浄土池
浄土池は、室町時代嘉吉年中(1441〜1443)、大柴九郎太夫が、形ばかりあったのに目をつけて拡張した用水池である。当初、人々は、その徳をたたえ、柴が池と呼び、その後、明治の初めから浄土池と呼ぶようになった。
大正13(1624)年の大干ばつに農家も随分困り、伊奈冨耕地整理組合を結成して、大正14(1925)年から昭和3(1928)年まで、用水確保のため、堤塘の抜本改修をしたので、貯水量は増し、耕地全域を潤すことができるようになった。
しかし、堤体の老朽化が進み、漏水量が増加するにつれ、危険な状態になってきた。堤体の安全と用水の確保を図るため、昭和54(1979)年より、鈴鹿市と地元が農林水産省、三重県の助成を受け、県営のため池等整備事業として、抜本的な大改修を行い、昭和58(1983)年3月に完成した。池の堤防に、その碑が2つ建っている。
広い水田(約2000ha)をうるおす稲生の大切な池である。 現在は、上池だけを残し、下池は埋めて、今は職業訓練センター等が建っている。池のまわりは約2kmである。北部水利組合が管理している。

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弁天さん
浄土池の西の岸に、弁財天が水の神様として大切にまつられている。大正14(1925)年に工事をして、元は池の中の島にあったものを、池の西のふちへ移した。 初めて圦を抜く時は、神宮寺の住職と町の代表がお参りする。近隣に住む日比氏の寄進で祠は立派になった。

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今池(馬池)
浄土池の南にある用水池(公用)である。
水源は野田新池及びその付近で、いつも浄土池より早く干上がった。昭和58(1983)年8月、稲生高校設立の際、周辺が整備された。

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稲生高校近くの個人の池である。スイレンの花が咲くすばらしい池である。

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祢宜三昧
祓川池の南東、池ノ下に稲生神官家と神道の家の墓がある。
<稲生穂積墓碑銘>
祓川池の南東、池ノ下の禰宜三昧にある。磯部穂積氏の功績について記されている。
<家譜略>
祓川池の南東、池ノ下の禰宜三昧にある。稲生家76代嗣磯部臣穂積が、代々の宮司職の系譜を記した。

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観音堂
前は、隣の旧共同浴場の軒先に祀られていたが、昭和8(1933)年に自治会で御堂を建てて祀る。
十一面観音は、俗称・火伏観音といわれ、昔からこの地では大火が一度もないという。また、昔、宝山神社に夜となると後光がさすのを釈迦堂・市場の人が見て騒ぎだし、掘ったところ二十五体(一体1p)の仏像が出てきた。一体ごとに姿が変わっている仏である。3月の初午の時に有志が集い神宮寺住職によって法要が勤められている。
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弘法の井戸
弘法大師がこの井戸水で、大般若経を写したと言い伝えられる清泉で、今もこんこんと湧いている。この写経の一部が神宮寺に保存されている。個人宅の敷地にある。

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般若崎
丹生宝山神社旧跡の西の所で、弘法大師が弘法の井戸水を用いて、大般若経をここで写されたという。現存するものは何もない。
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丹生宝山神社跡
一色(稲生西一丁目)の氏神として、宝山に丹生大明神をまつり、牛頭天王もまつっていたが、明治41(1908)年に伊奈冨神社内の豊御崎神社へ合祀された。大正7(1918)年頃、ここの土を売り低くなったが、あとにこの碑を建てた。
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丸岡(がんごう)さん
ほかの場所にあった庚申さん・行者さん・妙見さん・富士山さんが、1カ所に集められて祀られている。8月24日の縁日(地蔵盆)には特に参詣者が多い。
<丸岡地蔵>
この地蔵さんは、お願いをよく聞いてくださるのでお参りの人が多い。

