稲生ふるさとめぐり ガイドマップ

昭和55年(1980)以来、毎年7月下旬に、稲生公民館と稲生郷土研究会主催で行われてきた「ふるさとめぐり」もすでに24回目となりました。この間に訪れた場所を紹介します。

稲生ふるさとめぐりのおもな史跡

野村神社 青石の地蔵 清水公園 寺家池
清水家の墓 祓川池 生水の地蔵 南龍寺
勝手神社 10 白江野用水分水碑 11 野町池 12 浄土池
13 弁天さん 14 馬池 15 今池 16 ねぎ三昧
17 観音堂 18 弘法の井戸 19 般若崎 20 丹生宝山神社跡
21 丸岡さん 22 伊奈冨神社 23 祖師社 24 稲生郷土資料館
25 占木の碑 26 西の宮池 27 西の宮跡 28 吾妻が岡
29 稲生遺跡 30 山田池 31 大谷池 32 神宮寺
33 観音寺 34 磐長神社の碑 35 慈恩寺 36 福田寺
37 極楽寺 38 成泉寺 39 稲生城址 40 西光寺
41 南陽寺 42 八雲神社跡 43 師成親王の墓 44 稲生東遺跡
45 豊御崎神社跡 46 甚三塚 47 福楽寺 48 水準基標
49 加和良神社跡 50 加和良神社 51 本照寺

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おもな史跡の紹介

野村神社
とくがわよりのぶ うじがみ             こず
徳川頼宣と氏神をまつっている。古図によると以前は、もう少し北にあっ
とりい                                              こうがの
た。鳥居も新しい。(中川正二さん夫妻の寄付)野町も野村も昔、鴻鵞野
 
(高賀野とも書く)という野を、徳川頼宣が開発させてよい田畑ができた。
             すみつ 
開発に
関するお墨付きや水争いの古文書が今も大切に保存されている。
          
うらには、シロヤマブキがあり、黒い実をつけている。


青石の地蔵
      じゅんしょうびく                                   ほうれき
中野家出身の順証比丘が、元禄8年(1695)に寄進したのと、清水家が宝
                       
ひゃくまんべん
7年に寄進したのと2体あり、参詣者が多い。今も百万遍の行事が続いて

いる。こんなりっぱなお地蔵さんはめずらしい。
                           こうぼうだしい
この御堂には、地蔵さんとは違う一体の像がある。これは、弘法大師の座像

で膝の裏面に「文政2年(1819)5月16日弘法大師野村地蔵堂 是教妙薫

教専如秀」と記されている。ほかに日付の入った仏具もある。

(詳細は、「稲生郷土誌」254ページ)

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清水公園(旧野村神社・清水家屋敷跡)

平成7年(1995)7月にできた。野村のために努力した清水家と元の野村

神社跡にできた公園で、樋口武光さんの寄進された地所である。


 

寺家池
                  じけいけ 
この池は、主に寺家の田に使われるので寺家池という。いろいろな植物・こ

ん虫・魚がみられる。



  清水家の墓

とりみやく
鳥見役をつとめた清水家は、野村の水争いの時、苦労して話しをまとめたと

いう古文書が残っている。その子孫は伊勢市に住んでいる。



生水の地蔵
はらいがわ          しょうず
祓川池の北にあり、生水のわき出る池にまつられている。
ごりやく        さんけい
御利益が多く、参詣の人が多い。江戸時代に白子の農民が水源を探しにきた

ところ湧き水を見つけ、白子の方へ溝を掘っている時に、土の中から石仏を

掘り出した。そこで、この地蔵さんをまつったという。

おそらく、昔の道しるべであった辻地蔵が年を経て土に埋もれていたのでは
             こもりどう
ないかと思われる。現在は、籠堂と井戸のある休憩所がある。


(詳細は、「稲生郷土誌」253ページ)

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なんりゅうじ
南龍寺
              なんりゅうこう とくがわよりのぶ
浄土宗。野町の開発に骨を折った南龍公(徳川頼宣)をまつっている。
                   

