稲生ふるさとめぐり ガイドマップ

昭和55年(1980)以来、毎年7月下旬に、稲生公民館と稲生郷土研究会主催で行われてきた「ふるさとめぐり」で訪れたおもな場所を紹介します。

稲生ふるさとめぐりのおもな遺跡・文化財等

野村神社 碧(青)石の地蔵 清水公園 寺家池
清水家の墓 祓川池 生水の地蔵 南龍寺
勝手神社 10 白江野用水分水碑 11 野町池 12 浄土池
13 弁天さん 14 馬池 15 今池 16 ねぎ三昧
17 観音堂 18 弘法の井戸 19 般若崎 20 丹生宝山神社跡
21 丸岡さん 22 伊奈冨神社 23 祖師社 24 稲生郷土資料館
25 占木の碑 26 西宮池 27 西の宮跡 28 東が岡
29 稲生遺跡 30 山田池 31 大谷池 32 神宮寺
33 観音寺 34 磐長神社の碑 35 慈恩寺 36 福田寺
37 極楽寺 38 成泉寺 39 稲生城址 40 西光寺
41 南陽寺 42 八雲神社跡 43 師成親王の墓 44 稲生東遺跡
45 豊御崎神社跡 46 甚三塚 47 福楽寺 48 水準基標
49 加和良神社跡 50 加和良神社 51 本照寺

 文字をクリックすると、説明へ を押すと、ここへもどります 

稲生のまちトップページへ
もどる
本照寺のホームペ−ジへ
もどる

 

おもな遺跡・文化財等の紹介

野村神社

 野村の鎮守氏神として祭ったところで、以前は今の樋口久男宅のところにあったという。明治41年(19089月豊御崎神社へ合祀された。後、昭和の初めに分祀して現在の場所に祀られた。 新しい鳥居は中川正二さん夫妻の寄付による。


          
碧(青石)の地蔵

昔、このあたりが鴻鵝野とよばれていたころより碧石の地蔵があった。宝永71710)年、紀州藩から野村へ鳥見役として差し遣された清水家が地蔵堂を建てたという。中野家出身の順証比丘が、元禄81695)年に寄進したのと、清水家が宝暦7(1710)年に寄進したのと2体あり、参詣者が多い。今も百万遍の行事が続いている。また、この御堂には、地蔵さんとは違う一体の像がある。これは、弘法大師の座像で膝の裏面に「文政21819)年516日弘法大師野村地蔵堂 是教妙薫教専如秀」と記されている。その他、鈴の上縁には、「鈴鹿郡原村金光禅寺什物 同村作人七郎右衛門寄進 現住兀曲川代 于時寛文41664年)年78日」とあり、銅製で直径25p深さ20pのものである。ほかに日付の入った仏具もある。木魚は、正面に金盛子と書いてある。香炉は瓦製で菊家紋があり、弘化41847)年末7月と書いてある。

稲生の地蔵さまにもどる

清水公園

清水公園(旧野村神社・清水家屋敷跡)は、平成7(1995)年7月にできた。野村のために努力した清水家と元の野村神社跡にできた公園である。


寺家池

この池は、稲生地区の受益面積はたいしたことなく、主に寺家地区の田に使われるので寺家池という。祓川池から水を引いている。ここから流れ出している川は釜屋川である。現在は、県道645号線(上野鈴鹿線)が池を2分している。



清水家の墓

 野村から野町へ通ずる所にあり。鳥見役であった清水家の墓である。
 野村新田は正保元(1644)年、紀州藩の初代藩主徳川頼宣(南龍公)より野町新田と共に賜った。紀州家家臣、鷹匠・清水政弘は、鳥見役として当地に赴任、以降当家は代々ここに居を構え、紀州候が狩りの時はこれに仕え、平素は飛来する「鶴」の状態を観察し報告する役にあたった。当時、この流域の灌漑用水は潤沢でなく、ひでりの年は水に困り、往々にして祓川池の水について下流域と紛争を生じた。清水家は常に公正な立場で、この紛争を調停し、時に文書を持って紀州藩の役人に申し出る等、野村のために尽力されたのである。



祓川池

神事をする時は、ここでお祓いをし、水をかぶって清めたので祓川池といった。湧き水で冷たく、知らずに泳いでおぼれた人もいた。冬でもめったに氷が張らなかった。
 北より、野町・中・寺家と、3つの圦を順に抜いて使った。日照りの年には、寺家の農家が約束を破って、早く圦を抜いたという事件があった。 

生水の地蔵

祓川池の北にあり、生水のわき出る池にまつられている。御利益が多く、参詣の人が多い。江戸時代に白子の農民が水源を探しにきたところ湧き水を見つけ、白子の方へ溝を掘っている時に、土の中から石仏を掘り出した。そこで、この地蔵さんを祀ったという。
 おそらく、昔の道しるべであった辻地蔵が年を経て土に埋もれていたのではないかと思われる。現在は、籠堂と井戸のある休憩所がある。管理や法要は、南龍寺がしている。