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伊奈冨神社
神代、東(あずま)ヶ岡(鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現せられ、今より遡ることおよそ2100年前の崇神天皇5年、霊夢の神告により勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地を占われ、神路ヶ岡に大宮・西の宮・三大神の三社を鎮祭された。その後、仲哀天皇の御子、品屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕え、雄略天皇5年には数種の幣物が奉納され、主祭神保食神には「那江大国道命」の御神号を賜った。奈良時代天平年間、行基上人が別当寺の神宮寺を建立され、更に平安時代天長年間には弘法大師が参籠の折、菩薩堂を建立して三社の本地仏を祀り、獅子頭を奉納、七島池を一夜にして造られたと伝えられている。貞観7(865)年4月、正五位上より従四位下に進階し(三代実録)、延喜式内社に列せられた。当時の神領は、東は白子、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大な面積であった。鎌倉時代中頃には正一位に進階し、文永11(1274)年三社それぞれに勅額を賜った。以後「正一位稲生大明神」として武門武将の尊信篤く、ことに鎌倉将軍惟康親王は神田220町歩、北畠国司は社領1000石御供田12段を寄進せられ、また江戸時代元文年間(1736〜1741)には、紀伊徳川家より造営料銀22貫を賜り、三社の大造営が行われた。明治期に入ると明治6(1873)年に郷社、同37(1904)年に県社に列せられたが、戦後この制度は廃止され現在に至っている。国・県の指定文化財を多数所蔵している。
国指定文化財・・・・木造扁額(三面)・木造男神坐像
県指定文化財・・・・庭園七島池・獅子神楽・神像13点・淘製三足壷・棟札73枚
弘安3年獅子頭・翁面2面・狛犬・紫ツツジ
勢州稲生村三社絵図
<祭神>
うけもちのかみなえおおくにみちのみこと
大宮・・・・・・保食神那江大国道命
とようかのめのかみ わかむすびのかみ
西の宮・・・・豊宇加能売神 ・稚産霊神
なるいかづちひかりのかみ おおやまつみのみこと
三大神・・・・鳴雷光神 ・大山祇命
伊奈冨神社公式サイト (inou-jinja.com)
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祖師社
稲生民俗資料館の東に隣接する、社家神葬組の祖霊を祀る建物。祖霊のほとんどは、代々の伊奈冨神社社家だが、それ以外の神道の家の祖霊もお祀りしている。
社家神葬組は8月と12月に清掃を行っており、それぞれの家の祖霊祭などはここで斎行する。なお、社家の墓地は「禰宜三昧」をはじめ池の下の墓地と、山脇の墓地とがある。

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稲生郷土資料館
伊奈冨神社の正門の北側に建っている資料館は、稲・麦・菜種・蚕などの農業に関係した展示物が多い。
管理は、鈴鹿市がしている。
<参考ページ> http://www.city.suzuka.mie.jp/life/shisetsu/9208.html
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占木の碑
ここは、伊奈冨神社ができる前、崇神天皇は再三神夢のお告げで、1寸8分の稲籾が現れた後、伊勢国造道上楯並命高向葛木臣を使わされた。そして、三嶺のネムノキを採り霊亀を焼いて伊奈冨神社(大宮・西の宮・三大神)を祀る場所を占った場所である。これにより、ここを占木と名付けた。 ここの碑には、このいわれが記されている。
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西宮池
道をはさんで南と北に池があったが、今は南だけが残っている。80haぐらいの広さで、ハスが見事に咲きそろったこともある。

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西の宮跡
西の宮は、伊奈冨神社(大宮・西の宮・三大神)うちの1つである。本来の西の宮の跡地は、現在の西宮池の東の小高い山の上にあり、現在は個人の土地となっている。ここにあった紫つつじが津市の偕楽公園に移されたという話もある。

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東(あづま)が岡
吾妻が岡とも、あづまさんとも呼ばれる。鈴鹿サーキットの南西の一番高い所(56.8m)で、碑と祠がある。日照り続きの年は、昔から村中が3日かがりでお祈りをして、雨が降るようにお願いした。大正13(1924)年が最後であった。
<神路岡>
伊奈冨神社の由緒について書かれている。社伝によれば、神代、東が岡に御神霊が出現せられ、今よりさかのぼることおよそ2100年の崇神天皇5年、霊夢の神告により勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地を占われ、神路岡に大宮・西の宮・三大神の三社を鎮祭されたのが、伊奈冨神社であるという。

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稲生遺跡(中尾の窯跡)
中勢バイパス建設に伴う発掘で、古墳時代後期(5世紀後半から6世紀前半)の33棟の竪穴住居・須恵器、土師器、有孔円盤、滑石製勾玉などを出土した。稲生1〜4号窯の技術者集団の住居かとも推測される。

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山田池
鈴鹿サーキットのレーシングコース内にある。上・中・下池と3つあったが、中池は埋め立てられた。明治42(1909)年以降の耕地整理の際に、中池を改修し、下池を造成した。戦後、中池の堤や圦を改修した。南部水利組合が管理している。

