Takayasu Shigeta
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鈴鹿発信:鳥のノスタルジア(ホンダINT同好会のウエブ・サイト掲載)

    鈴鹿発信:鳥のノスタルジア--すずめ (1/4)

 先日、鈴鹿でも一番交通の激しい国道23号線の常寿司と既製服ショップ・トリイ(といっても鈴鹿に住んでおられない方にはピンと来ないでしょうが)...その交差点で、信号が変わるのを待っていた。たった1分間のことである。ふと何げなく窓から見ると、あの交通の激しい道路上にスズメが一羽よたよた歩いている。歩いている??雀って飛んだり、ぴょんぴょん跳ねたりするものだが、やはり歩いている。じっと目を凝らすと、生まれたばかりで、飛ぶことの出来ない、子雀なのだ。親鳥からはぐれてしまったらしい。
ふらふら右へ、左へとよろけている。こんなところ
にいちゃ危ない危ない...。是非とも車から降りて拾い上げてやりたくなったが、そんなことは出来ない。車は左右をびゅーん、びーゅん走っているし、私の車の後に数台信号を待っているのだから。後ろから鳴らされた警笛の音でふと自分に戻り、走り出した。一瞬その親からはぐれた哀れな子スズメの身の上を考えていて放心していたらしい...。
 突然親の暖かい保護から放り出されて、唯、おろおろし為
してなすすべを知らないスズメが限りなく哀れに思え、そばにいるのに、それに対して何も出来ない自分に腹だちを感じたが、同じようなことが人間にも多々ある。戦争孤児がそうだったし、駐留軍と日本女性の間にできた混血児達だ。(過去のことをいつまでもこだわっていることが人生の“たそがれ期”を迎えた私の精神衛生上よくないことは判るが、だからこそ余計に気にかかるのかも知れない。[これ私の個人的病気か?それとも一般的高年性悲哀症候群の一つか?] )
 戦火を逃れて、母は私たちを連れ、埼玉県のド田舎に疎開した。2,3年経ち戦争が終わり、更に数年が経った昭和22、3年ごろ、戦争孤児たちが多数近所の百姓屋に貰われてきた。どういう経路で来たのか判らないが、7才くらいから12才くらい。食べさせて貰えるだけで、家事に追い使われた。学校へやって貰えた子。貰えなかった子。女の子達、男の子達。同年代の私は仲良くなった子もいた。然し、2,3年で全部何処へ逃げてしまった。働かないといって暴力を振るわれたり、いじめられたり。シクシク泣いていたのが痛々しく思い出される...。
 その後皆どうしたのかなあ。もう、ゆうに半世紀以上も前の話しだ。私と同じ年代だ。幸せになったのかな...。
道路で偶然に見た迷い子スズメをみて、思わず話しがここまで来てしまった。

     鈴鹿発信:鳥のノスタルジア -- すずめ (2/4)

 前回の続き -- 昭和36年、まだオートバイしか作っていない本田技研工業株式会社に入社。朝霞寮という埼玉県朝霞にある独身寮には入寮した。原則として、大学卒は1年で出なくてはいけないのに、どういう風の吹き回しか寮長にされてしまい、例外的に3年も寮に入っていた。その時知った。あの辺に多数の混血の子供達がいるのを...。キャンプ・ドレークと呼ばれた米軍基地があり朝鮮戦争からヴェトナム戦争終了時に日本へ返還された。白人系もいたしアフリカ系もいた。既にティーンエイジャーである。いつも下を向き、目を人と合わないようにして街を歩いていた。自分達が祝福されない存在であることに既に気付いていたようだ。敗戦後まもない時、白人イコール日本人より優れた民族だという偏見も自然だった当時、白人の顔をした少年や少女が蔑視の苛まされているのは、理解できるようで理解できなかった。経済的に豊かな筈も無く、義務教育を受けていなかったかもしれない。その後、到来した日本の高度成長の波に乗り、宿命に左右されず、立派に生き抜いていると信じたいが。スズメは時として“群集のもてる力強さ”を象徴しているなあと思わせることがしばしばある。私は鈴鹿混声合唱団の一員として練習で毎週、鈴鹿市市民会館に通うが、裏の入口付近の樹木に、何故かスズメの大群が無数の巣を作っている。夕方の7時頃その騒絶たる鳴き声を始めて聞いた人は、その大音響に肝を潰してしまうだろう。そういえば、限りなく続ずく田園には秋になると物凄い数のスズメが群れていた。突然現れると大空を暗くしてしまうように飛び上がったものである。スズメは愚衆を近ずけない孤高な鷲(わし)ではない。鷹ではない。まるで愚鈍だが朴訥な大衆を象徴する力を感じさせる。人間も時にスズメぐらいに大声を張り上げれば、人間の馬鹿な行為(戦争のような)を防げるのに!!  我がスズメに栄光あれ!!いまから3年前このホンダINT同好会が出来たばかりの頃、私がスズメを捕まえる罠をペイント・ブラシで書き、内山良平さんに送った。当時「圧縮」などという技術を知らず、そのまま送ったので、内山さん、開くのに一時間以上かかったと言う。改めて「ご免なさい」。それを吉岡伴明さんが、丁寧に書き直してくれました。3年前の話しです。
これもノスタルジアになりかけてる。月日の経つのは早い。