稲生の地蔵さまにもどる


南龍寺

寛文111671)年、紀州藩主であった徳川頼宣(南龍院)(徳川家康の十男)の滅後、特に開墾されたこの野町西宮の地に御魂屋を設けて地蔵院と称して南龍公を奉った。明治61873)年、地租改正により一時は廃寺となったがその後、再建の決議が行われ明治151882)年、白子の悟真寺 服部高忍上人が村人の信仰により浄土宗の寺を再興し「南龍寺」と号した。現在の本堂は大正15(1926)2月に着手して、昭和3(1928)年に完成し落慶されたものである。 
 内陣中央の本尊は阿弥陀如来座像で、印相は「来迎印」の形である。光背は二重円光になっている。両脇には左側に観音菩薩立像と右側には勢至菩薩立像、内陣左側に善導大師坐像、右側に法然上人坐像がある。左端の中央には阿弥陀如来座像が安置されており、印相は「阿弥陀定印」で、光背は唐草模様の舟型光背である。
 北側中央に安置されている厨子には南龍公(徳川頼宣)の位牌が奉られている。また右端正面(南側)には延命地蔵菩薩の石像が安置されており、左横にある位牌棚上段には、極楽浄土から迎えに来る「来迎」を表している阿弥陀如来立像と両脇には左側に観音菩薩坐像、左側に勢至菩薩坐像が安置されている。

<地蔵堂・行者堂>

本堂に安置されている地蔵は、僧形で宝珠・錫杖をもつ座像石仏である。
 境内に地蔵堂と行者堂があったが、どちらも老朽化し、地蔵堂は取り壊されて、仏像は本堂に安置されている。行者堂は、鉄骨の小さな御堂が建てられている。

稲生の地蔵さまにもどる


勝手神社

 明治431910)年に伊奈冨神社へ合祀されたが、昭和の初めに分けられてまつった。八重垣神社・南龍神社が同じくまつられている。手洗水には、宝暦の字が残っている。
 南龍公とは、紀州藩主・徳川頼宣(徳川家康の十男)である。このあたりは紀州藩の土地で、昔は野町は荒れ地で、鷹狩りの場所であった。そのため、鷹の管理をするためにここに住まわせたのがきっかけとなっている。
 近くの「あおい団地」の名は、南龍公(徳川家)の紋所が「葵(あおい)」なので、それにちなんでつけられた。「葵公園」の名前の由来も同様である。



白江野用水分水碑

 野町のすぐ北の末広町の南西にあって、昭和611986)年3月に記念碑を建てている。白子・江島・野町の農民が明治171884)年から協力して鈴鹿川の伏流を17kmにわたって、数年かがりで引いた難工事で、各町名を一字ずつとって名付けた。発起人の苦労や犠牲については、「白江野用水百年史」に詳しく書かれている。白子中学校の北東の碑と、白子小学校の東の碑が、昭和251950)年に建てられた


野町池

野町の田に水をひいているので、野町池という。池は、用水池として大切でよい植物がしげっている。

浄土池

 浄土池は、室町時代嘉吉年中(14411443)、大柴九郎太夫が、形ばかりあったのに目をつけて拡張した用水池である。当初、人々は、その徳をたたえ、柴が池と呼び、その後、明治の初めから浄土池と呼ぶようになった。
 大正13(1624)年の大干ばつに農家も随分困り、伊奈冨耕地整理組合を結成して、大正141925)年から昭和31928)年まで、用水確保のため、堤塘の抜本改修をしたので、貯水量は増し、耕地全域を潤すことができるようになった。
 しかし、堤体の老朽化が進み、漏水量が増加するにつれ、危険な状態になってきた。堤体の安全と用水の確保を図るため、昭和54(1979)年より、鈴鹿市と地元が農林水産省、三重県の助成を受け、県営のため池等整備事業として、抜本的な大改修を行い、昭和581983)年3月に完成した。池の堤防に、その碑が2つ建っている。
 広い水田(約2000ha)をうるおす稲生の大切な池である。 現在は、上池だけを残し、下池は埋めて、今は職業訓練センター等が建っている。池のまわりは約2kmである。北部水利組合が管理している。


弁天さん

 浄土池の西の岸に、弁財天が水の神様として大切にまつられている。大正141925)年に工事をして、元は池の中の島にあったものを、池の西のふちへ移した。 初めて圦を抜く時は、神宮寺の住職と町の代表がお参りする。近隣に住む日比氏の寄進で祠は立派になった。


馬池

浄土池の南にある用水池(公用)である。
 水源は野田新池及びその付近で、いつも浄土池より早く干上がった。昭和58(1983)8月、稲生高校設立の際、周辺が整備された。


今池

稲生高校近くの個人の池である。スイレンの花が咲くすばらしい池である。


祢宜三昧

祓川池の南東、池ノ下に稲生神官家と神道の家の墓がある。



<稲生穂積墓碑銘>      

祓川池の南東、池ノ下の禰宜三昧にある。磯部穂積氏の功績について記されている。



家譜略> 

祓川池の南東、池ノ下の禰宜三昧にある。稲生家76代嗣磯部臣穂積が、代々の宮司職の系譜を記した。


観音堂

 前は、隣の旧共同浴場の軒先に祀られていたが、昭和8(1933)年に自治会で御堂を建てて祀る。
十一面観音は、俗称・火伏観音といわれ、昔からこの地では大火が一度もないという。また、昔、宝山神社に夜となると後光がさすのを釈迦堂・市場の人が見て騒ぎだし、掘ったところ二十五体(一体1p)の仏像が出てきた。一体ごとに姿が変わっている仏である。3月の初午の時に有志が集い神宮寺住職によって法要が勤められている。