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大谷池
鈴鹿サーキットのレーシングコース外の南にある。明治42(1909)年以降の耕地整理の際に造った池で、山田池の水を蓄える。南部水利組合が管理している。昭和44年、グラウトポンプによるグラウチング工法という特別の工法で改修工事をした。

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神宮寺
本尊は薬師如来。稲生西二丁目にあり、真言宗古義派である。
45代聖武天皇のお后、光明皇后の発願で行基が各国に一カ寺ずつ施薬寺を建てた。この寺もこのころに建てられたものである。もとは、宮寺で、伊奈冨神社の境内にあってりっぱな建物がそろっていたが、戦国時代に兵火にあって焼けている。その後、末寺であった延命寺の場所(今の場所)へ移り、合併した。江戸時代には、紀州藩の直支配であった。
本尊やその他の仏像は焼けずに残ったので、国指定の3体の仏像や県指定の仏像、その他すぐれた仏像や書状が保存されている。
国指定文化財・・・・木造多聞天立像・木造持国天立像・木造薬師如来立像
県指定文化財・・・・木造男神坐像
<経塚地蔵>
弘安年間(1278〜1286)に興生菩薩が伊勢神宮に参拝された帰りに来寺されたが、その時、裏山に一字一石の経石を埋めて経塚とした。そこに地蔵さんを安置している。ほかに、僧・恵梵の作と伝えられる地蔵講式一巻がある。
 
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観音寺
元伊奈冨神社の境内にあった。准胝(じゅんてい)堂といって馬頭観音を祀っていた。准胝堂というのをいつのまにか巡礼堂と呼び、諸国巡回の者がこの堂に宿泊するようになった。白河天皇(1073〜1085)の時、西国三十三カ所の巡拝が流行し、年々たくさんの巡礼がここに宿泊したと思われる。伝えるところによると、元和年間(1615〜1623)塙田右衛門直行が諸国の大名に豊臣秀頼公に味方して大阪へ入城するようにすすめて歩いたが、塙はその時、僧の姿となって鉄牛と名乗り、この村へも来てこの寺に滞在したことがあったというが、確かな証拠もない。貞享元(1684)年、黄檗僧鉄牛和尚が来て初めて禅宗となり、本尊はその時に変更して、今の支那仏となった。厨子も経机も中国のものである。寺宝に開山鉄牛の肖像(喜多元規画)に鉄牛自筆の賛の軸が保存されている。鰐口の銘には、天明2(1782)寅正月吉日稲生西セ古若者連中とある。また、同年の銘のある半鐘もある。これは、市内三宅町へ移されていたが、戦争時の供出を免れてここへ戻されている。明治維新の時に廃寺となったが、西瀬古で維持し、昭和7年(1932)本堂を新築した。
聖観音菩薩(室町時代の作、寄木造。光背に鏡がつき、飾りがすばらしい。肉髻が高く日本式のものでない。)等あり、文化財として価値のあるものである。また五具足もりっぱな作で、香炉の裏の銘に「勢州奄芸郡稲生村妙応山観音禅寺 貞享3(1688)年丙寅3月吉日」とある。
すぐ東が伊奈冨神社の神主をされていた稲生家で、貴重な書類が保存されていた。この東に元の神宮寺があったという。また、庚申、行者、富士山の御堂、地蔵堂も敷地内にある。
 
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磐長神社の碑
明治39(1906)年、神社合祀により、西瀬古が祀っていた磐長神社も伊奈冨神社に合祀された。その跡地は近くの個人が所有した。

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慈恩寺
昔は、神宮寺六坊の一つ。昔は神宮寺は伊奈冨神社に奉仕していたので、葬儀を扱わなかった。そこで、神主や社家一統は、慈恩寺の檀家であった。
本尊は千手観音菩薩で、恵心僧都の作と伝えられる。江戸時代には寺子屋がひらかれ、読み・書き・そろばんを教えるとともに、学問に関係が深い天神さんを祀った。7月25日には参詣者が多く、花火をあげてにぎわった。
昭和16(1941)年から昭和45(1970)年までは無住で、神宮寺が兼務していた。昭和45(1970)年に新住職が入り、本堂や鐘楼、庫裡など境内地を改修した。
<勝軍地蔵>
かつての住職であった智観の時代に勝軍地蔵を建てた記録がある。智観の先代・寂泉(元禄年間(1688〜1704))と智観の後代忍盛(享和年間(1801〜1803))はわかっているので、この頃のものであると思われる。勝軍の名で呼ばれているように、どっしりとしたその姿はほかでは見られないものである。
 
