「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」


 夕闇が街並を青く染めはじめる頃、僕は西の壁の望楼にのぼり、門番が角笛を吹いて獣たちをあつめる儀式を眺めたものだった。角笛は長く一度、短く三度吹き鳴らされた。それが決まりだった。角笛の音が聞こえると僕はいつも目を閉じて、そのやわらかな音色を体の中にそっと浸みこませた。角笛の響きは他のどのような音の響きとも違っていた。それはほのかな青味を帯びた透明な魚のように暮れなずむ街路をひっそりと通り抜け、歩道の丸石や家々の石壁や川沿いの道に並んだ石垣をその響きでひたしていった。大気の中にふくまれた目に見えぬ時の断層をすりぬけるように、その音は静かに街の隅々にまで響きわたっていった。
 角笛の音が街にひびきわたるとき、獣たちは太古の記憶に向かってその首をあげる。千頭を超える数の獣たちが一斉に、まったく同じ姿勢をとって角笛の音のする方向に首をあげるのだ。あるものは大儀そうに金雀児(えにしだ)の葉を噛んでいたのをやめ、あるものは丸石敷きの歩道に座りこんだままひづめでこつことと地面を叩くのをやめ、またあるものは最後の日だまりの中の午睡から醒め、それぞれに空中に首をのばす。
 その瞬間あらゆるものが停止する。動くものといえば夕暮れの風にそよぐ彼らの金色の毛だけだ。彼らがそのときにいったい何を思い何を凝視しているのかは僕にはわからない。ひとつの方向と角度に首を曲げ、じっと宙を見据えたまま、獣たちは身じろぎひとつしない。そして角笛の響きに耳を済ませるのだ。やがて角笛の最後の余韻が淡い夕闇の中に吸いつくされたとき、彼らは立ちあがり、まるで何かを思い出したかのように一定の方向を目指して歩きはじめる。束の間の呪縛は解かれ、街は獣たちの踏みならす無数のひづめの音に覆われる。その音はいつも僕に地底から湧きあがってくる無数の細かい泡を想像させた。そんな泡が街路をつつみ、家々の塀をよじのぼり、時計塔さえをもすっぽりと覆い隠してしまうのだ。

                  『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』より〜

 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、1985年に出版された、村上春樹氏の長編小説であり、『私』の生きる世界と、『僕』の生きる世界が、同時に書かれている二話性の小説である。それぞれの世界は絶妙に繋がっており、『私』と『僕』は同一人物である。

 一見、『私』の生きる世界が現実の世界であり、『僕』の生きる世界は非現実の世界(思念の世界)のようにも思えるが、何度も読み返すうちに、そこには大きな疑問が隠されていることに気が付く。
 それは、僕たちが今生きている世界、『今』を認識しているこの世界が、果たして現実のものなんだろうか?という疑問である。というのも、(これは、僕が「『風の歌を聴け』の意味は・・」でも書いたことでもあるが)僕たちが普段認識している「意識の世界」、つまり「自我」は、我々を形成している人格や心の本当に一部に過ぎないからである。「自我」や「意識の世界」の更に奥深いところには、「無意識の世界」が広がっている。そしてその無意識の世界については、僕たちは普段、存在さえ認識することはない。例え認識することがあったとしてもそれは限りなくデジャビュに近い感覚のものではないだろうか。例えば、こんなこと昔あったような気がする・・・みたいな。
 そして、それ(無意識の世界)は、普段僕たちが認識していないというだけのことであって実はこの小説のように、薄い壁一枚を隔てて、もう一人の『僕』の世界が実は存在しているのかもしれない。あるいは、映画「マトリックス」のように、本当の現実世界は光の宿らない荒廃した世界であり、僕たちが日々生きているこの世界(太陽が昇り、生命が命を営み、日が沈み夜を迎える)こそ、思念の世界であり、また無意識の世界であるという可能性もないではない。

 この小説は、幸か不幸か、あるタイムリミットを境に主人公の意識のスイッチが切り替わり、『私(計算士)』の存在する世界(仮に現実の世界とする)の自我が消滅し、『僕(夢読み)』の生きる思念の世界(世界の終わり)で生きるようになるというものである。同時並行という形で、2つの世界の話が展開するが、そこには様々な繋がりとキーポイントになるファクターを見つけることができる。例えば、2つの世界を結びつけるアイテムの一つに『一角獣』があげられる。『一角獣の頭骨』と言った方がいいかもしれない。その他、図書館の女の子、クリップ、歌、・・・。
 僕にも、もう一つの世界(世界の終わり)があるならば、その世界と今の僕とを結びつけるモノは一体何なんだろうか? 逃避の先にあるもの、或いは、フラストレーションの根元が、僕の無意識の世界においては存在するような気もするし、またその逆、コンプレックスや憎悪するべきものが支配しているかもしれない。どちらにしろ、この意識の世界の中で、きっとその「つながり」となるファクターはどこかに転がっているだろうし、見落とさないようにしたいとも思う。知らない街角で、ふっと自分の心をとらえた古いポスター、その中に何かのヒントがあるかもしれない。

 この小説を読み終わったとき、とても切ない、心が収縮する感覚、それでいて、つかみどころのない浮遊観を感じた。それは単純に、この小説の中の主人公に同情したとかいうのではなくて、自分自身について考えさせられたからである。村上春樹氏の作品はいつもそうだ。問題提起をしているわけでもないのに、村上ワールドを通じて見つめる先は、いつも自分の心の中である。問いかけた矛先はいつも自分に向かっている。そういう意味では、この作品も僕にとっては、すごく「私的」な小説の一つであるし、また何度読んでも(既に3回は読んでしまった)その時その時の自分の心を見つめ(或いは、風の歌に耳を傾け)、考えさせられる作品である。

 興味深いのは、僕にとって、『私』の存在する現実の世界よりも、『僕』の生きる思念の世界(世界の終わり)の方が、読んでいてとても落ちつくし、また小さな波紋がたくさん湧き起こり、心の隅々まで染みわたる情景が多かったという点である。冒頭に紹介した一角獣のいる情景、壁に囲まれた「世界の終わり」、完全であってどこかいびつな世界、影と心をなくした世界の終わりは、僕にとても優しい風と詩的なノスタルジーを感じさせてくれた。僕の中の無意識の世界に、何か共鳴したのかもしれない。