稲生の地蔵さまにもどる
弘法の井戸

 弘法大師がこの井戸水で、大般若経を写したと言い伝えられる清泉で、今もこんこんと湧いている。この写経の一部が神宮寺に保存されている。個人宅の敷地にある。

般若崎

 丹生
宝山
神社旧跡の西の所で、弘法大師が弘法の井戸水を用いて、大般若経をここで写されたという。現存するものは何もない

丹生宝山神社跡

 一色(稲生西一丁目)の氏神として、宝山に丹生大明神をまつり、牛頭天王もまつっていたが、明治41(1908)年に伊奈冨神社内の御崎神社へ合祀された。大正7(1918)年頃、ここの土を売り低くなったが、あとにこの碑を建てた
丸岡(がんごう)さん

 ほかの場所にあった庚申さん・行者さん・妙見さん・富士山さんが、1カ所に集められて祀られている。824日の縁日(地蔵盆)には特に参詣者が多い。

丸岡地蔵>

この地蔵さんは、お願いをよく聞いてくださるのでお参りの人が多い。

   稲生の地蔵さまにもどる
伊奈冨神社

 神代、(あずま)ヶ岡(鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現せられ、今より遡ることおよそ2100年前の崇神天皇5年、霊夢の神告により勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地を占われ、神路ヶ岡に大宮・西の宮・三大神の三社を鎮祭された。その後、仲哀天皇の御子、品屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕え、雄略天皇5年には数種の幣物が奉納され、主祭神保食神には「那江大国道命」の御神号を賜った。奈良時代天平年間、行基上人が別当寺の神宮寺を建立され、更に平安時代天長年間には弘法大師が参籠の折、菩薩堂を建立して三社の本地仏を祀り、獅子頭を奉納、七島池を一夜にして造られたと伝えられている。貞観7865)年4月、正五位上より従四位下に進階し(三代実録)、延喜式内社に列せられた。当時の神領は、東は白子、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大な面積であった。鎌倉時代中頃には正一位に進階し、文永11(1274)年三社それぞれに勅額を賜った。以後「正一位稲生大明神」として武門武将の尊信篤く、ことに鎌倉将軍惟康親王は神田220町歩、北畠国司は社領1000石御供田12段を寄進せられ、また江戸時代元文年間(17361741)には、紀伊徳川家より造営料銀22貫を賜り、三社の大造営が行われた。明治期に入ると明治6(1873)年に郷社、同37(1904)年に県社に列せられたが、戦後この制度は廃止され現在に至っている。国・県の指定文化財を多数所蔵している。

   国指定文化財・・・・木造扁額(三面)・木造男神坐像
  県指定文化財・・・・庭園七島池・獅子神楽
・神像13点・淘製三足壷・棟札73
          弘安3年獅子頭・翁面2面・狛犬・紫ツツジ
          勢州稲生村三社絵図

<祭神>
      うけもちのかみなえおおくにみちのみこと
大宮・・・・・・保食神那江大国道命
     
とようかのめのかみ   わかむすびのかみ 
西の宮・・・・豊宇加能売神   ・稚産霊神
     
なるいかづちひかりのかみ おおやまつみのみこと
三大神・・・・鳴雷光神     ・大山祇命

                            伊奈冨神社公式サイト (inou-jinja.com)

祖師社

稲生民俗資料館の東に隣接する、社家神葬組の祖霊を祀る建物。祖霊のほとんどは、代々の伊奈冨神社社家だが、それ以外の神道の家の祖霊もお祀りしている。
 社家神葬組は8月と12月に清掃を行っており、それぞれの家の祖霊祭などはここで斎行する。なお、社家の墓地は「禰宜三昧」をはじめ池の下の墓地と、山脇の墓地とがある。


稲生郷土資料館

 伊奈冨神社の正門の北側に建っている資料館は、稲・麦・菜種・蚕などの農業に関係した展示物が多い。
管理は、鈴鹿市がしている。

 

<参考ページ> http://www.city.suzuka.mie.jp/life/shisetsu/9208.html

占木の碑

ここは、伊奈冨神社ができる前、崇神天皇は再三神夢のお告げで、18分の稲籾が現れた後、伊勢国造道上楯並命高向葛木臣を使わされた。そして、三嶺のネムノキを採り霊亀を焼いて伊奈冨神社(大宮・西の宮・三大神)を祀る場所を占った場所である。これにより、ここを占木と名付けた。 ここの碑には、このいわれが記されている。

西宮池

道をはさんで南と北に池があったが、今は南だけが残っている。80haぐらいの広さで、ハスが見事に咲きそろったこともある。

西の宮跡
 
 西の宮は、伊奈冨神社(大宮・西の宮・三大神)うちの1つである。本来の西の宮の跡地は、現在の西宮池の東の小高い山の上にあり、現在は個人の土地となっている。ここにあった紫つつじが津市の偕楽公園に移されたという話もある。


東(あづま)が岡

吾妻が岡とも、あづまさんとも呼ばれる。鈴鹿サーキットの南西の一番高い所(56.8m)で、碑と祠がある。日照り続きの年は、昔から村中が3日かがりでお祈りをして、雨が降るようにお願いした。大正13(1924)年が最後であった。

岡>
 伊奈冨神社の由緒について書かれている。社伝によれば、神代、岡に御神霊が出現せられ、今よりさかのぼることおよそ2100年の崇神天皇5年、霊夢の神告により勅使参向のもと、「」の地にて社殿造営の地を占われ、神路岡に大宮・西の宮・三大神の三社を鎮祭されたのが、伊奈冨神社であるという。