明治15年(1882)に、元地蔵院と呼ばれた廃寺再興した。本尊は阿弥陀

如来。境内には。
行者堂・地蔵堂がある。

キンモクセイの古木がめずらしい。

<南龍寺の地蔵>

本堂に安置されている地蔵は、僧形で宝珠・錫杖をもつ座像石仏である。

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かって
勝手神社
     いのう                   ごうし
明治43年(1910)に伊奈冨神社へ合祀されたが、昭和の初めに分けられ

          やえがき      なんりゅう
てまつった。八重垣神社・南龍神社が同じくまつられている。近くの「あお
             なんりゅうこう もんどころ
い団地」の名は、南龍公の紋所が「あおい」なので、それにちなんでつけら
                ほうれき
れた。手洗水には、宝暦の字が残っている。



白江野用水の分水の碑
             すえひろ                                  きねんひ
野町のすぐ北の末広町の南西にあって、昭和61年(1986)3月に祈念碑

を建てている。白子・江島・野町の農民が明治17年(1884)から協力し

て鈴鹿川の伏流を17kmにわたって、数年かがりで引いた難工事で、各

町名を一字ずつとって名付けた。発起人の苦労や犠牲については、「白江

野用水百年史」に詳しく書かれている。白子中学校の北東の碑と、白子小学

校の東の碑が、昭和25年(1950)に建った。



野町池

野町の田に水をかけるので、野町池という。池は、用水池として大切でよい

植物がしげっている。



浄土池
しばがいけ                                  おおしばくろうだゆう
浄土池は、もと柴が池といった。大柴九郎太夫が、形ばかりの池であったの

を、改修して、今のような大池としたので、柴が池といった。広い水田(約

2000ha)をうるおす稲生の大切な池で、大正14年(1925)から昭和2年

1927)にかけて、大改修をして、耕地整理をしたので、農家はたいへん

助かった。後に、堤もいたみ、水もれもしたので、昭和55年(1980)か

ら昭
和57年(1982)まで、県税で大改修してさらによくなっている。池

の堤防に、その碑が2つ建っている。上池だけを残し、下池は埋めて、今は

職業訓練センター等が建っている。浄土池には、ヒシ・ノハナショウブ等の

沼沢植物があり、よい資料となっている。池のまわりは約2kmである。



弁天さん

西の岸に、弁天さんが水の神様として大切にまつられている。大正14年

1925)に工事をして、元は池の中の島にあったものを、池の西のふちへ

した。初めて圦を抜く時は、神宮寺の住職さんと町の代表がお参りする。
           ほこら
日比氏の寄進で祠は立派になっている。



馬池

浄土池の南にある用水池で、水鳥が生息し、ヒシやツツジグサなど水草も多

かったが、今はたいへんかわってしまった。



今池

稲生高校近くの個人の池であるが、スイレンの花が咲くすばらしい池であ

る。

 

 



祓川池
                           はら                       はらいがわいけ
神事をする時は、冬もここでお祓いをし水をかぶって清めたので祓川池とい

った。湧き水で冷たく、知らずに泳いでおぼれた人もいた。冬でもめったに
                           のまちど   なかど  じけど
氷が張らなかった。北より、野町圦・中圦・寺家圦と、3つの圦を順に抜い

て使った。日照りの年には、寺家の農家が約束を破って、早く圦を抜いたと

いう事件があった。


ねぎさんまい
祢宜三昧
はらいがわいけ
祓川池の南東に、神主さんや神道の人の碑や墓がある。神主さんの家柄を書

いた碑や穂積さんの碑が建っている。



観音堂
              ぜんしょうあん                       
50年ほどの前に善性庵(一色の元の共同浴場の東がけの上にあった)の仏
                             じゅうちめんかんのん ひぶせかんのん
像をここに移したという。ここには、十一面観音(火伏観音とよばれてい

る)と、25仏と、水子地蔵がまつられている。

火伏観音のおかげで、昔から一色には大火事が一度もないという。

25仏は、宝山神社から夜になると御光がさすのを見つけて大騒ぎとなり、

掘ったら25体の小さな仏が見つかった。立派なお姿の仏さまでそれぞれが

違ったよいお姿である。

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弘法の井戸
こうぼうだいし             だいはんにゃきょう
弘法大師がこの井戸の水で大般若経を写されたという。きれいな湧き水であ
                                      じんぐうじ                            しゃきょう たいか
る。この写経の一部が今も神宮寺の保存庫に納められている。写経の大家、
たなかかいどう
田中塊堂の研究書の写真にも出ている。


