Takayasu Shigeta
    home Page
(日本語)
    
Page - 3
私の青春とホンダ(これはホンダ定年退職者誌2003年1月号掲載)

35年間のホンダでの生活を振り返ってみて、どうも他の方々のように、「私がいたからこそ、今のホンダがあり得るのだ」「俺はこんな大きな貢献をホンダにしたんだ」と誇りをもって言えるものが何もありません。極めて凡庸で、それどころか極めて愚鈍なサラリーマン生活を送ったようです。「努力しなかったことに、後悔しているか?」ですって?とんでもない、私自身には実に興奮と感激、実に劇的、ドラマチックなサラリーマン生活だったわけです。誰と比べてもちょっと類例がないでしょうね。でも波乱万丈というのは大袈裟かもしれないが、飛躍の前の苦渋に耐える時代もあったことは確かです。
             ●鋳造課技術担当時代
大学を出てホンダで配属された部署が埼玉製作所鋳造課、アルミ・ダイカスト係技術担当だった。今から40年余前、必ずしも快適な職場ではなかった、2000トンの鋳造機械はまるでダイナソウルスのように見えた。怖かった。今のように自動注湯機がない時代、作業員は重量25キロもある溶けたアルミ合金を、鉄の柄杓に汲んで機械に注ぎ込むのである。まさに典型的な3K職場であった。汚かった。危険だった。そして臭さかった。700度近い温度でアルミを溶かすのである。いろいろな雑多なものの焦げる臭い。猛烈な汗の匂い。埼玉と浜松で7年ほど過ごしたが、この近代工業には絶対必要だが、極めて(当時)快適ならざる仕事、外国ではどうやっているんだろう?アメリカでは?ドイツでは?イギリスでは?私は丸善で鋳造に関する外国書籍を注文し、辞書を引き引き読んだがどうもよく判らない。でも不思議に少しずつ判るようになった。この辺が私の一番苦しい時だった。そしてこの頃、じっと耐え忍びながら外国の技術書をただひたすら読んだことが、後の大いなる夢と希望と、限りない充実感への布石になったことを思うと、鋳造技術担当時代は将来への学習と準備の大変な貴重な時代だったと言えよう。     
        ●アフリカ駐在員事務所(ロンドン)時代

1979年、当時のサービスに在籍していた私に声がかかり、今度ロンドンにできるアフリカ駐在員事務所に行ってくれとのこと。アメリカやヨーロッパに送り込むには野暮すぎる重田もアフリカなら間に合うだろうということなのか?当時ナイジェリアを中心に大市場化していったアフリカで仕事が出来るなんて!!私は欣喜雀躍したのである。そこで展開され仕事の詳細は省略して、色の真黒なアフリカ人達との仕事や仕事外での人間的交情、ギリシャ人、キプロス人、アルメニア人、クレタ人、パレスチナ人等々とのふれあいが後々の私を如何に人間的に豊かにしてくれたか、幅広くしてくれたか!少なくとも私はそう信じている。

革命前にトーゴ国のホンダ販売店で密かに働いていた元ガーナの労働大臣を秘密裏にロンドンに亡命させる一助をしたというまるでアクション映画みたいなことをしたこともあった。私の生活はダイナミックで、輝きに溢れ、将にゼニスにあった。しかし、あっという間にアフリカ市場も畏縮してしまい、ロンドンの事務所を閉じて日本へ帰って来たら、アフリカ時代に優るとも劣らない胸躍るプロジェクトが私を待っていた。IATSS(イアツ)フォ−ラムである。

           ●IATSSフォ−ラム時代
これも詳細に触れだすと一冊の本が書けるが、要は本田宗一郎、藤沢武夫さんが寄金を出してくれ東南アジアの中堅の指導者層を日本に呼び、3ヶ月間日本の「近代化のプロセスを」学んでもらいアジア圏の開発途上国の発展に貢献しようじゃないかというプロジェクトである。このプログラムで何百人と言う東南アジアの若者達が鈴鹿にやって来た。皆ピチピチした青年男女だった。また日本も高度成長と急速な工業化社会として、東南アジアの若者にはキラキラ輝いていたのである。私は彼等と一緒に夜を徹して勉強し、遊び、生活を共にした。
気がついたら11年余の歳月があっと言う間に経過ししていった。夢を見ているような年月であった。やはり私はホンダと共に幸せ者だった。

次のページに続く(クリック)

日本語トップページへ

トップページへ