稲生遺跡(中尾の窯跡)

中勢バイパス建設に伴う発掘で、古墳時代後期(5世紀後半から6世紀前半)の33棟の竪穴住居・須恵器、土師器、有孔円盤、滑石製勾玉などを出土した。稲生14号窯の技術者集団の住居かとも推測される。

山田池

 鈴鹿サーキットのレーシングコース内にある。上・中・下池と3つあったが、中池は埋め立てられた。明治42(1909)年以降の耕地整理の際に、中池を改修し、下池を造成した。戦後、中池の堤や圦を改修した。南部水利組合が管理している。

大谷池

鈴鹿サーキットのレーシングコース外の南にある。明治42(1909)年以降の耕地整理の際に造った池で、山田池の水を蓄える。南部水利組合が管理している。昭和44年、グラウトポンプによるグラウチング工法という特別の工法で改修工事をした。

神宮寺

 本尊は薬師如来。稲生西二丁目にあり、真言宗古義派である
 45代聖武天皇のお后、光明皇后の発願で行基が各国に一カ寺ずつ施薬寺を建てた。この寺もこのころに建てられたものである。もとは、宮寺で、伊奈冨神社の境内にあってりっぱな建物がそろっていたが、戦国時代に兵火にあって焼けている。その後、末寺であった延命寺の場所(今の場所)へ移り、合併した。江戸時代には、紀州藩の直支配であった。
 本尊やその他の仏像は焼けずに残ったので、国指定の3体の仏像や県指定の仏像、その他すぐれた仏像や書状が保存されている。

   国指定文化財・・・・木造多聞天立像・木造持国天立像・木造薬師如来立像  
   県指定文化財・・・・木造男神坐像

<経塚地蔵>
 弘安年間(12781286)に興生菩薩が伊勢神宮に参拝された帰りに来寺されたが、その時、裏山に一字一石の経石を埋めて経塚とした。そこに地蔵さんを安置している。ほかに、僧・恵梵の作と伝えられる地蔵講式一巻がある。

稲生の地蔵さまにもどる
観音寺

元伊奈冨神社の境内にあった。准胝(じゅんてい)堂といって馬頭観音を祀っていた。准胝堂というのをいつのまにか巡礼堂と呼び、諸国巡回の者がこの堂に宿泊するようになった。白河天皇(10731085)の時、西国三十三カ所の巡拝が流行し、年々たくさんの巡礼がここに宿泊したと思われる。伝えるところによると、元和年間(16151623田右衛門直行が諸国の大名に豊臣秀頼公に味方して大阪へ入城するようにすすめて歩いたが、塙はその時、僧の姿となって鉄牛と名乗り、この村へも来てこの寺に滞在したことがあったというが、確かな証拠もない。貞享元(1684)年、黄檗僧鉄牛和尚が来て初めて禅宗となり、本尊はその時に変更して、今の支那仏となった。厨子も経机も中国のものである。寺宝に開山鉄牛の肖像(喜多元規画)に鉄牛自筆の賛の軸が保存されている。の銘には、天明21782)寅正月吉日稲生西セ古若者連中とある。また、同年の銘のある半鐘もある。これは、市内三宅町へ移されていたが、戦争時の供出を免れてここへ戻されている。明治維新の時に廃寺となったが、西瀬古で維持し、昭和7年(1932)本堂を新築した。
 聖観音菩薩(室町時代の作、寄木造。光背に鏡がつき、飾りがすばらしい。が高く日本式のものでない。)等あり、文化財として価値のあるものである。また五具足もりっぱな作で、香炉の裏の銘に「勢州奄芸郡稲生村妙応山観音禅寺 貞享31688)年丙寅3月吉日」とある。
 すぐ東が伊奈冨神社の神主をされていた稲生家で、貴重な書類が保存されていた。この東に元の神宮寺があったという。また、庚申、行者、富士山の御堂、地蔵堂も敷地内にある。

稲生の地蔵さまにもどる

磐長神社の碑

 明治39(1906)年、神社合祀により、西瀬古が祀っていた磐長神社も伊奈冨神社に合祀された。その跡地は近くの個人が所有した。

慈恩寺

昔は、神宮寺六坊の一つ。昔は神宮寺は伊奈冨神社に奉仕していたので、葬儀を扱わなかった。そこで、神主や社家一統は、慈恩寺の檀家であった。
 本尊は千手観音菩薩で、恵心僧都の作と伝えられる。江戸時代には寺子屋がひらかれ、読み・書き・そろばんを教えるとともに、学問に関係が深い天神さんを祀った。725日には参詣者が多く、花火をあげてにぎわった。
 昭和16(1941)年から昭和45(1970)までは無住で、神宮寺が兼務していた。昭和45(1970)年に新住職が入り、本堂や鐘楼、庫裡など境内地を改修した。

勝軍地蔵>

かつての住職であった智観の時代に勝軍地蔵を建てた記録がある。智観の先代・寂泉(元禄年間(16881704))と智観の後代忍盛(享和年間(18011803))はわかっているので、この頃のものであると思われる。勝軍の名で呼ばれているように、どっしりとしたその姿はほかでは見られないものである。
稲生の地蔵さまにもどる