はなざき
般若崎
こうぼうだいし はんにゃきょう
弘法大師が般若経をここで写された。


にうたからやま
丹生宝山神社あと
                              うじがみ             にうだいみょうじん        ごずてんのう
一色(稲生西一丁目)の氏神として、宝山に丹生大明神をまつり、牛頭天王
                                    とよのみさき     ごうし
もまつっていたが、明治41年に伊奈冨神社内の豊御崎神社へ合祀された。

明治40年頃、この土を売り低くなったが、あとにこの碑を建てた。



がんこう
丸岡さん

伊奈冨神社の境内地にある。この地蔵さんは、お願いをよく聞いてくださる
                                  こうしん    ぎょうじゃ    ふじやま    
のでお参りの人が多い。ほかの場所にあった庚申さん・行者さん・富士山さ

んが、約70年前そばに集められてまつられている。
           めいにち じぞうぼん
8月24日の命日(地蔵盆)には特に参詣者が多い。
(詳細は、「稲生郷土誌」253ページ)

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うらき
占木の碑

伊奈冨神社の南西の伊勢鉄道のガード下に建っている。元の位置より少し西

に移ったが、お宮をどこに建てたらよいかと、ネムノキと亀の甲を焼いて占

ったので、占木という地名がついた。この辺りの田も占木という名がついて

いる。江戸時代に東京で成功した一色の出身、秋田太左衛門・彦兵衛の親子

が建てた碑で、大きなネムノキが植えてある。



いのう
伊奈冨神社
けいだい
境内が広くて、戦前は17haを越えていたという。今は10haほどである。
さいじん
祭神は、以下のとおりである。
     うけもちのかみ     なんおおくにみちのみこと
大宮・・・・・・保食神   ・那江大国道命
     とようかのめのかみ   わかむすびのかみ 
西の宮・・・・豊宇加能売神・稚産霊神
     なるいかづちひかりのかみ おおやまつみのみこと
三大神・・・・鳴雷光神  ・大山祇命
         ぼさつどう
米の宮・・・・菩薩堂
                           うし たつ ひつじ いぬ
祭は4月16日で、3年に一度の、丑・辰・未・戌の年は大祭の舞年で、参

詣の人が特に多い。指定の文化財は次の通りである。

獅子舞・・・・・・・・県文化財指定(昭和38.1.11)

4頭が舞い、口取り・後舞いは少年・幼児が受け持って舞うのは他と異なっ

ている。曲は静かで、古風で上品で、他の地方の舞いのもととなっている。

今までは、北は桑名、南は伊勢まで出向いて舞いをした。21人という大勢

で奉仕をした。

三社絵図・・・・・・市指定(昭和57.7.27)

三社の絵の他に稲生城も描かれている。

扁額三面・・・・・・国の文化財に指定されている(明治45.2.8)

文永11年(1274)に後宇多天皇からいただいた「正一位稲生大明」を、

尊寺経朝(正三位藤原経朝)が、楷書・行書・草書の三体で書いた額で、

経朝は、当時日本一の書家で、世尊寺流の元祖である。
とうせいさんそくこ
陶製三足壷・・・・県文化財指定(昭和45.2.25)

嘉禎2年(1236)(後堀河天皇の御代・鎌倉中期)の作で、白子の有力者

が寄進したもので、大祭に御輿が出る時は、稲生城主の跡継ぎが、これを捧

持したという。

棟札・・・・・・・・・・県文化財指定(昭和62.3.27)

棟札73枚で、一番古いのは応永15年(1408)からあり、造営の様子、

寄進した人、奉仕した人の様子がよくわかり、大切な史料となっている。

庭園・・・・・・・・・・つつじ山県指定(昭和12.6.30)、七島池(昭和57.4.27)

