図の表明である。ということは、この作品を書いている限りにおいての作家にとって、世界とはそのような流通の可能な場として認識されていたということを意味する。2つの領域は、スイッチによって簡単に切り替えることができる。両者のあいだには、乗り越えられないような「壁」はないのだ。
 そしてこの認識の構造から、作家の顔をのぞき見ることは可能だ。ここで作家は、つねに個人的な無意識にこだわりながらも、自分の意志によって現実世界に定着し、他者や事物とにあいだに明確な関係意識を設定しえている。ただし、集合的無意識へのこだわりは一貫して続いている。つまり作家は自分自身で、「風の歌」を聴いている。
 しかも、「書いている限りにおいての作家」というときの「書く」ということの意味は、「文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない」と、冒頭の断章で語られていたのであって、作家は「書くこと」がすなわち世界を認識することだという事実関係を、正確に把握していたのである。 〜 以下略 〜   (柘植光彦)

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 さて、上の引用文の中に出てくる「集合的無意識」について、簡単に触れてみたいと思う。
 ユングの考える無意識とは、下の図のようなものである。
 2・・「意識」の中心にあるのが、1・・・「自我」である。
 そして、心の大部分は、3・4からなる無意識である。
 さらにユングによると、無意識は、3・・・「個人的無意識」と、4・・・「普遍的(集合的)無意識から成ると考えられる。横から見たものが、更にその下の図であり、一番底にあるのが「集合的無意識」である。


 スイス・チューリッヒにある「ユング研究所」の山根はるみ氏は、「ユング心理学(日本実業出版社)」の中で、集合的無意識についてこう語っている。
 「我々には、海の底のように、そして地下水がどこかしらでつながっているように、誰の心にも普遍的に備わっている無意識(集合的無意識)があるというわけです。そして、普遍的(集合的)な無意識は意識から遠く離れていて、意識とは独立して存在しています。無意識は時空を超えたものであり、時間や空間の影響を受けません。それは、あたかも夢の世界と同じです」
 
 『風の歌を聴け』の表題、「風の歌」を、柘植氏が論じているように「集合的無意識の声」として解釈するならば、そして山根氏が言うように「集合的無意識」は「意識から遠く離れていて、意識とは独立して存在している」ならば、自分の「風の歌」を見つける旅に出るのも面白いかもしれない。そしてそれは、まるで『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の一角獣のいる世界のように、全く完全で、そしてつながった世界かもしれない。
 僕にとって、『風の歌を聴け』とは、「自分の普遍的無意識の声を探す旅への一つのヒント(試み)」を与えてくれたような気がする。(コージ)
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 〜結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ〜 (「風の歌を聴け」より)