福田寺

 神宮寺六坊の一つ。本尊は薬師如来で、弘法大師の作という。毎年、3月8日に護摩焚きをして町の安全を祈ってもらう。大永年間(15211527)に稲生城ができ、本尊を城のお守りとした。は、元禄12(1699)年の銘があり、宝永3年(1606)の鏡も残っている。昭和59(1984)年にお堂を建て替えた。この地を井上という。清い泉がよくわいて共同浴場に使われた。「薬師さん」といわれる。境内には、地蔵菩薩などの小堂がある。
極楽寺

 天台真盛宗で、本尊は阿弥陀如来であり、恵心僧都の作という。恵心僧都が永観2(984)年、伊勢神宮にながくこもって祈願する時に建てられたというが、火災にあっているので元禄以前の確かなことはわからない。寺宝に延命地蔵がある。今のお堂は、昭和71932)年に立て直した。昭和46(1971)年に鐘楼堂・庫裡を改築した。

地蔵>
 ここの地蔵は、僧形で宝珠と錫杖を持つ木造の立像である。足元には、ふたりの童子・童女を脇仏とした延命地蔵である。
 山門には、別石六地蔵が平成51993)年に新しくたてられている。

 稲生の地蔵さまにもどる
  

成泉寺

 伊勢参りの近道として栄えたこの通りのお寺は参詣者も多く、すぐ前の地蔵さんへも多かった。今は真宗高田派。元真言宗で、稲生城を建てるとき、稲生一丁目の西にあった寺(真光寺)をこわして、信徒をこちらへ移したという。また、南陽寺の泉昌庵ともつながりがあったようである。 

※ 真光寺(廃寺) 
 神宮寺六坊の一つ。字松ノ下にあった。通称南条という小さい丘が釈迦堂の西にあって、その南端に建っていたが、大永年間(15211525年)、稲生城を築く時に廃されて、同行十軒余は成泉寺の檀家となり、片瀬同行と呼ばれている。ほかに記録が残っていないので詳しいことはわからない。

<地蔵堂>(中町集会所)
 成泉寺の東、中町集会所地内にある。
 1体は、円形頭光のりっぱな地蔵菩薩立像である。もう1体は、どっしりと座った石地蔵である。



稲生城址

 天正81580)年、北畠氏が討ち取られ、稲生は方々から攻められ、神領もままならなかったので、和田氏の子孫を頼み稲生の地頭と仰き、第2代地頭は和田政盛がを治めた。その子藤盛は、近郷近村を討ち取り、5万石ほどの城主になって上洛し、和田豊前守源藤盛となった。稲生殿と申すのはこれである。稲生城跡は稲生の新城で、元の稲生城は、稲生西二丁目の福田寺にあった。城主和田藤盛が第3代地頭をしていて、伊奈冨神社の改築にも努力したことが、棟札に残っている。藤盛は、滝川一益に攻められて破れ、後に松阪の天花寺氏の征伐の手先となり、曽原(今の一志郡三雲町)で一族が戦死した。子孫は、倉田氏と名乗っていた。
 現在、城跡の大部分は、耕地整理によって田畑となっている。令和2320202021)年、河川改修事業に伴い、残されている段丘端の東西90×南北150mの高まりが調査されたが、南側の竹藪には土塁のような高まりが残っているが、僅かに中世の土器が出土したのみで遺構は確認できなかった。


西光寺

 浄土宗で、白子の悟真寺との関係が深い。本尊は阿弥陀如来。慶長161611)年に、悟真寺第9世深蓮社信誉上人の開基という。
 元はここが稲生の墓地であったという。後、西村は墓地を折戸(稲生四丁目)へ移して、そこをまた市場といった。今も墓地として、最も古い五輪塔が残っている点から、鎌倉ごろまで埋葬していた。その後寺を建てたようである。
南陽寺

 稲生一丁目(釈迦堂)にある。神宮寺六坊の一つ。本尊の釈迦の像は、まげを結い、宝冠を戴き、大衣をまとう釈迦如来は「宝冠の釈迦」といわれ、多くは鎌倉から室町時代にかけて禅寺等に安置された。像高81p、ヒノキの寄木造、金泥彩。白毫には水晶を入れ、法界定印を結ぶ。体内の朱書銘に「貞和2(1346)717日始之。大仏師堯円」とある。は京都三条仏所に属した仏師である。この仏像は、造られた年代がわかる資料として、また堯円の数少ない作として貴重である。昭和37(1962)年に県の文化財に指定された。「釈迦堂」の地名のもとになっている。もとは、西300mの高台にあったが、稲生城を新しくつくりかえる時にここへ移された。
 南朝方の長慶天皇の弟、師成(もろしげ)親王が難を避けて、ここの泉昌庵に住まわれ、準勅選和歌集の新葉集 を写された。

<地蔵半跏像>
 藤原時代の作でなかなかしっかりした彫技をみせている。両手足や踏み下げる左足、円相光背、岩座に後に補われたところがあり文化財指定にはされないが、りっぱな像である。


稲生の地蔵さまにもどる

八曇神社跡

 稲生一丁目(釈迦堂と市場の間)にあった、東向きのよい森の中にあった神社であったが,明治42年(1909)に伊奈冨神社へ合祀され、あとに大井僊之丞さんが碑を建てた。表に八雲神社旧跡とあり、裏に昭和6216日建之と真宮起雲氏が書いた。
 しかし、付近の宅地造成のときに撤去され、現在は石碑の所在もわからなくなっている。