七島池の造り方が古い形式としてめずらしい。津の公園のつつじは、江戸時

        とうどうたかとら
代の殿様、藤堂高虎へ200本差し上げたものである。

神宝19点・・・・県指定(昭和37.2.14)

主な物は、能面2(室町時代のもの)、獅子頭(県下最古で弘安3年のも
        
すじんてんのう
の)、男神坐像(崇神天皇の像といわれ平安後期の作)、ほかに随神像があ

り、広い境内には、歌碑・句碑・頌徳碑3・招魂碑等多い。

<参考ページ>http://www.gtoweb.com/native/spot6_15.htm

             http://www.gtoweb.com/native/back12.htm

             http://www.hyakugo.co.jp/mie/02/04/page03.html

                            http://maikoh.net/image/sponsor/matsuri2002/inou/



稲生郷土資料館

伊奈冨神社の正門の北側に新しく建っている資料館は、野町・塩屋・希望ヶ

丘等に多くて発展した瓦の展示と、農作物の中でも稲・麦・菜種・解雇に関

係したものの展示が多い。

<参考ページ>http://suzuka.cool.ne.jp/kenhaku/suzuka/inou/inou.html

           http://www.city.suzuka.mie.jp/life/shisetsu/9208.html


そし
祖師社

資料館の東北に建っているのは、祖師社といって、なくなった神道をまつる

ところである。



観音寺

稲生西二丁目のお寺で、古くからまつられていて、今は自治会がまもってい

る。古いお寺であり、大切なものが保管されている。すぐ東が伊奈冨神社の

神主をされていた稲生家で、貴重な書類を保存されていた。
           じんぐうじ
この東に元の神宮寺があったという。

<観音寺境内の地蔵>


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稲生城址

説明の柱が立っている南の方に、稲生の新城があった。今はすっかり田に変
                                              ふくでんじ
わっているが、元の稲生城は、稲生西二丁目(中瀬古)の福田寺にあった。
     わだふじもり じとう
城主和田藤盛が地頭をしていて、伊奈冨神社の改築にも努力したことが、棟
                     たきがわかずます                       てんけいじ
札に残っている。藤盛は、滝川一益に攻められて破れ、後に松阪の天花寺氏
  せいばつ                そはら
の征伐の手先となり、曽原(今の一志郡三雲町)で一族が戦死した。末子

は6才であったので殺されずに、伊勢の津田城へもらわれていったという。

子孫は、倉田氏と名乗っていた。明治43年(1910)、伊奈冨耕地整理の

時に
堀も埋めて田とした。五輪の塔が残っていて、その一部が福田寺にあ

る。伊奈冨神社の絵図には、城がはっきりと書いてある。その近くには、城

屋敷・馬場・倉屋敷・門前・小門前等の地名が残っている。耕地整理するま

でのことで、陸軍の秋の演習で、夜、兵隊が掘と知らずに飛び込み、ずぶぬ

れになったことがあると聞いている。

稲生城を築く時、寺が城の東にあっては守りにくかったためか、真光寺は成

泉美寺へ、南陽寺は釈迦堂へ移した。

 <参考ページ>http://www.edu.city.suzuka.mie.jp/museum/site100/0380.htm


ふくでんじ   えんせいざん
福田寺(薗井山)(薬師さん)
                                 こうぼうだいし
真言宗で神宮寺の末寺。本尊は薬師如来で、弘法大師の作という。毎年、3
       ごまた
月8日に護摩焚きをして町の安全を祈ってもらう。大永年間(1521〜

1527)に稲生城ができ、本尊を城のお守りとした。わに口は、元禄12年

1699)の銘があり、宝永3年(1606)の鏡も残っている。昭和59年

(1984)にお
堂を建て替えた。この地を井上という。清い泉がよくわいて

共同浴場に使われた。

<福田寺の地蔵>


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ごくらくじ   さいしょうざん
極楽寺(西照山)
てんだいしんせい                                         えしんそうず
天台真盛宗で、本尊は阿弥陀如来であり、恵心僧都の作という。恵心僧都が