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福田寺
神宮寺六坊の一つ。本尊は薬師如来で、弘法大師の作という。毎年、3月8日に護摩焚きをして町の安全を祈ってもらう。大永年間(1521〜1527)に稲生城ができ、本尊を城のお守りとした。鰐口は、元禄12(1699)年の銘があり、宝永3年(1606)の鏡も残っている。昭和59(1984)年にお堂を建て替えた。この地を井上という。清い泉がよくわいて共同浴場に使われた。「薬師さん」といわれる。境内には、地蔵菩薩などの小堂がある。
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極楽寺
天台真盛宗で、本尊は阿弥陀如来であり、恵心僧都の作という。恵心僧都が永観2(984)年、伊勢神宮にながくこもって祈願する時に建てられたというが、火災にあっているので元禄以前の確かなことはわからない。寺宝に延命地蔵がある。今のお堂は、昭和7(1932)年に立て直した。昭和46(1971)年に鐘楼堂・庫裡を改築した。
<地蔵>
ここの地蔵は、僧形で宝珠と錫杖を持つ木造の立像である。足元には、ふたりの童子・童女を脇仏とした延命地蔵である。
山門には、別石六地蔵が平成5(1993)年に新しくたてられている。
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成泉寺
伊勢参りの近道として栄えたこの通りのお寺は参詣者も多く、すぐ前の地蔵さんへも多かった。今は真宗高田派。元真言宗で、稲生城を建てるとき、稲生一丁目の西にあった寺(真光寺)をこわして、信徒をこちらへ移したという。また、南陽寺の泉昌庵ともつながりがあったようである。
※ 真光寺(廃寺)
神宮寺六坊の一つ。字松ノ下にあった。通称南条という小さい丘が釈迦堂の西にあって、その南端に建っていたが、大永年間(1521〜1525年)、稲生城を築く時に廃されて、同行十軒余は成泉寺の檀家となり、片瀬同行と呼ばれている。ほかに記録が残っていないので詳しいことはわからない。
<地蔵堂>(中町集会所)
成泉寺の東、中町集会所地内にある。
1体は、円形頭光のりっぱな地蔵菩薩立像である。もう1体は、どっしりと座った石地蔵である。

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稲生城址
天正8(1580)年、北畠氏が討ち取られ、稲生は方々から攻められ、神領もままならなかったので、和田氏の子孫を頼み稲生の地頭と仰き、第2代地頭は和田政盛がを治めた。その子藤盛は、近郷近村を討ち取り、5万石ほどの城主になって上洛し、和田豊前守源藤盛となった。稲生殿と申すのはこれである。稲生城跡は稲生の新城で、元の稲生城は、稲生西二丁目の福田寺にあった。城主和田藤盛が第3代地頭をしていて、伊奈冨神社の改築にも努力したことが、棟札に残っている。藤盛は、滝川一益に攻められて破れ、後に松阪の天花寺氏の征伐の手先となり、曽原(今の一志郡三雲町)で一族が戦死した。子孫は、倉田氏と名乗っていた。
現在、城跡の大部分は、耕地整理によって田畑となっている。令和2〜3(2020〜2021)年、河川改修事業に伴い、残されている段丘端の東西90m×南北150mの高まりが調査されたが、南側の竹藪には土塁のような高まりが残っているが、僅かに中世の土器が出土したのみで遺構は確認できなかった。