師成親王の墓
 師成親王は、正平16/康安元年(1361年)摂津住吉行宮で誕生する。後醍醐天皇の孫、後村上天皇の皇子で、長慶天皇の弟にあたる。若年から和歌才能が認められた。やがて出家して臨済宗仏光派に属した。
 神宮寺が千草忠顕の系統だったので、南北朝の難を避けて当地へ頼ってこられたようである。具体的な足跡としては、応永30年(1423年)3月に伊勢栗真荘(三重県鈴鹿市)の南陽寺泉昌庵で『新葉和歌集』(富岡本)を書写したという。終焉の地をめぐっては周防説と伊勢説に分かれるが、室町期の文芸研究が進展した昨今では伊勢説が有力である。


稲生東遺跡

(中村遺跡)

 こがね園の団地造成計画に伴い、昭和50(1975)3月に稲生東遺跡内の河内浦・中村の2地区について発掘調査が行われた。中村地区からは、古墳時代の竪穴式住居3棟、奈良時代の掘立柱建物2棟をはじめ、鎌倉時代の土杭などが見つかり、今から約1600700年前にかけて人々か生活していた村の跡であることが確認された。またこの住居跡などからは当時の人々が使用していた多数の食器類のほか、硯などめずらしい出土品も見つかった。出土品の一部は、稲生民族資料館に展示され遺跡の中心部は、今も公園として保存されている。

(河内浦遺跡)
 こがね園の団地造成計画に伴い、昭和50(1975)3月に稲生東遺跡内の河内浦・中村の2地区について発掘調査が行われた。古墳・鎌倉・室町時代の土坑・溝跡。出土物は、土師器(小皿・鍋・甕)・須恵器・山茶碗・山皿・羽釜・天目茶碗・青磁椀。後世の攪乱により住居の検出はできなかったが、鎌倉時代から室町時代が中心となっている。出土遺物は羽釜が多い。

豊御崎神社跡

 御崎の氏神で一の宮といった。明治411908)年9月、八幡社など10社ほどと合祀して、伊奈冨神社へ移った。今の社殿は、昭和141939)年に大井富蔵さんが建てた。

 明治の初めには、ここに稲生小学校が建っていて、明治251892)年に移転した。その後、稲生村役場が建っており、また、稲生出張所・公民館が建てられた。平成222010)年に稲生地区市民センター・公民館が移転した。現在、豊御崎神社跡の碑や痕跡は残っていない。

縣社伊奈冨神社旧社号標>
 県社は、明治4 (1871) 年に制定された神社社格の一つで、官社以外を諸社とし,それを府社,藩社,県社,郷社に区別した。伊奈冨神社は県社とされたので、ここが旧街道上にあたり、伊奈冨神社へ向かう岐路になるので、そのことを記した碑がここに建てられた。
伊奈冨神社遥拝所の碑>
 ここは、旧街道上にあたり、伊奈冨神社
へ向かう岐路になる。この場所は、伊奈冨神社を拝礼する場所とされていた。

甚三塚

文化年間(18041818)のことである。水争いで、稲生の人が徳田の農民を殺したので、犯人を出せと言ってきかない。犯人の農民は妻子もあり、どうしようと村中で何度も相談したが、よい案がなく困っていたら、釈迦堂で寺子屋の師匠をしていた柴山甚三郎が、妻子もいないので、「わしが身代わりになってやろう。」と言って、徳田の今の農協の辺りで殺されたという。稲生の人は甚三郎の霊をまつって、今も地蔵盆の8月24日に成泉寺住職が参詣し、北町自治会か法要を行っている。甚三塚は、時代の変遷とともに田畑の宅地の整備に伴い、その所在地を転々としてきた。初めは釈迦堂に西に、次に名塚(稲生墓地)、そして農協稲生支店の南東に移った。平成302018)年11月、現在の場所へ移設された。

福楽寺

 寺伝によると、聖武天皇(在位724749)が奈良東大寺大仏建立の際、伊勢神宮に行基菩薩を遣わされた。その途中、当地方に悪疫が流行しているのを見て、行基菩薩はその人々の苦しみを哀れんで自ら薬師如来像を彫刻し、当地へ安置し悪疫退散の祈願を込め開眼供養をなされた。その祈願の効あって悪疫はおさまったといわれる。これが福楽寺の起こりであると伝えられている。昔は壮巌なる堂塔、大伽藍を有していたといわれている。
 またここは、旧字名が塩屋古里と呼ばれていたように、稲生塩屋の元村といわれ、ここに建てられた福楽寺は村の氏寺、本尊薬師如来は氏仏として人々から崇敬されていた。
 織田信長の伊勢侵攻の兵火により堂宇伽藍は消失してしまうが、幸いにも本尊は、難を免れ、仮堂に安置し守り続けられてきた。寛文年間(16611673)に至り、大徳空昭律師は再興を発願して堂宇を再建、興隆に力を尽くされた。当山はこの空昭律師を中興の祖として崇められている。
 現在の本堂は、明治になって再建されたもので、本尊の秘仏薬師如来(30年に1度ご開帳)、千手観音、不動明王、弘法大師等各像が安置されている。
 境内には、大日堂、地蔵堂、行者堂、弁財天堂、牛頭天王、秋葉権現が造立されている。