永観2年(984)、伊勢神宮にながくこもって祈願する時に建てられたとい

うが、火災にあっているので元禄以前の確かなことはわからない。寺宝に延

命地蔵がある。今のお堂は、昭和7年(1932)に立て直した。昭和46年
         しょうろうどう くり
(1971)に鐘楼堂・庫裡を改築した。

<極楽寺境内の延命地蔵・六体地蔵>

ここの地蔵は、僧形で宝珠と錫杖を持つ木造の立像である。

足元には、ふたりの童子・童女を脇仏とした延命地蔵である。

山門には、別石六地蔵が平成5年(1993)に新しくたてられている。


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慈恩寺(雲林山)

真言宗古義派、本尊は千手観音菩薩で、恵心僧都の作と伝えられる。江戸時

代には寺子屋がひらかれ、読み・書き・そろばんを教えるとともに、学問に

関係が深い天神さんをまつった。7月25日には参詣者が多く、花火をあげ

てにぎわった。


<慈恩寺の勝軍地蔵と境内内外の地蔵>

かつての住職であった智観の時代に勝軍地蔵を建てた記録がある。

智観の先代・寂泉(元禄年間(1688年ころ))と智観の後代忍盛(享和年間

(1801年ころ))はわかっているので、この頃のものであると思われる。

勝軍の名で呼ばれているように、どっしりとしたその姿はほかでは見られな

いものである。



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磐長神社の碑

稲生城の北勢の守護神としてまつられていたが、明治41年(1908)9月

日に伊奈冨神社の八幡社へ合祀しされた。大井幸雄家の北のすみにまつっ

てあった。今残っている碑は、鈴木家が、この宮地の一部を借り受けて医者

として奉仕していたことから、鈴木源吉氏が買い取ってそのいわれを碑に残

したものである。



西の宮池

道をはさんで南と北に池があったが、今は南だけが残っている。80haぐら

いの広さで、ハスが見事に咲きそろったこともある。



西の宮跡

西の宮の跡の森は、今はグリーンヒルになっている。宮のあとには、トウカ

エデの大きな木が育っている。


あづま
吾妻が岡

国が岡とも書く。普通、あづまさんと呼ぶ。鈴鹿サーキットの南西の一番

高い所(56.8m)で、碑と祠がある。日照り続きの年は、昔から村中が3日

かがりでお祈りをして、雨が降るようにお願いした。大正13年が最後であ

った。


                 かまあと
稲生遺跡(中尾の窯跡)

古い窯跡が2,3カ所あって、古い焼き物が見つかったことがある。



山田池

鈴鹿サーキットの中に上池・中池・下池の3つの池があって、山田池と呼ん

でいたが、今は中池はなく2つである。


大谷池

明治の終わりに耕地整理をした時に造った大切な用水池で60haある。



とよのみさき
豊御崎神社あと

今の出張所公民館の所にあり、御崎の氏神で一の宮といった。明治41年

(1908)9月、八幡社など10社ほどと合祀して、伊奈冨神社へ移った。

今の社殿は、昭和14年(1939)に大井富蔵さんが建てた。

明治の初めには、ここに小学
が建ち、後、村役場が建っていた。

神社あと(公民館)   いまの神社(伊奈冨神社内)

       


じょうせんじ  うんえきざん
成泉寺(雲液山)

稲生二丁目(中町)にある。

伊勢まいりの近道として栄えたこの通りのお寺は参詣者も多く、すぐ前の地

蔵さんへも多かった。今は浄士真宗高田派。元真言宗で、稲生城を建てると

き、一丁目の西にあった寺(真光寺)をこわして、信徒をこちらへ移したと

いう。また、南陽寺の泉昌庵ともつながりがあったようである。

大きなボダイジユがある。

<中町集会所(成泉寺の前)にある地蔵>

1体は、円形頭光のりっぱな地蔵菩薩立像である。

もう1体は、どっしりと座った石地蔵である。


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神宮寺(福満山)

本尊は薬師如来。稲生西二丁目にあり、真言宗古義派である。
        きさき こうみょうこうごう 
45代聖武天皇のお后、光明皇后の発願で行基が各国に一カ寺ずつ施薬寺