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西光寺
浄土宗で、白子の悟真寺との関係が深い。本尊は阿弥陀如来。慶長16(1611)年に、悟真寺第9世深蓮社信誉上人の開基という。
元はここが稲生の墓地であったという。後、西村は墓地を折戸(稲生四丁目)へ移して、そこをまた市場といった。今も墓地として、最も古い五輪塔が残っている点から、鎌倉ごろまで埋葬していた。その後寺を建てたようである。 |
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南陽寺
稲生一丁目(釈迦堂)にある。神宮寺六坊の一つ。本尊の釈迦の像は、まげを結い、宝冠を戴き、大衣をまとう釈迦如来は「宝冠の釈迦」といわれ、多くは鎌倉から室町時代にかけて禅寺等に安置された。像高81p、ヒノキの寄木造、金泥彩。白毫には水晶を入れ、法界定印を結ぶ。体内の朱書銘に「貞和2(1346)年7月17日始之。大仏師堯円」とある。堯円は京都三条仏所に属した仏師である。この仏像は、造られた年代がわかる資料として、また堯円の数少ない作として貴重である。昭和37(1962)年に県の文化財に指定された。「釈迦堂」の地名のもとになっている。もとは、西300mの高台にあったが、稲生城を新しくつくりかえる時にここへ移された。
南朝方の長慶天皇の弟、師成(もろしげ)親王が難を避けて、ここの泉昌庵に住まわれ、準勅選和歌集の新葉集
を写された。
<地蔵半跏像>
藤原時代の作でなかなかしっかりした彫技をみせている。両手足や踏み下げる左足、円相光背、岩座に後に補われたところがあり文化財指定にはされないが、りっぱな像である。
 
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八曇神社跡
稲生一丁目(釈迦堂と市場の間)にあった、東向きのよい森の中にあった神社であったが,明治42年(1909)に伊奈冨神社へ合祀され、あとに大井僊之丞さんが碑を建てた。表に八雲神社旧跡とあり、裏に昭和6年2月16日建之と真宮起雲氏が書いた。
しかし、付近の宅地造成のときに撤去され、現在は石碑の所在もわからなくなっている。

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師成親王の墓
師成親王は、正平16年/康安元年(1361年)摂津住吉行宮で誕生する。後醍醐天皇の孫、後村上天皇の皇子で、長慶天皇の弟にあたる。若年から和歌才能が認められた。やがて出家して臨済宗仏光派に属した。
神宮寺が千草忠顕の系統だったので、南北朝の難を避けて当地へ頼ってこられたようである。具体的な足跡としては、応永30年(1423年)3月に伊勢栗真荘(三重県鈴鹿市)の南陽寺泉昌庵で『新葉和歌集』(富岡本)を書写したという。終焉の地をめぐっては周防説と伊勢説に分かれるが、室町期の文芸研究が進展した昨今では伊勢説が有力である。

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稲生東遺跡
(中村遺跡)
こがね園の団地造成計画に伴い、昭和50(1975)年3月に稲生東遺跡内の河内浦・中村の2地区について発掘調査が行われた。中村地区からは、古墳時代の竪穴式住居3棟、奈良時代の掘立柱建物2棟をはじめ、鎌倉時代の土杭などが見つかり、今から約1600〜700年前にかけて人々か生活していた村の跡であることが確認された。またこの住居跡などからは当時の人々が使用していた多数の食器類のほか、硯などめずらしい出土品も見つかった。出土品の一部は、稲生民族資料館に展示され遺跡の中心部は、今も公園として保存されている。
(河内浦遺跡)
こがね園の団地造成計画に伴い、昭和50(1975)年3月に稲生東遺跡内の河内浦・中村の2地区について発掘調査が行われた。古墳・鎌倉・室町時代の土坑・溝跡。出土物は、土師器(小皿・鍋・甕)・須恵器・山茶碗・山皿・羽釜・天目茶碗・青磁椀。後世の攪乱により住居の検出はできなかったが、鎌倉時代から室町時代が中心となっている。出土遺物は羽釜が多い。
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豊御崎神社跡
御崎の氏神で一の宮といった。明治41(1908)年9月、八幡社など10社ほどと合祀して、伊奈冨神社へ移った。今の社殿は、昭和14(1939)年に大井富蔵さんが建てた。
明治の初めには、ここに稲生小学校が建っていて、明治25(1892)年に移転した。その後、稲生村役場が建っており、また、稲生出張所・公民館が建てられた。平成22(2010)年に稲生地区市民センター・公民館が移転した。現在、豊御崎神社跡の碑や痕跡は残っていない。
<縣社伊奈冨神社旧社号標>
県社は、明治4 (1871) 年に制定された神社社格の一つで、官社以外を諸社とし,それを府社,藩社,県社,郷社に区別した。伊奈冨神社は県社とされたので、ここが旧街道上にあたり、伊奈冨神社へ向かう岐路になるので、そのことを記した碑がここに建てられた。
<伊奈冨神社遥拝所の碑>
ここは、旧街道上にあたり、伊奈冨神社へ向かう岐路になる。この場所は、伊奈冨神社を拝礼する場所とされていた。

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