福楽寺の歌碑>
「身と心 病めるもろ人 救わんと るりの御慈悲 福楽のてら」
 この歌碑は、御詠歌を刻んだものである。

落馬地蔵>
 本能寺の変で織田信長が明智光秀に伐たれた時、徳川家康が居城の岡崎に戻る時、伊賀越えをして稲生に入ったという。その時、塩屋の古里で落馬し、田に落ちたところを近くの百姓が助け、介抱した。その後、その百姓は『疋田(引田)』という姓を戴いたという言い伝えがある。その後、家康が助かった場所に地蔵が建てられていたが、現在は、福楽寺の境内に移設されている。
 別説として、樋口次郎兼光が当地へ来たとき、誤って馬をどぶ田へ入れ非常に困っていた。その時その馬を引き上げた功により疋田という名字をもらい、その田を恩賞として申し受けたという。

稲生の地蔵さまにもどる

水準基標

加和良神社跡から北東、塩屋と寺家の境の農道にたっている。大雨で中ノ川の堤防が切れると、川水が寺家町へ流れこみ大変なことになり,堤防を高く築きすぎると、逆流して水が塩屋の町へ入るので、話し合って堤防の高さを決めたものである。大正3(1914)年6月と書いてある。以前は、あぜ道の道端にあったが、令和420224)年、道路拡張工事に伴って移設された。

加和良神社跡(花の木さん)

昔は、花の木の宮とか、無量寿の森と言っていた。もと、加和良神社がここにあった。大正111922)年に北に約800mの現在の場所へ移設された。移設されるまでは、広い境内であったが、耕地整理で神社あとはせまくなった。今は、碑だけが建っている。木花咲耶昆売命をおまつりしていたので、現在は、花の木さんとよばれている。
 加和良神社は、延喜式内社であり、天平19(747)年『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に,「奄藝郡城上原四十二町 開十五町 未開田代三十七町 四至〔東濱 南加和良社并百姓田 西同田 北濱道道之限〕」と記述のある由緒正しい社である。また、延長5927)年にまとめられた延喜式神名帳には、伊勢国菴芸郡13座の2番目に名が載っている。昔は、加和良神社が当時の浜街道に沿い、伊奈冨神社に参詣する分かれ道にあったと思われる。

加和良神社

 大正111922)年に今の場所へ移るまでは、現在地より南に約800mのあたりにあった。
 加和良神社は、延喜式内社であり、天平19(747)年『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に,「奄藝郡城上原四十二町 開十五町 未開田代三十七町 四至〔東濱 南加和良社并百姓田 西同田 北濱道道之限〕」と記述のある由緒正しい社である。また、延長5927)年にまとめられた延喜式神名帳には、伊勢国菴芸郡13座の2番目に名が載っている。昔は、加和良神社が当時の浜街道に沿い、伊奈冨神社に参詣する分かれ道にあったと思われる。


<ご祭神>

このはなさくやひめのみこと たけうちのすくね こうらたまたれのみこと ほんだわけのみこと
木花咲耶毘売命    武内宿禰   高良玉垂命    品佗和気命
すさのおのみこと やちまたひこのみこと やちまたひめのみこと
須佐之男命  八衢比古命   八衢比売命


本照寺(光明山)

真宗高田派。開基は永正年間(15041520年)である。第1明円上人は、高田本山第10上人が関東より一身田の地に本山を移された時、いっしょに来られた弟子のひとりである。真慧上人がこの地において念仏の教えを伝えられた時、塩屋村63人の檀那が連判して、文亀31503))年、明円に塩屋の古里に来てもらうことになり。塩屋道場を開いたのが始まりである。
 最初、古里土宜清兵衛屋敷の南東に小さな草庵であったが、のちに福楽寺の西隣に屋敷替えをしたという。寛文8(1668)年には、古里より現在の地へ屋敷が移された。末寺はないが、道場が、永正121515)年に中村道場(元は今のこがね園にあり、その後、釈迦堂に移った)、永正21505)年頃に西村鍛冶屋垣内道場(稲生西二丁目)、永正21505)年頃に冨山(稲生塩屋二丁目、今の加和良神社の東?)に道場と3つでき、本照寺傘下であった。

塩屋八景碑>
 平成81996)年の女人講90周年記念碑として山門横に建てられた。
 塩屋八景は、享保51720)年頃に本照寺第12世のが著した「塩屋縁起翁草」にあり、中国洞庭湖付近の名勝を描いた「瀟湘(しょうしょう)八景」か、室町後期か江戸初期頃にできた琵琶湖の名勝を選んだ「近江八景」をもとしたものと思われる。
 日常の何気ない情景から当時の塩屋の地名(古里・高浦・南山・東山・太山・北山)を織り込んで書き記したのが「塩屋八景」である。情景はすっかり変わってしまったが、当時の情景が今でも目に浮かぶようである。

塩屋縁起翁草>
 「塩屋縁起翁草」は、本照寺第12世のが、享保51720)年頃に著したものである。
 この翁草は、本照寺歴代500年の前半を綴るにあたっての唯一の史料である。また、稲生の歴史を知るためにも貴重な史料である。現存しているものは、写本といわれる。上・中・下の3巻に分かれている。
 昭和64(1989)年「稲生郷土誌」を刊行するにあたって、大井好定氏がこの文書を読み、史料として掲載をされた。

本尊阿弥陀如来像>
 本照寺本堂の中尊仏は、寛永191643)年1128日、塩屋里村の住人である疋田源惣右衛門が父の7回忌のために寄進されたという。この本尊は、元暦年間(11841185)の仏師雲慶の弟子安阿弥の作であるとされる。身の丈3尺の金箔の立像で下品上生の印を結んでいる。