を建てた。この寺もこのころに建てられたものである。

もとは、宮寺で、伊奈冨神社の境内にあってりっぱな建物がそろっていた

が、戦国時代に兵火にあって焼けている。その後、末寺であった延命寺の場

所(今の場所)へ移り、合併した。江戸時代には、紀州藩の直支配であっ

た。本尊やその他の仏像は焼けずに残ったので、国指定の3体
の仏像や県指

定の仏像、その他すぐれた仏像や書状が保存されている。

境内には、古い雌株のソテツがあり、毎年のように大きな花を咲かせてい

る。


<神宮寺の経塚地蔵>

弘安年間(1278〜1286)に興生菩薩が伊勢神宮に参拝された帰りに来寺され

たが、その時、裏山に一字一石の経石を埋めて経塚とした。そこに地蔵さん

を安置している。ほかに、僧・恵梵の作と伝えられる地蔵講式一巻がある。

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なんようじ
南陽寺(梅松山)(釈迦堂)
                          りんざいしゅう                ほうかん  
稲生一丁目(釈迦堂)にある。もとは臨済宗の寺。本尊の釈迦の像は宝冠を
                                       ぶっし ぎょうえん         
かぶった釈迦如来像で貞和2年(1346)の時、京都の仏師尭円の作である。

昭和37年に県の文化財に指定された。「釈迦堂」の地名のもとになってい

る。
             
もとは、西300mの高台にあったが、稲生城を新しくつくりかえる時にここへ

移された。
      もろしげしんの
南朝方の師成親王が朝廷合体後、危険を感じてこの寺へ身をかくされた時
じゅんちょくせんしゅう
准勅撰集の新葉集に移された。
この寺のソテツは、みごとな雄株で大きく古い。

<地蔵半跏像>

藤原時代の作でなかなかしっかりした彫技をみせている。

両手足や踏み下げる左足、円相光背、岩座に後に補われたところがあり文化財

指定にはされないが、りっぱな像である。


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やくも
八雲神社跡

稲生一丁目(釈迦堂と市場の間)にある。東向きのよい森の中にあった神社
                            いのう      ごうし          おおいせん 
であったが,明治42年(1909)に伊奈冨神社へ合祀され、あとに大井僊
のじょう
丞さんが碑を建てた。表に八雲神社旧跡とあり、裏に昭和6年2月16日

建之と真宮起雲氏が書いた。


もろしげしんのう
師成親王の墓

                                      ごりん
稲生一丁目(市場)にある。渥美良次家の北に五輪の塔がたっている。

師成親王の字はないが、渥美家がずっと守っていてくださる。


さいこうじ       こうんざん
西光寺(孤雲山)
                                       ごしんじ
稲生一丁目(市場)にある。浄土宗で、白子の悟真寺との関係が深い。本尊
             けいちょう
は阿弥陀如来。慶長16年(1611)に、悟真寺の信誉上人の開基である。

