Takayasu Shigeta
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■私とは何だったか、今は何だ?
■The Suzuka English Salonとは?
■プロバス・クラブと私
■音楽修業(ピアノ、フルート、合唱)


 私とは何だったか、今は何だ?(履歴)
 ☆このホームページにお出での方は多少なりとも私、シゲタのことをご存知だと思いますが、もし,もう一寸知りたい(恐らくそんな方はいないと思いますが)と言う方のためです。おそらく誰でもそうでしょうが、年齢を重ねるに従い、もっと端的に言えば将来に向けて生きている時間に限定があり、日々刻々と短くなっていると言う厳粛な事実を認識した時点から、「俺に人生はどうだったの だろう?生きるにふさわしい生命だったのだろうか?」なーんという哲学的というか、役にもたたない自問自答のために、この略歴書を見ることがある。本来は、仕事を探したり、時に頼まれる講演に頼まれた時に提出するために用意したものです。


 [氏名] 重田 隆康 (シゲタ タカヤス SHIGETA TAKAYASU 

 [経歴]
 1936年8月11日       ●東京に生まれる。
 1961年3月31日       ●東京都立大学工学部機械科卒業
 1961年4月 1日    ●本田技研工業株式会社入社
            
  ●工場勤務後、同社外国サービス部勤務中、ヨーロッパ、
アメリカ、東南
               アジアにて海外技術指導にあたる。

 1979年10月           ●ホンダ・アフリカ駐在員事務所(ロンドン)所長として、約6年間ヨーロッパ、
              アフリカでサービス、技術移転、指導にあたる。

 1985年9月      ●新設立の(財)国際交通安全学会鈴鹿国際フォーラム所長として、主とし
              て東南アジアの政府官僚、大学教官、民間企業の中堅幹部に、日本の近
              代化のプロセス、日本の文化を教え、研究する国際協力機関を運営する。

 1996年8月      ●定年退職と同時にシゲタ・オフィス設立

 [現職]  
 シゲタ海外産業開発オフィス 主宰

 (財)国際交通安全学会顧問
 三重大学工学部大学院非常勤講師(国際ビジネス論、科学技術英語)
 国立鈴鹿高等専門学校非常勤講師(機械工学英語)
 金城学院大学講師(非定期)
 日本海外協力事業団(JICA)名古屋センター講師
 鈴鹿西プロバスクラブ会長

 [前公職等]
 (財)国際交通安全学会鈴鹿国際フォーラム所長
 国土庁東南アジア青年産業塾審議委員
 中部産業海外技術移転拠点審議専門部委員
 三重県21世紀政策委員
 三重県国際交流財団理事
 三重県文化振興財団評議委員
 鈴鹿市国際交流協会理事

■The Suzuka English Salon とは?
4年程前に、私のドイツ人の友人、ロルフ・ストロ−マイヤーが 鈴鹿に来た時、鈴鹿市内で独逸語を話す人たちに、そのドイツ人を連れてきてくれと頼まれ、このような地方にも独逸語を話す人がいるのに驚いた。そこで英語を話す人たちのグループもあるに違いないと思い探してみたが結局無かった。
それでは私が 声をかけて始めようと出来たのがこの
The    Suzuka English Salon である。始めた時には、主として、   IATSSフォーラムでお世話になったボランティアの方々でしたが、それ以外に多くの英語を立派に話す方々が、集まり貴重なインテレクチュアルな時間を過ごしている。



その後、本来日本人だけでよいと思っていたが、英語のネーチ ブスピカーや、それ以外の外国籍の方々も集まり、鈴鹿では大変ユニークな活動になっていると思う。毎月第二土曜日午前10:00より、会員の皆さんが集まり、2時間、特定の話題を決めて話したり、時にはお客様を呼び、お話を聴いて英語で質疑応答をすると言うこともあります。
編集しているのが私、重田なので、自分で言うのもなんですが、ニュースレターも好いんじゃないでしょうか。私はいいと思いますが、コンピゥーターのメールで会員に送りますのでお金もかかりません。当初7,8名でしたが、現在は平均14,5名の方がお出でになり、今までのカナディアン・ハウスでは狭くなり、現在はフランス・レストランのドミュニク・デユーセを 会場にしております。12時に通常終了しますが、その後会員全員で昼食を頂きます。
この会が今後どのように発展するかわかりませんが、当分は続くような気がします。ご興味があり、入会希望の方は重田まで連絡ください。
::::shigeta@ceres.ocn.ne.jp:::

■プロバス・クラブと私
プロバスクラブとはプロフェシォナル・ビジネスマンのプロとビジを組み合わせて作った造語で、1965年に英国で誕生し、その後多くの国に伝播していったと言う。
ビジネスの第一線を引退した人達のクラブである。3年程度前に鈴鹿にも出来て、私も最初から会員にもなり、昨年度は会長にも選ばれ、今年(2003)の6月末に任期が終了した。
入会を決意したのは親しくして頂いている方からのお誘いも然ることながら、人間幼児の時から、
老年になるまで,つまり生まれてから死ぬまで、一人では生きて行けぬ、集団を作りその中で、強調したり、妥協したり、争い事をしたり、仲良くしたりしながら生きている「生き物
」であることを痛切に感じ、認識しているからである。生き方も、考え方も、趣味も違う人たちとも、たとえ快適でなくても、交流することが、一人でいるより、より望ましいことを知っているからである。
今後この種のグループは沢山出来ていくことであろう。一つ問題は、日本の都会化された地域に居住する人たちは、お付き合いがあまり上手ではない,ということがあります。
つまりコミュニティの共通要素があまり無い時、成立し難いと言うことがあります。新しいタイプの集団で、今後時間を経るに従い、より賢いあり方が定着していくのではないかと思っています。
今回会長の任務を無事終了し、自ら希望して会報編集をすることになった。ホームページを作ることかなと意欲を燃やしている。



このクラブのもう一つの魅力は国際的な組織であると言うことである。その為に主として英語国であるが、多くの友人との交流がたのしめるということであろう。オーストラリアを主体として、IPN(Informal Probus Network)というメール交換のネットワークがあり、私も現在では数少ない日本人メンバーの一人である

■音楽修業(ピアノ、フルート、合唱)

年を積み重ね、若かりき頃を思い起こしてみるのに、「よくもまあ、無思慮で、軽薄で、無努力で、浅墓なことばかりやってきたなあ...」と考えます。あの時、きちんとしておけば、もっと俺に人生は価値のあるものだったのに。もう遅すぎるな。」なーンて考えることがあります。...いや待てよ。遅くは無いぞ。まだ10年あるぞ。と思って始めたのがフル−ト、そしてピアノ加えて、合唱団での歌唱です。(欲張りすぎていない。ハイ確かに欲張っています。)何故フルートかというと、今から10数年前、IATSSフォーラムの「東南アジアの宴」という会でインドネシアの参加者ジョン・ハティパタが歌を歌い、パリプルナがピアノ、日本人の参加者がフルートを吹いたとき、その美しさに圧倒され、歌とフルートとピアノをやるぞと思いました。それで定年退職後始めたのです。
そのとき思ったのである。健気ににもね。若い時の過ちは繰り返さないぞ。根気よく、合理的にやれば、ピアノもフルートも歌もきっと大成するはずだと。ところが全然ダメなのです。フルートの先生も、ピアノの先生もとても素敵な、ご熱心な方々ですが。どうも生徒がダメ。何度諦めようかと思ったが、そのたびに、挫けずにやろうと思い立ち今日になっています。それで当分続けるつもりです。応援してくれなくてもいいです。ジーと黙って知らない振りをしていてください。


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