内仏阿弥陀如来像>
 本照寺の内仏張り子の阿弥陀仏は、本山第16大僧正の御局幽明院知通専悦大姉の延宝年間(16731681)の自作である。張り子の阿弥陀仏は2体ある。1体は稲生村成泉寺へお渡しになった。また1体は、当寺内院の看経仏として安置したてまつっている。
  ※ 看経(かんきん)・・・・声を出してお経を読むこと。

聖徳太子像>
 本照寺の聖徳太子像は、本山第16世堯円大僧正の御局の延宝年間(16731681)の自作の張り子の太子である。2体ある。1体の未彩色のものは円応村慈教寺へ本照寺第12の代にゆずった。また1体は、本照寺第10霊察の代に当寺の右側の祖師檀に安置した。

教(ぜっきょう)道場像 
 禅教道場の阿弥陀如来像と聖徳太子像である。高田本山の元禄3年(1690)の御公儀宗門帳に{高田宗同村本照寺末寺一禅教道場屋敷御年貢地本尊弥陀真慧筆}とあり、禅教道場は、本照寺の末寺であった。禅教の野袈裟には永正181521)年914日とある。これは、真慧上人の弟子で高田派第11上人の御真筆である。この野袈裟は、現存していない。
 禅教道場の聖徳太子像は、南無仏太子の像である。575(敏達4)年、太子が2歳の時の姿である。この年の2月15日釈尊入滅の朝の夜明け前,一人目を覚ました皇子は東方に向かって小さな手を合わせ,「南無仏」と念仏を唱えたという。このとき,それまで握りしめていた仏舎利が地面に落ちた。この仏舎利が法隆寺にあるらしい。夜明け前に念仏を唱えることは7歳になるまで続いたと言われている。 その時の姿は、頭を丸め、上半身裸で、腰から下に赤い裳をまとった姿として鎌倉時代以降の像に造られた。

冶屋垣内道場像>
 鍛冶屋垣内道場の本像阿弥陀如来像である。真宗の本尊として典型的なお姿の像。寄せ木造りで、眼に玉がこめられている。袖口にひだを重ねるなど、鎌倉時代の作風をよく表していて、おそらく一流の仏師が制作したものと見られる。ただ彩色だけは後世にやり直している。
 稲生西村の鍛冶屋垣内道場は、本照寺の末寺である。本山第12上人の時の髭道場である。その時の野袈裟はなくなっている。年号は天文81539)年128日であった。今の御袈裟は、本山第16上人の御真筆である。天和21682)年528日、本照寺下と書き付けがある。

六字名号など>
 野袈裟の裏書きに「文亀31503)年316日塩屋道場直参衆 釈真慧法印これを書す」と書かれ、また、六字名号一幅は、上人の御真筆である。また方便法身尊形の裏書きにも、「永正元(150438日持ち主塩屋道場直参明円 釈真慧法印これを裏書す」と書かれている。


<稲生墓地(名塚)(なづか)>

名塚とは、名号(みょうごう)塚からかわったものであるという説がある。今は、稲生町、野村町の多くがここを使っている。台風などで痛んでいたので、昭和491947)年に修復をした。また、昭和501948)年1113日、墓地建設委員会が発足し、墓地周辺を整備して、ブロック塀で囲み、新しく墓地を造成して要望に応えるようにした。
  現在は、墓地管理組合(稲生8か寺)が管理をしている。平成242012)年、西水屋は三商・鈴木孝氏の寄贈、東水屋は墓地管理組合の費用で整備をした。その後も、墓地管理費や寄贈によって墓地整備をすすめている。
 戦没者墓地には、56基の石碑がある。

六地蔵>
 ここには、前後2列2組の舟形浮き彫り別石の六体地蔵がある。2組あるのは、昔は各所に散在していたので、どこかの墓地から移されたものだと考えられる。中央にある少し大きい石仏は、丸彫り立像の延命地蔵である。

稲生の地蔵さまにもどる

<塩屋の墓地>

字名、ノ山にある。塩屋区が管理をしている。戦没者墓地には、32基の石碑がある。塩屋より出屋敷した野村の墓も近年まであったが、今は稲生墓地に移っている。
 
参道入口西には、「寂本善空尼尊」がある。むかしから安置されていた石仏がいたんでいたので、昭和561954)年に新しく建てられた。この尼僧についての詳細はわからないが、むかし古里にあった長命寺と関係があるのではと思われる。

六地蔵>
 塩屋墓地の入口に六体地蔵がある。別石丸堀立像で、舟形浮き彫りではない。中央は延命地蔵である。昔、ここは稲生寺家の山道と野村鴻賀との山道であり、以前から自然の四つ辻に地蔵がおいでになったので、「地蔵の辻」といわれていた。

稲生の地蔵さまにもどる

<野町の墓地>

 野町の西方にある。戦没者共同墓地もある。
野町墓地は、現在より北の方にあったが、国道23号バイパスの建設にあたり、移転することとなった。約3億円の補助をうけてできたものが現在の墓地である

六地蔵>
 野町霊苑の入口に六体地蔵がある。舟形浮彫別石六地蔵である。

稲生の地蔵さまにもどる
<歯痛地蔵>

 昔、神戸から稲生を抜けて伊勢参りする街道に祀られている古い地蔵である。この地蔵にお願いすると歯痛が治ると古くから言い伝えられている。現在は、Fマート西、コメダコーヒーの北にある。
稲生の地蔵さまにもどる