元はここが稲生の墓地であったので、古い五輪の塔が残っている。

市場は古くから墓があって、市場が発達した。後、西村の人は墓地折戸

(稲生四丁目)へ移ったので、そこをまた市場と呼んでいた。



稲生東遺跡

こがね園の中、中央公園と東公園の二か所。こがね園を造る時、古い時代
                    
のものが多く見つかった。北からは、平安後期から室町後期のもの、南から

は、古墳時代から奈良平安時代のものが見つかり、ここが、5世紀から15

世紀までの住居の跡であったことがわかった。

こがね園の街路樹は、さつきの上に、200本あまりのすばらしいセンダン

の並木道となっている。初夏には美しい花をつけ、よいにおいを放ってい
       おうち
る.昔は棟とよんでいた。


じんざづか
甚三塚

稲生二丁目(農協稲生支店の南東)にある。水争いで、稲生の人が徳田の農

民を殺したので、犯人を出せと言ってきかない。稲生の農民は妻子もあり、

どうしようと村中で何度も相談したが、よい案がなく困っていたら、釈迦堂

で寺子屋の師匠をしていた柴山甚三郎は、妻子もいないので、「わしが身代

わりになってやろう。」と言って、徳田の今の農協の辺りで殺されたとい

う。文化年間(170年前)のことである。稲生の人は甚三郎の霊をまつ

って、今も8月24日に北町(稲生三丁目)か法要を行っている。


ふくらくじ   とうこうざん
福楽寺〈東光山〉

稲生塩屋二丁目にある。真言宗で、本尊は薬師如来。火渡りの行事が毎年

(7月14日、天王祭)行われるようになった。古くからのお寺で、加和良

神社との関係が深かった。

境内の歌の碑には

身と心 病めるもろ人救はんと るりの御慈悲 福楽のてら

とある。ナギの木(マキの仲間)がある。

<福楽寺の地蔵>


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  かわら
加和良神社旧跡(花の木さん)
              むりょうじゅ
花の木の宮とか、無量寿の森と昔はいっていた。もと、加和良神社がここに
                          このはなさくやひめのみこと
あった。広い森にあったという。木花咲耶昆売命をおまつりしていたので、

花の木さんとよぶ。栄地区や寺家地区がすぐそぱにある。

大正11年に今の場所へ移るまでは、広い境内であったが、耕地整理で神社

あとはせまくなった。今は、碑だけが建っている。


すいじゅんきひょう
水準基標

加和良神社あとより北東、塩屋と寺家の境の農道にたっている。大雨で中ノ

川の堤防が切れると、川水が寺家町へ流れこみ大変なことになり,堤防を高

く築きすぎると、逆流して水が塩屋の町へ入るので、話し合って堤防の高さ

を決めたものてある。大正3年(1914)6月と書いてある。近くになつか

しい夏の花が咲いている。


かわら
加和良神社

大正11年(1922)10月1日、花の木さんからこちらへ移った。式内加

良神社という碑が入り口にたっているように、古くからの神社てある.大

きなヤマモモがある。


ほんしょうじ  こうみょうざん
本照寺(光明山)

稲生塩屋二丁目にある。浄土真宗高田派。もとは古里にあって、後、今の所

へ立派に建てたという。本尊は阿弥陀如来。450年ほど前にできた。
                  えいせい
末寺はないが、道場が永正年間(1504〜1520)に中村道場(元はこがね園
                               かじやがいと              
にあり、その後、釈迦堂に移った)、西村鍛冶屋垣内道場(稲生西二丁目)
                       ぜっきょう
、冨山(稲生塩屋一丁目)に禅教道場と3つあった。
                     
ゆうべん     しおやえんぎおきなぐさ
門の所に塩屋八景の碑が建っている。第12世融弁上人(「塩屋縁起翁草」

の著者)の作である。昭和61年3月16日に建った。ここのボダイジユ

も大きくなって、直径20cmぐらいになっている。




<名塚>(なづか)

塩屋口バス停前にある墓地である。

ここには、前後2列2組の舟形浮き彫り別石の六体地蔵がある。

2組あるのは、昔は各所に散在していたので、どこかの墓地から移されたもの

だと考えられる。

中央にある少し大きい石仏は、丸彫り立像の延命地蔵である。

むかしは、墓地が散在していた。市場に墓地があって、そこで市が開かれたの

でそれが現在の「市場」の地名となった。その後、西村の墓地は今の希望ヶ丘

へうつったので、そこがまた市場とよばれている。

また、成光はこの場所を使っていたようである。名塚とは、名号塚からかわった

ものであるという説がある。

今は、稲生町の成光・西村、野村町の多くがここを使っている。

約30年前に台風などで痛んでいたのを、昭和49年(1947)に修復された。

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<塩屋の墓地>

東の山にある。

入口に六体地蔵がある。別石丸堀立像で、舟形浮き彫りではない。

中央は延命地蔵である。

参道入口西には、「寂本善空尼尊」がある。むかしから安置されてい

た石仏がいたんでいたので、昭和56年(1954)に新しく建てられた。

この尼僧についての詳細はわからないが、むかし古里にあった長命寺

と関係があるのではと思われる。

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<野町の墓地>

野町の西の方にある。

入口に六体地蔵がある。舟形浮彫別石六地蔵である。

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<久住屋菓子舗近くの地蔵>

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