     鈴鹿発信:鳥のノスタルジア--やまどり(3/4)

夜お宅の庭でふと夜空を見上げたら、そこには大宇宙船が中空に浮いていた!!−−−としたらその驚きは言語に絶するでしょうね。私はほんの一ヶ月ほど前に、サーキット道路から、津のほうに向かう新しい道路でこのやまどりの親子を見たとき感じたのです。
10メートル巾はある新しい舗装道路です。両側にはぼつぼつ住宅が出来始めている。そんな道を朝、いつものとうり私のオフィスに行くべく車で走っていたら、目の前約10メートルのところを見慣れない鳥が数匹の小鳥を連れて小走りに走っている。尾がツーンと長く、鳩より、ははるかに大きいし、だいいいち、体全体が薄茶色でおおわれ、しかもひよこ達も同じ色。一瞬よく宮城のお堀端で話題になるカルガモかとも思ったが、走るスピ−ドが全然違い、はるかに早い。カルガモは私の住んでいる団地のそばの農業用貯水池にもいるが、その子供達は身体をゆすってヨチヨチあるく。私はまるで面前で、奇跡が起きたのではないかと思った。
車をとめで見とれていたのである。
東京から鈴鹿に来て18年間。雉だけでなく、やまどりは数回見るチャンスがあった。山林に囲まれたIATSSフォーラムの裏庭で、ふと何か気配を感じてガラス越しに観るとそこにやまどりの夫婦が息を潜めるようにじっとしている...ということがよくあった。オスは極彩色で、メスは薄茶色の地味な羽の色だ。そのメスが子供を数羽連れて車の交通の激しい道路を、颯爽と横切っているのがあまりにも非日常的で、私にはまるで奇跡のように見えたのだ。
すぐ後ろから来た車にせかされて、数秒後には走り出したが、新鮮な感動でオフィスにつくまで、夢うつつという感じだった。時に自然はあまりにも衝撃的な感動をあたえてくれる。この住宅地での、やまどり親子との遭遇もその一つだ。しかしこのような自然が与えてくれる感動が、急速に消えていくような気がしてたまらない。地球上にいる動物は、人間とねずみとゴキブリ。それとあの大胆不敵なからすだけになったらどうなるんだろう。何?まだ「やまどり」と言われてもぴんと来ない?それなら一万円札の裏を見てください。やまどりの夫婦が描いてあります。何?一万円札持ってない?そういわれても??

       鈴鹿発信:鳥のノスタルジア--つばめ (4/4)

 鈴鹿の中央通りに面して「エイデン」というコンピューター・ストアがある。フラッと入ったが、出る時に、何かしらの気配を感じて振り向いたら、なんと入口のガラス・ドアの真上にある警報機の上にツバメが巣を造り、その中に数羽の孵ったばかりの子ツバメが皆、口をクァーッと開けて親鳥が持ってくる餌を待っているのを見た。エイデンさん。どうしてあの巣を取り壊さずに、あのままにしているんだろう?お客が糞をあびて苦情をいうだろうに?それともあの可愛い子ツバメを殺すことになる巣の取り壊しなど、そんな残酷なことは出来ないというのかな?もっと打算的に、いまどきツバメの巣を見たことの無い客が珍しがって見に来て、売上が伸びる?  ウソー!いずれにせよ、ここ数年間ツバメの巣を見なかった私にとって珍しかったし、その上、子ツバメが餌を求めて、頭一杯に口を開けている様は、月並みな表現ではあるが、全く持って感動的だった。
 思わず立ち止まって、ジーと見ていた。父親か母親かは全不明だが、親鳥が来て餌をやっては、また直ぐに立ち去って行く。見ていてほろりとするくらい「生きること」真剣なのだ。子ツバメも、親ツバメも...。先端技術が一杯のコンピューター・ストアーでツバメの最も原初的な「生命」が見られたということも面白くもあり、また暗示的でもあった。

 さて人間の世界に戻ってみると、現代人は既にあのツバメ達と同じくらい真剣に「生きること」を考えなくなっている。それどころか「生きることに」嫌悪感を感じたり、逆に「殺し合う」ことに夢中になっている。幾千キロも離れた南の国から、幾日もかけてやって来る。やっと古巣に戻って来たら人間共にその巣は壊されていてまた最初から辛抱強く造り直す。そして新しい生命を生みまた南の海を越えていく。そこには人間がもっている生きることに対する懐疑など微塵だにない。超自然なんという意識は毛頭無い彼らは、超自然が与えた生命を唯ひたすら生き抜き、それだけでない。未来に向かって何とか種を維持しよううとして健気なのだ。
ツバメもそうだが、果たしてツバメには人間が持っているような親子の愛情がるとしたら、それはどんな形態なんだろう、彼らの親子の愛情とはどんなどんな意識なのであろう。
 私がツバメという梅雨の到来を知らせる渡り鳥の群との出会いは、私が小学校1年生の時に、現在の東松山市の奥にある母の実家の埼玉県吉見町、当時は北吉見村に疎開した時だった。

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